新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

いまからお前の生存戦略を告げる。

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「社会はどのようにして若者を洗脳するのでしょうか?」

         ー 日本の場合は給料を低く抑えることで。

                         ask.fm

説明が足らなかった。

 

日本の社会が若者の給料を低く抑える狙いは主にふたつあるとにらんでいる。

 

ひとつは、若いうちに充分な対価を与えないことで、「俺は損をしている。いつかそれを取り返さなければならない」という思いを抱くようになった若者は早々に飛び出していくことをしなくなる。

社会(もちろん「会社」と読み替えてもいいが)に「貸し」があるならば、それを回収するためには、ここで頑張って十二分に対価を得られるようにならなければ損だ。

ここを飛び出せば社会に対する不良債権は流れてしまう。

 

「埋没費用」(サンク・コスト)が人間の心理におよぼす影響は、このように経営者ならずともよく理解しておくことが大切だ。

「いまここでやめると返ってこないコスト」は常に存在する。

だがそれは往々にして、「このまま続けても、どうせ返ってこないコスト」だったりする。

これを回収することを念頭に置いていると、ひとも企業も判断を誤ることが多い。

ときとしてその導く結果は致命的だ。

焦げた事業というのは要するに巨額の埋没費用でたたり神になった乙事主様みたいなものであって、本来これは始末するしかない。

だがひとというのはこれに「鎮まりたまえー!鎮まりたまえー!」などと叫び続けてさらに費用と時間を投下する。

あらたな世界のあらたな社会でやり直すあらたな自分に投下すれば、綺麗なキャッシュフローを生んだ可能性もある費用と時間とを、だ。

「若い内に支払われなかった対価」は、若者にとり埋没費用の重量をもって彼らを社会に(またはしつこいようだが会社に)引き留める効果をもっている。

 

日本の社会が若者に充分な対価を支払わないのにはもうひとつ狙いがある。

それが彼らの自尊心を傷つけ、多くの場合完全に剥奪するのに優れた手段だからだ。

*     *     *     *     *

「生存、戦略ーッ」

しばしば唐突に私が叫ぶこのセリフは、アニメ「輪るピングドラム」(マワル・ピングドラム)の決めぜりふである。

2010年代では歴史的な名作だったと私が謳ってはばからないこの物語は、親から「愛している」と云われたことがないために、何者にもなれず社会をさまよう若者たちをめぐる狂騒曲だった。

無条件に愛されることを知らず育ったひとは、自分を愛する術を知らず、自尊心を喪失している。

ピングドラム」ではこうした「きっと何者にもなれない」人々が、16年前に地下鉄丸ノ内線で起きたテロの犠牲者となって消えた少女・荻野目桃果が自分たちのなかに残した甘美な承認から離れることができず、過去を生き続けているところから始まる。

自尊心を獲得できず、「何者にもなれない」と思い込んだ子どもたちのエゴがシュレッダーで裁断されていく屠殺場「こどもブロイラー」へ運ばれた幼い日のヒロイン・陽毬(ヒマリ)が、のちに兄となる晶馬(ショウマ)に救い出されるシーンで、毎回必ず泣く。DVDをそこだけ再生しても泣く。

 

「運命の果実を、一緒に食べよう」

「選んでくれて、ありがとう」

 

・・・・・・・・・・。

 

失礼。

不治の病でついに命の火が尽きた陽毬に憑依し、冠葉(カンバ)と晶馬の双子の兄に「妹の命を救いたければピングドラムを手に入れるのだ」と命じる高飛車なプリンセスは何者か、そして「ピングドラム」とは。

私はネタバレを悪いことだと思っていないので云ってしまえば、ピングドラムとは「誰かに愛されること」に他ならず、「運命の果実を、一緒に食べよう」という魔法の言葉はその象徴だ。

長い物語の果て、これも失われた桃果に心を奪われたままの妹・荻野目苹果(リンゴ)はストーキング対象だった晶馬から「愛してる」という言葉だけを手に入れ、しかしそれによってついに「運命の乗り換え」は果たされる。

それは姉の遺志を継ぎ、登場人物たちに「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉を思い出させた苹果に与えられたたったひとつの報償だった。

悲しいが、長い人生を生きていくにはそれで充分だろう。

これ以上は、哀しすぎて語れない。

*     *     *     *     *

かように、人にとって自尊心というのは生きていくうえで掛け替えのないものだ。

わからない人には、それは水や空気ほども不可欠なのだとお伝えしておこう。

だから、自尊心を傷つけられ、奪われた人は、それを何かで代用しようと手を伸ばす。

社会はその手にしっかりと握らせるだろう。

「みんな」にとって都合のいいルールを受け容れるのと引き替えに与えられる「承認」を。

自尊心を剥奪された若者は、こうして社会の下賜する承認を、自己承認と引き替えてしまう。

若きファウストがその後、命のつきるまえにこの取引の本質に気付くことはあまりない。

僕の社会(つまり…)に対する憎悪の根源はここにある。

だから。

 

いまからお前たちに、生存戦略を告げる。

お前たちの若さを誰にも差し出てはいけない。

お前は、お前自身を承認しなければならない。

暗くて長いトンネルは苦しく孤独な旅路になるかもしれない。

だが永遠に続く無明の闇に比べればどうということはない。

何者にもなれない人間なんて、きっといないのだから。

 

俺はいまからおとなブロイラーへ行く。

 

これはヘッドンホホの宣伝です。

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さて、7泊9日の東京 - ホーチミンシティ出張を終えてボストンに戻った。
前回3月の出張では、8泊11日という完全に日数と泊数の帳尻があわない日程を組んで、終盤香港あたりで蒸発してしまいそうになったため、今回はより短い日程とはいえレッドアイを避け、宿泊だけはきっちり押さえた。

