新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

「ラスト・ブラッド」が酷すぎる件についての走り書き。

よせばいいのに「ラスト・ブラッド」( http://lastblood.asmik-ace.co.jp/)を観に足を運ぶ。

BLOOD The Last Vampire」の権利をフランスのプロデューサーが手に入れて実写化した作品で、「よせばいいのに」とは云うものの、アニメ界にそびえる原作の存在感を考えれば、やはり観ずにすませるわけにはいかないゆかりのある1本ではある。


結論から云えば、酷すぎるため1日も早く劇場で観るような必要はないし、何度も観る気にはならないだろうから出てもDVDは買わなくていい。レンタルでいい。Blue-rayに至っては出さなくていい。

アニメと実写という対比において表現の「限界」について語るのは非常に困難なことだが、もともとカメラの前にあるものがすべて映ってしまう実写に対して、映るべきものをゼロから描かなければ何も映らないアニメの表現力が「劣る」と決めつけるのは大きな間違いだ。

それは「再現力」の問題であって、実在しないフィクションを語るときには、これは「表現力」とはねじれの位