たまにおっさんが
「若い内は体力が勝負だから多少無理を利かせても仕事になるけど、歳をとると仕事の性質が変わるから、しっかり休養をとりながら仕事をしないと役目を果たせない」
というようなことを口走ることがある。
だがこれはただの云い訳であって、おっさんだって体力が許せばもっと時間を有効に使うべきなのは当然の話だ。
*     *     *     *     *
ところで「たまにおっさんが」と云ったのは、実は以前一緒に仕事していた人物のことをはっきり仮想敵にして話している。
このおっさんとはいろいろあったが、一番記憶に残っているのは、
「キミは何のためにこの会社で働くことにしたのかね」
と尋ねられ、
「この会社が思いがけず成長をとげるのか、あるいは想像通りつぶれてなくなるのか、その行く末に興味があるからですね。クビにならない限りは見届けるつもりです」
と答えて、
「ところで、おっさんは(実際には名前で呼んだ)いつまでここで働くつもりなんですか」
と訊き返したら、
「僕はね…家が建つまで」
と満面の笑みで返されたことだ。
「あいつ、なんかおかしいですよ!」と騒ぎ立てたのだが、どうにもならなかった。
おっさんが巨額の損失をもたらすのは、それからまだ5年後のことだ。
その頃ちょうど30歳に近づいていた僕は、そろそろ一種の勘が自分にも備わってきたことを確信し始め、以降徐々に自分の感覚に信頼をおいて仕事をするようになる。
僕の「仕事人生」にささやかな夢があるとすれば、それは自分の言動が若いひとたちに不穏な違和感をもたらすようになるまえに、彼らの前から姿を消すことだ。
*     *     *     *     *
今回の出張は、ボストンの家を出てから戻るまで、しめて242時間だったといま電卓が云った。
その間、フライトに費やされたのがおよそ42時間。
全日程の17.4%という時間が円環の理に導かれて消えた勘定だ。
 
なかでも初体験になったボストン - 香港の15時間50分のダイレクト・フライトは衝撃だった。
何が衝撃と云って、客がほぼ貨物扱いされていること。
往路は深夜発とはいえ、その長時間ならもうちょっと何かあるだろうと思ったのだが、飛んでから降りるまで、ほぼ消灯で客はひたすら眠らされていた。
優に10時間以上。
UNOもカラオケ大会もなかった。
コールドスリープかよ、「2001年宇宙の旅」かよ、とも思ったが、手法としてはまぁ、まさにそういうことだ。
 
エコノミークラスとはいえサービスもほとんどなかった。
2回だけ提供された僕たちのエサをご覧いただこう。まず離陸直後から。

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今日びは宇宙飛行士でももう少しいいものを食べている。
しかも宇宙飛行士は職員かもしれんが、こっちは客だぞ、センはどこだ!センを出せ!という話。
 
それから12時間が経ってようやく、2回目に供されたのがこちら。

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ムショかよwwwww
 
以上、キャセイ・パセティック航空のボストン - 香港便のハダカの姿をお届けした。
ただし私の経験上、いちばんひどかった機内食は今はなきノースウエストの001便で、こちらはしかもビジネスクラスだった。
過去のエントリーにてご紹介している。
まずはこの、完全にメーターが振り切れたタイトルをご覧いただきたい。

前置きが本体化してしまうのが弊ブログのお家芸であることを、愛読者の皆さんならよくご存じだし、快くお許しいただけるものと思うが、ここからが本論だ。

私は前回、ボストンへくるANAの機上で念願のQC20を求めた。

BOSE社が出している、最新型の「ノイズキャンセリングイヤホン クワイエット・コンフォート20」のことだ。

高級ヘッドンホホポチったったwwwそして届いたったったたwwwwwwwwww - Sound Field ~オーディオのまとめ~

2ちゃんねるという情報ソースでもよく話題になっているが、ここのところ身の回りの経営者にも大変好評で、もうここまできたら試してみるしかないと思っていた。

結果はもう、圧倒的だ。

ご存じの通り飛行機のなかというのは不断に「グワァー」という音がしているわけで、これが止まると飛行機は墜ちるのだが(墜ちないこともある。例はWikipediaの「ギムリグライダー」の項を参照されたい)、QC20のノイズキャンセリング部についたスイッチをオンにすると、突然この轟音は消え去り、あたりは新幹線の車内のように静まりかえる。

新幹線の、なかだ。

音楽を聴くにせよ、iPhone側のボリュームは最小にしていても快適に聴こえる。

だから単に静かだというだけにとどまらず、耳にもいい。

あるいは邪魔であれば音楽は切っておいてもかまわない。

騒音の浄化された世界で、相対性理論の「アワーミュージック」に包まれ、私は、数年ぶりに、機内で眠りに落ちた。

 

アクティブ・ヘッドホンだから事前に充電が必要だが、フル充電で17時間ぐらいは使えた。

これはホーチミンシティを発つときに電源を入れると、乗り継ぎ便がシカゴの上空に達した頃にようやく切れるという見事な持久力だ。

しかも付属の充電ケーブルにACアダプタを接続してやれば、機内の給電ソケットからふたたび充電しながら使用を継続できる。心配にはおよばない。

唯一の難点は耳の中にいれる樹脂製のパッド部分が大きすぎることで、L/M/Sが最初からついているものの、Sを使っても私の耳でギリギリきついという印象。

どれだけきっちりフィットするかが静音効果に大きく影響するから、ここだけは購入前にご注意いただきたい。できないと思うけど。

 

で、結論としては行きも帰りもわりと機内で寝られたので、翌日の今朝から元気に仕事してますということだ。

もうこれぐらいで赦しておいてほしい。

 

ボンネットを開けて煙を吐き出していたベンツの、あのときとそれから。

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「号泣マシーン」という、いい加減なバンドがあった。

曲を作っていたのは、僕。

僕はギターの練習をするのが嫌いなので、ほぼ全曲がスリー・コードの進行で、たまに最初から最後まで全部Aしかないというような曲まであった。

それは曲なのか、という問いを退けるのは難しい。

 

僕が二十代のはじめから長く仕えた社長のセックス・フレンドは、社長から寝物語に「号泣マシーン」という名前のバンドがあることを聞かされ、涙を流して笑ったあと、「CDがあれば、いくら払ってでも聴いてみたい」と云ったそうだが、音源はなかったし、いまもない。

僕たちの音楽は、“ライブ”だったからだ。

などと格好のいいことを云ってみたいが、もちろん本当の理由はバンド自体あまりちゃんと練習しないので録音に耐えなかったからだ。

ただ、社長から「CD作れば1枚は売れるぞ。私のセックス・フレンドが買う」と云われて普通に嬉しかったのを覚えている。

こういう志の低さが僕の、完成度の低い人生をドライブする根本原理だ。

 

僕がいちばん思い入れのあったのは「マリア03地域」という曲で、これは03で始まる東京の一般回線のテレクラで「マリア」という女にハマり、「今度会って素敵なダンスを教えてもらう約束なんだ」とうわごとを繰り返す男の唄だった。

いまでも自分のメールアドレスにしているぐらい、いい曲だったという自信がある。

 

だが、オーディエンスからのウケがいちばん良かったのは「ベンツ」という曲で、結局はこれが号泣マシーンの代表曲であり、短いバンド生命最後の曲になった。

ひどいタイトルだ。

 

大学の後輩だったギタリストの男は気が弱かった。

ある日、夜中にコンビニへ行ったら買い物をしている間に停めてあった彼の自転車が転倒し、そばに停車していたヤクザのベンツにぶつかり、ドアがへこんだ。

助手席に情婦を搭載しているときのヤクザほど面倒なものはない。

修理代については追って連絡すると云われ、免許証だか学生証だかを没収された彼は泣きながら家に帰り、震える手で遅くまでひとりウイスキーを呷ったが、眠気はなかなか訪れなかった。

おかげで彼は翌日、僕との約束をまるごとすっぽかす。

 

その約束というのはそもそも彼に頼まれたもので、僕には何のギリもないイベントに参加するというものだった。

待ち合わせに来ないばかりか何度電話しても彼が出ないので、やむなく僕はひとりでカネを払ってイベントへの参加を済ませ、わけのわからない体験をして、中野へ帰った。

サンモールがブロードウェイへ続くあたりで、ようやく彼から電話があった。

「すみません…いま起きました」

何事かをすでに覚悟した声で彼はささやくように云った。

いまもそうだが、こういう目に遭わされたときの僕は甘くない。

とにかく今から鮨をとるからうちへ来い、と僕は云った。

「はい…申し訳ありませんでした…」

彼がやってくると、僕はおもむろに鮨屋へ電話をかけ、二人しかいないのに四人前の鮨をとった。彼は黙って聞いていた。

鮨が届くまでのあいだ、そこへ正座した彼はぽつり、ぽつりと昨夜あったことを僕に話した。

「これが、今朝起きられなかった理由です」

「…そうか」

さすがの僕も同情しかけたときにようやく鮨が届き、彼が支払いをした。

「まぁ、鮨でも食えよ」と僕がすすめると、いただきます、と彼は云って鮨を口に入れ、瞳をとじて、あぁ、おいしい…とつぶやいた。

医者と弁護士には友達を作っておけと昔から云うようだが、たしかに弁護士を知っているとたいていの問題は大事にいたらず解決するというのが僕の経験の告げるところだ。

ただし当時の僕らにはもちろん弁護士の知人などいるわけもないから、ヤクザや空手家の先輩、巨額の借金や就職の不安から身を守る術はひとつしかなかった。

ロックンロールだ。

昨夜、用意していた新曲があった。

僕が「マーガレット」と名付けた七八年生まれのギターを彼に渡して、MTRのスイッチを入れると彼は万感の思いを込めて、リフをかき鳴らした。

いやに長いギターソロのあとで三分五秒の曲が終わって僕がMTRを止めると、彼は力尽きたようにギターをパタリと膝のうえに落とした。

「できたね」曲ができた、という判断が、僕はいつも早い。

「できましたね」彼はうつむいたまま云う。

「タイトル、どうする」

長いため息のあとで、彼は云った。

「…『ベンツ』でお願いします」

 

こうしてできたのが「ベンツ」だ。

詞は何を云っているのかわからないので、ここでは紹介しない。

この話で僕がいちばん気に入っているのは、後日彼のところへ届いた請求書がたったの七万円だったというところだ。

彼は七万円と四人前の鮨を失い、僕は新曲のタイトルを手に入れた。

結局のところ、若者を根本的に傷つけることなど誰にもできないということなのだろう。

なぜ、メルセデス・ベンツは選ばれるのか?

なぜ、メルセデス・ベンツは選ばれるのか?

 

 

懺悔録。寿司折りと僕たちの、行方。

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わけあって、ブログを書くのを休んでいる。

「休んでいる」って、おまえ基本休んでるじゃねぇかという突っ込みを、昼夜なしにくれるタイプが好きだ。男女を問わない。

それで、「お休みしています」ということをFacebookで表明した刹那のことだが、こんなブログに触れて思い出したことがあったので、書き置くことにした。

ベンチャーのマネージャを蝕む3つの病

「触れて」というのは、要するに僕は本文を読んでいないからだ。怖くて。

同年代の方々は、こうやって嫌なことから逃げてばかりの少年が汎用人型決戦兵器に乗って戦う話を覚えていると思うが、僕はいまそういう小説を書こうと思っている。

 

歳をとったというか、何か一線を越えてしまったのだろうか。

最近、ひとに話したいことが溜まって気が狂いそうになる。

実際、頭のなかに話したいことがあふれかえってしまい、数年ぶりに不眠を再発した。

それはまるで、冷凍庫でキンキンに冷やしたスミノフ・ブルーみたいな、透明の、カッチコチの不眠。

きわめて純度の高い、キラッキラでアンブレイカブルな不眠。

ボストンにいるのでドラッグストアで売ってるタイプの睡眠導入剤を服用しているが、効くまで1時間かかるものの、効き始めると死んだように寝る。

ま、それが不眠というものだ。FYI.

*     *     *     *     *

155 名前: すずめちゃん(アラバマ州)[] 投稿日:2009/02/09(月) 17:04:44.42 id:bsaWj/k+
若い女はどうか知らんが、おばちゃんプログラマーは重宝する。

若い男が面倒なのは、妙に向学心とプライドがあって、妙な実装
をしたがる。んで自分流でやりたがる。そして打たれ弱い。

おばちゃんは、知ってる実装しかそもそもやらないから、設計を
預けたあと、問題があればいの一番に文句言ってくるし、設計に
問題がなきゃ、延々何時間でも同じように作業してくれる。

あと、お菓子くれる。若い奴はお菓子くれない。そこがダメ。

出典が2ちゃんねるのコピペだということもあるし、ジェンダー論やポリティカル・コレクトネスの話はどうかいったん脇へおいていただきたい。

 

二十代の半ばで僕のチームに初めて本物のプログラマがやってきた。

純粋な礼儀正しさから年齢には触れないが、それは大手の開発現場で一度バーンアウトした女性だった。

「ITスキルのある事務員候補」としてその会社へ応募し採用に至ったわけであったが、ある事情によって彼女は僕のところへ回されてきた。

「僕のところ」というのは、いまさら遠慮なしに云わせてもらえば、もとは正しく社内の掃き溜めみたいなチームであって、「使い物にならなかったが、辞めさせるには惜しい気のするやつ」があちこちから回されてきて、彼らに何か仕事をさせるのが僕の役割だった。

当初は気を使って「うでパスタ事業部」などと呼ばれていたが、社内のそこここから投げつけられる仕事(と「人材」)に業を煮やした僕があるときキレて

事業部、ってなんですか。事業部、って。うちは事業なんかやってませんよ。作業ですよ、作業。うでパスタ作業部ですよ」

と云ったらきまじめな総務が社内全部の内線表に「301 うでパスタ作業部」というシールを貼り、以来僕たちは長らく「作業部」と呼ばれることになった。

 

'00年代の初頭にインターネット関連の仕事を始めた方には覚えがおありかもしれない。

そんな社内のお荷物か、よくて愚連隊みたいなチームがいつの間にか情シスみたいなことをやるようになり、やがて社内のシステム開発部隊になっていった。

そうしてこれもある種の社内政治と闘争の産物として、いよいよ僕らが大規模な商用システムの開発を始めなければならなくなったという、そのタイミングで彼女はやってきたのだ。

もちろん「お荷物」ではなく、「本物の開発者」として。

文字通り「掃き溜めのツル」のように、彼女はやってきたのだ。

 

彼女は本当に仕事のしやすい人だった。

彼女は最初にいくつか問題だと思うことを指摘し、納得のいく答えを得ると、それからは何週間でも端末に張り付いて黙々と仕様書を書き、更新し、みずから開発を行い、テストした。

その点だけからいえば、僕の仕事は彼女の仕事が終わるのを待つこと以外になかったぐらいだ。

お菓子はくれなかったが、彼女はユーモアをよく解してくれたし、ほどよく「いい加減さ」を受け入れる柔軟性も持ち合わせていたから、掃き溜めの主である僕たちともよく打ち解けてくれた。

酒を飲むと(当時の僕たちはほとんど毎日何かを飲んでいた)彼女は(酒豪ではあったが)酔いつぶれ、家に帰れなくなるので僕が旦那さんに電話して、クルマで迎えに来てもらった。

おかげで僕は旦那さんととても仲良くなったのだが、彼女は迎えに来た旦那さんを居酒屋の小上がりに正座させると、ガンギマリの眼でろれつのまわらないままに

「あたしだって、もっと若くて可愛い男の子と結婚したい。あんたなんかと別れて」

みたいなことを毎度云うので、なんだか僕が申し訳なくて寿司折りを用意して旦那さんがくるのを待っているのだが、翌朝、

「旦那さん、寿司食ってくれた?」と訊くと

「わたしが食べちゃいました」とケロッとしていた。

 

もっとも彼女は開発現場を離脱して転職してきたわけだから、ふたたび開発業務に就くのには不安もあったろうと思うが、相談すると「環境もやることも、まったく違うので大丈夫だと思います」と答えたのだった。

社風というか、なんとなくぬるい雰囲気に安心していたというのもあると思う。

そうして彼女は要件定義から、設計へ着手した。

*     *     *     *     *

システム開発に明るくない方のために少しだけ解説すると、「要件定義」とは、システム開発を始めるにあたり、「いまから何を作ればいいのか」を開発サイドが把握するための段階をいう。

こうして定義された「いまから作るべきシステム」を、今度は無数のプログラムを組み合わせて作り上げていくために「設計」がおこなわれる。

「設計」とは実際にプログラミングを始める前に、料理でいえばレシピのようなものをたくさん用意していく段階のことをいう。

ここまでくると、あとはレシピを受け取ったプログラマたちが、「俺、鯖味噌担当」「わたし、だし巻き担当」「僕、盛り付けやります」といった具合に分業をして、晩飯ができあがっていくわけだ。

*     *     *     *     *

そのシステムはウェブベースのアプリケーションとしては控えめにいってもかなり巨大なものだったが、しかも不断に仕様変更を行いながら複製されていくという環境から、その後数年にわたり、いまや「システム部」と内線表に記されるようになっていた僕のチームは混乱し、 疲弊し、次々と人員を追加投入しながら戦線離脱者を出し、フロアは野戦病院のようなありさまを迎えることになる。

しかしそんななか彼女は依然として、司令塔としての役割を果たし続けていた。

「ITスキルのある事務員候補」として彼女が入社してきたのをご記憶だろうか。

嗚呼、いまや彼女は二徹、三徹あたりまえの、延々と続くデスマーチを率いる旗手の役割を担わされていたのだ。

それを担わせたのは、もちろん僕。

 

「システム部」のゼネラル・マネージャーとしての僕はそのとき、完全に事態のコントロールを失い(そもそもこのプロジェクトをコントロールできていたのは彼女のおかげであって、僕は最初から何もしていないのだが)、事実上、呆然とそこに座って毎日少しずつ髭を伸ばし続けているだけの存在に落ちぶれていた。

「落ちぶれていた」というが、大切なのは、それがそもそも本来の僕の姿だったということだ。

 

本当は、このときに僕がするべきことはただひとつだった。

それは、システム部の責任者として、経営陣に対して以下のような進言を行うことであり、決断を引き出すことだ。

 

曰く、「進行中の開発プロジェクトは膨大な規模に達しており、さらに規模は性質を変化させて、ついでにできたようなアマチュア部隊の手に負えるものではなくなっていること」

 

曰く、「現在までと同程度の人材を逐次投入する戦術はすでに破綻しており、唯一の『本物』である開発者にかかる負荷が彼女を追い込みつつあること」

 

曰く、「よって致命的なデッドエンドへ至る前に、ここでシステム開発にかかる予算(それはすなわち事業全体の予算にほかならないが)を見直し、現在とは本質的に異なる『本物』の技術者を、少なくとも一定数リクルートすることが急務であること」

 

曰く、「それがひいては営業サイドで売上の成長率を回復し、投じる予算は遠からず回収されるであろうこと」

 

当時の僕の職責を考えれば、これらはすべて「そうでなければ結果が出せない」妥協不能な条件であり、この交渉はシステム部の部長という職を賭して行うべきものだった。

「要求が通らなければ、辞職します」ということだ。

ところが少なくとも僕にとって、事はもう少し複雑だったのだ。

それはこういうことだ。

いまなら、うえに挙げたことの他にもうひとつ重要な要求が必要だったということがはっきり分かるが、当時の僕は無意識のうちにこれに気付かないふりをし続けていたのだ。

それは、

 

「あたらしく組成されるべき『本物』のシステム部のトップに僕はふさわしくありません。最後の要請には、僕の後任人事が含まれることになります」

 

というものだ。

 

先に結論をいえば、僕の後任となる人物は、僕の後始末をうまくやってくれた。

ただし、彼を指名したのは僕ではない。僕はすでにその権限を剥奪されていたからだ。

 

いまにして思えば、土壇場で僕をうまく更迭した当時の経営陣は(遅ればせながら)正しい判断を正しく執行したというほかない。

「僕を取り除くこと」がソリューションに含まれるとき、僕自身がそれを導けなかったことについては、それから数年のあいだにいくつも言い訳を思いついたが、すべて破綻した。

要するに、組織を毀損し、それを通して人と事業の両方を毀損しつづけていたのは僕自身の自尊心に他ならない。

自分の完全性と無謬性に対する根拠のない自信。

経験的でなく、つまり非科学的であるという意味では崇拝と同値の確信が、「自分はここにとどまって、仲間を助けなければならない」と告げていた。

「できないはずがない」とも思っていた。

だから、「やりとげなければならない」と思い込んだのだ。

だが実際には、僕には決定的に経験が不足しており、必要な能力もキャパシティも持ち合わせていないことはある段階から誰の目にも明らかだったのだろう。

僕は部長の職を解かれ、僕専用の、新しい掃き溜めに移された。

「使い物にならなかったが、辞めさせるには惜しい気のするやつ」。

いまもいちばん恥ずかしく思うのは、そのとき僕が「恥ずかしい」と感じていたことだ。

*     *     *     *     *

そんな僕が、なぜまたよりによってシステム開発を生業とするようになったかについては、今日は触れない。

*     *     *     *     *

そのとき彼女はもう限界を迎えつつあった。

あたらしい部長が大規模な組織改革を実行し、彼女ひとりの肩にのしかかっていた重荷が取り払われた頃、彼女はふっつりと出社しなくなってしまう。

後任になった僕と同い年の男は、少なくとも僕に対して「武士の情け」のような敬意を払うことを忘れなかった。

二ヶ月が過ぎた頃、彼は僕に、彼女から退職届を受け取る役目と、それから彼女に支払う「退職慰労金」の額を決める権限を与えてくれた。

僕が金額を提示すると、彼は一口タバコを吸いこんで、「あんたがそうだってんなら、いいよ」といった。

 

僕が用向きを告げると、彼女は自宅近くのファミレスまでやってきた。

元気そうに見えたが、真っ黒だった髪の毛に白髪が目立っていたのを覚えている。

自分のふがいなさから彼女を追い込んでしまったことを率直に詫びると、彼女は逆に恐縮した様子で、頭をさげた。

「こんなになるほど大変だとは思ってなかったんですが、なんでかこうなってしまいました。こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

用意した慰労金の額を告げると、少し驚いたような顔をしたあと、笑い出して「そうですか、ありがとうございます」とまた頭を下げ、退職届を丁寧にあらため、持ってきた印鑑を捺した。

 

新しい職場は暇だった。

しばらくしてその生活にも身体がなじんだ頃、いつものようにへべれけに酔ってタクシーで自宅へ帰る途中で、彼女の携帯からメールが届いた。

「退職金、振り込まれてました。

 今日全額引き出してきて、札束で旦那の顔をはたくというのをやってみましたが、感無量でした。

 ありがとうございます」

僕は苦笑した。

この話を思い出して泣くようになるのは、まだ数年後の話だ。

*     *     *     *     *

さて、長くなったが、これで今年のエイプリルフールはおしまいだ。楽しんでもらえただろうか。

ところで四月一日にはもうひとつ、大切な意味がある。

僕のような人間がこんなことをいうのもなんだが、今日から新しい生活を始めたみなさん(それが無職の生活であったとしても)に伝えておきたいことがある。

それは、人生には諦めるのが最良の道だというときもあるということだ。

ただ、諦めたものにはいつかまた、どこかで巡りあうと信じることを諦めてはいけない。

すぐに癒える傷口が、あなたに与えてくれるものはないからだ。

僕とみなさんの末永い幸せを、心から祈っている。

 

 

 

ケニーと俺と、ときどきオンナ。

今年もケニーの誕生日が過ぎた。

でもこの1月に、ケニーはもう歳をとることをやめた。

 

むかしは「友達」といえば、毎日顔を突き合わせている仲間のことだった。

どんなに仲のいいヤツだって、親の都合で引っ越していけば次の日からは連絡もとらないし、二度と会うこともない。

大人になってくると様子は少しちがう。

「じゃあ、また」と別れたあと、3年会わなかった友達や、学生時代以来20年も絶えて会うことのなかった友人と突然会うことがある。

そんなとき、再会した僕たちの関係は再開するというのではなく、会わなかったあいだもずっと途切れずそこにあったのに気付くだけだということが多い。

初めて会ったひととの間にある遠慮や、何かを修復しなければならないという真面目さはそこに、ない。

大げさな喜びも、かしこまった謝罪もない。

会って話し始めると、時間はまるで昨日の続きみたいに流れていく。

僕たちはそれぞれに長い放射状の道を外へ外へと歩いて行くのだから、やがて3年が5年になり、20年はもしかしたら50年になり、それからいつか永遠になる。

だけど、永遠が過ぎたあとだって僕たちはいつもと同じように言葉を交わし、「じゃあ、また」と云って別れるだけだと分かっているから、僕たちはもう永遠を怖れることも、ない。

要するに、わしらは毎日生まれて毎日死によるんよ。明日生まれんのが死ぬていうことやろ。

「永遠のとなり」(白石一文

今日生まれたばかりの僕たちに「久しぶり」はない。そういうことなのかもしれない。

 

今日のまえに一度だけ、ケニーについての文章を書いたことがある。本人は知らない。

ケニーとは、日々顔をあわせなくなってもう何年にもなる。

ある人の結婚式で一緒になったから「いくつになった?」と訊いたら、47歳だと云った。

「じゃ、ケニー、もう50じゃねぇか」

「そうだよ・・・でも俺は今日は久しぶりにうでちゃんの毒舌を聞くのを楽しみにきたんだよ。

 俺にちょっと、いつもの毒舌をぶつけてくれよ!」

「いやぁ・・・」

ぶつけようと思ったけど、もうすぐ50歳になるなんて聞いたら可哀相で何も云えなくなっちゃったよ・・・と云ったら、ケニーは、ちょっと本気で怒った。

僕とケニーは10歳離れていたが、ケニーはいつも、ちょっと本気で怒り、次の日にはそれをギャグにして笑っていた。

 

ケニーが何年も尻を追いかけてた女性と行きつけのバーで飲んでいるのに出くわしたことがある。

「うでちゃん、俺はお前とちがって何もねぇけどよ、こいつに対する愛だけは誰にも負けねぇんだよ」

ケニーと彼女との間にはいくつも恥ずかしい過去があることを僕は知っていたが、ケニーはその日もせいいっぱいカッコを付けていた。

「何もねぇやつの愛が何になるってんだよ」彼女を挟んだカウンターのこちら側から僕はぶつけていった。

あとで聞けば「その夜に勝負をかけていた」というケニーは引かなかった。

「愛の強さ、お前知らねぇのかよ」

「知らねぇよ、ケニー。

 ラスコーリニコフがこう云ってんだよ。

 『自由と力、大切なのは力だ!』(「罪と罰」のセリフだ)

 力のねぇやつの愛なんか、引出物の皿みたいなもんで役にたたねぇんだよ。

 愛があって、てめぇ、その愛をなにで守るんだよ。

 力だよ、力!

 力がなきゃはじまんねぇんだよ!」

僕の言葉に、てめぇよぉ・・・と気色ばんだケニーが立ち上がりかけたとき、まんなかにいた彼女が「なんかわかる・・・」とつぶやいた。

「えっ」と間抜けな声を出してケニーが椅子に腰を落とした。

彼女はもういちど、

「あたし、なんか、うでさんの云うこと分かる気がする」と云った。

あれ、と云ってケニーがフォアローゼスに口を付けるあいだ、「そうだよね・・・」と彼女は自分のグラスをのぞきこみながら何度もうなづいていた。

 

ケニーが勝負をかけていた夜はこうして終わった。

俺にもうチャンスはまわってこない。何年にもわたった俺の歴史的大恋愛を終わらせたのは、まさかのお前だよと、次の日ケニーは笑いながら教えてくれた。

ケニーには何の恨みもなかったが、ざまぁみやがれと云って僕も腹を抱えて笑ってやった。会社の非常階段で煙草を吸いながら。

僕たちは、そんな調子だった。

真面目な話をしたこともあるが、真面目な話のまま終わったためしはついぞなかった。

いつも最後はバカ笑いで終わったものだから、僕が覚えているのはみんな、ケニーのそのバカ笑いだ。

 

ロックンロールは音楽ではなく、ライフスタイルであり人生観だ。

あとさきのことを考えるなんてくだらねぇ、気に入らねぇものが気に入らねぇの何がわるいと云って生きてきた「ロックンローラー」が、子どもができたからと頭を丸めて気に入らない上司に頭をさげ、仕事に精を出すのはひととして誠に立派なことだが、それはロックではない。

その時点で、彼は「元ロックンローラー」ですらない。彼の人生は結局、ロックではない何かだったのだ。彼はロックに対してすら責任を負えず、代わりにほかの責任を負ったというわけだ。

僕は人間、その方が幸せなことも多々あると思うが、それがロックでないという確信は揺るがない。

 

その点では、ケニーはロックンローラーだった。

優しすぎて人を傷つけられないケニーは、それを弱さだと認めることを拒み続けた。

誰を守ることもできない、その優しさを力だと信じ続け、そんな自分だけを愛して生きることを選び、誰にも迷惑をかけずに死んだ。

いまも僕の手元にある、ケニーがくれたたった一枚のアルバムに収録されたナンバーの半分は、「愛の」か「恋は」で始まっている。

さよならをいうのは、わずかなあいだ、死ぬことだ。

「長いお別れ」(レイモンド・チャンドラー

 このあいだ最後に会ったとき、ケニーと僕がなんと云って別れたものか、僕は覚えていない。

でも多分、ケニーはいつものように、ゴルチエのバッグをひっかけた細い肩越しに片手を挙げて、「じゃあ、また」と云ったはずだと思う。

人間の死亡率は100%だ。

イラク戦争に派遣された米兵の死亡率が2.7%だというから、僕たちはよほど危険な運命にさらされて生きている。

そんな毎日には誠にふさわしい、それがいつものケニーの別れ方だった。

僕たちには初めから、次も久しぶりもない。

「じゃあ、また」と云って別れたとき、「また」がいつなのか、僕たちは知らない。

1年後のこともあれば20年後のこともあった。

いままたそれが永遠の終わりまでの長いお別れになったところで、きっと僕たちにとってたいしたことではないのだと思う。

ロックンロール。

嘘つきどもの挽歌。上手な明日の殺し方。

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「事実を先に述べます。

 私はニューヨーク支店の米国債取引で約十一億ドルの損失を出しております。」

 

1995年7月、1通の「告白文」が東京にいる大和銀行の頭取へ衝撃を届けた。

大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件」の発覚である。

告白 (文春文庫)

告白 (文春文庫)

 

告白文の主・井口俊英の「告白」は徹頭徹尾、

「損を出したのは自分が悪いが、自分ひとりにここまでやらせた銀行はもっと悪い」

という論調が貫かれており「すがすがしいバカ」という印象が強い。

このような不祥事を直接頭取殿にご報告することにしましたのは、当行が打つべき手を打つ前に外部に本件が漏れて、当行が一層不利な立場に追い込まれることがなき様、これ以上当行に損失が生じない様配慮したものです。

 「配慮したものです」って。

損失ならもう出てるよ、お前のおかげで。

とにかくこのへんはもう、ファーwwwwwwwwっていう感じなのである。

なお「バカ」とは云ったが頭脳は非常に明晰で、「告白」では事件の経緯と真相が丁寧に描きこまれており、読み物として面白い。

 

何度云っても私のブログから本を買わない皆さんのために、少し解説しておく。

井口先生が損失を出したのは米国債証拠金取引で、差し入れた担保に対してレバレッジをかけた取引が行われていた。

最初に変動金利債で軽めの損失(5万ドル)を出したのが1983年だから、その後10年あまりにわたって先生は膨らみ続ける損失を隠しおおせていたわけだが、これが可能だったのは彼が顧客の米国債を預かるカストディアン業務とトレーディングを兼任していたからだと「告白」では明かされている。

つまり井口先生は、自分が出した損失を、顧客から預かった米国債を勝手に売却することで穴埋めしていたのだ。

これがニューヨーク連銀や大蔵省(当時)の立ち入り検査を毎回パスしていく様は手に汗握るが、実際パスしていくのだから先生の逆ギレにも一理はある。実際、大和銀行は「現地採用」の井口先生以外にも米国で逮捕者を出している。

 

しかし11億ドルという鬼のような損失を出すまでにこの人が相場に負け続けたのはなぜか。

まず下手だったからということを挙げないわけにはいかない。

特に経済や金融を学んだわけでもなく、またニューヨーク支店には指導を受けられるようなトレーダーもトレーディング部門も存在しなかったため、井口先生のトレーディングは独学であり、そのトレードはすなわち巨額を張ったOJTであった。

 

また、トレーディングにおいて「負けない人」というのはいない。

だから機関投資家であろうと個人投資家であろうと、プロはリスクヘッジとは別の次元でダメージコントロールの仕組みを用意している。

端的にいえば「損切り」の仕方とそのタイミングを頭に入れて売買をしているということだ。

だが銀行に隠れて巨額のポジションを動かしていた先生に損切りの余地はなく、損失を穴埋めせんとテーブルに載せるチップを増やしていけば、これは誰でも負ける。

そういったトレーディングの基礎・常識がないまま、たまたま手を出したディールに成功し、トレーダーに祭り上げられてしまったのは今から思えば本人の災難といえる。

 

だが、そんなことよりもっと重大なのは、井口先生のポジションが巨額の含み損を抱えていることがニューヨークの米国債トレーダーたちにはバレバレだったことだ。

基本、井口先生の不正行為はバレない。

損失を出しても、顧客の米国債を売却して損失を穴埋めしても、検査のときに残高証明を切り貼りして改ざんしても、将来の逃走資金(本人がなんと云おうと、これは逃走資金)として銀行のカネを自分の個人口座に振り込んで(!)も、バレない。

だから最後は本人が告白文を書くことになる。

だが皮肉なことに、ダイワのイグチが巨額のショートポジションを抱えており、含み損が拡大しつつあることは、先生が利用していた外部のディーラーを通じて業界内に知れ渡っていたのだ。

まさか銀行に隠れて取引をしているとは思わないから、なぜイグチが解雇されないのかには首をかしげたことだろうが、しかし相場が逆行するなかでダイワがいずれこのショート(空売り)をカバーするべく高値で米国債を買い戻さなければならない日がくることを、他行のトレーダーたちはよくわかっていた。

要するに、相場の裏に隠れた彼らが、当時世界最大の米国債プレイヤーとなって(しまって)いた大和銀行ニューヨーク支店の逆を張って相場をつりあげていったのだ。

現在でもヘッジファンドなどの規模がふくらみすぎると、相場に動きを読まれて裏をかかれるということから、ファンドマネージャーはあまりこれを好まない。

だが井口先生は、いまや市場全体が自分を注視しているのにも気付かず端末に向かって「なぜ・・・なぜなんだ!!」みたいなことを云いながらナンピンを繰り返していったわけだ。

恐ろしい話だけれど。

*     *     *     *     *

「いま買えばいい株」スレの名言集が好き。

  • 疑わしきは成り買い
  • 軽めの逮捕
  • 売ると損が出る症状
  • 今日儲かってる奴は下手糞
  • 情弱の石油王
  • 狼狽買い

「売ると損がでる症状」あたりがほんとじわじわきて、好き。

*     *     *     *     *

井口先生の「告白」のなかでも印象的なのは、10年あまりにわたって損失を隠し続ける間、家族も、ある種の名声も手に入れたのに、いつか手放す日が必ずやってくるとわかって日々を過ごす彼の見上げる、暗い空。

何度も何度も、彼は心中に抱えていた苦しみの大きさについて繰り返す。

そうなると11億ドルという金額の大きさよりも、12年という時間のながさの方が重い意味をもって迫ってくるようだ。

嘘をつくことは、自分の明日を少し殺すことだと思った。

「嘘で固めた学歴を実力でカバーするため、他人より一層努力した」

ウソで固めたキャリアをもつ人はその「後ろめたさ」から敵をつくらない。そこでどうするかというと、絵に描いたような完璧な「いい人」を演じる。

先生もきっと、よく勉強したに違いない。

ニューヨーク支店長は本店の役員会議に先生を引っ張り出し、「ニューヨークでは、井口くんが入らないと市場が動かないといわれている」と誇らしげに紹介したという。実際に起こっていたことを考えるとブラックジョークとしか云いようがないわけだが。

しかしそのときの本人の気持ちたるやと思うと食事ものどを通らないというものだ。

僕も大手銀行系SIer出身者を詐称していた間は苦しかった。

だから必死で勉強し、敵を作らず魅力的なブログで人気集めに精力を傾けてきたのだ。

なお本件詐称につき、僕はすでに弁護士へ照会しているが、彼の見解は「セーフでしょ」であった。

しかしそもそもこの弁護士が「アウト」だと云うのを聞いたことが、あまりない。

東京出張でホテルにデリヘルを呼んでいるのも「自由恋愛なのでセーフ」と公言していたような人物だ。

自由恋愛、って。

今日も、彼の明日が少しずつ死んでいく。

責任に時効なし―小説 巨額粉飾

責任に時効なし―小説 巨額粉飾

 

 

経歴詐称のご報告とお詫び。

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経歴詐称って、程度問題でいうとみんなそれなりにやってますよね。

最近で笑ったのは米共和党の大統領予備選に出馬した元神経外科医のベン・カーソン。

自伝で「俺もデトロイトの少年時代は荒ぶってた」みたいなことを書いたらしいけど、記者が調査したら当時を知るやつらがみんな「いや、あいつ目立たないヤツでしたよ。ケンカとか無理でしょ」って云ってたらしく、記者会見で詰められて泣きそうになってました。

「おまえら次は幼稚園の先生んとこ行って俺がおもらししたこととか取材してくるんやろ!(震え声)」ってなってて、「あ、こいつもうダメだな」って思いましたよね。

 

ちなみに僕は経歴に「大手都銀系SIerを経て」って書いてますが、4日間しか行ってないので結構ヒヤヒヤしてきました。

そもそも新卒じゃないのに新卒を偽って就職活動していた時点で経歴詐称だったんですが、まぁそれは面接のときに正直に話したうえでまさかの新卒者内定をもらったのでよしとして、4月1日に入社式に出たあたりから「あ、俺やっぱりこういうの無理かも」っていう違和感を感じ始めて、4月4日に退職願を出して辞めたのを「大手都銀系SIerを経て」って書いてるのは、これはやっぱりギリギリアウトですよね。

「経て」っていうか、立ち寄ったぐらいのレベルですもんね。

 

でも子会社とはいえ大手って凄いですよね。

4日で辞めて、しかも4日目は退職の手続きして人事部の次長とお茶飲んで昼前に帰ってきただけなのに、4日分の給料が出て、しかも社会保険料とかちゃんと天引きされてたりした結果、ほとんど残ってない手取りが給料日に振り込まれました。あと離職票も後日届きましたし。

しかも次長からすると僕の退職は人事部の評価にとって手痛いことだったはずなのに、これからのことなんかについては親身になって心配してくれたりしましてね。

「でも仕事はしていかないと困るでしょう?」とかって。

申し訳なくて、「知人の葬儀屋を手伝おうと思います」ってまた嘘つきました。

 

しかしそれにしても大手凄いなぁ、新卒カード凄いなぁ、って思いましたけど、いい年した「同期」どもが社員食堂の前で肩寄せ合って「おっ、今日A定(食)うまそうじゃん!」「俺、今日麺(定食)いこうかな」「おっ、麺いいねぇ」とかって毎日やってるのを見ると、俺、これはある日銃乱射事件とか起こすかもな・・・っていう危機感もありましたし、だいたい人と差し向かいで食事するの、当時もいまも僕は苦手なので、やはり早めに辞めるしかなかったんだと思います。

 

しかしあいつらクソだったなぁ。

経歴、修正しときますね。すみませんでした。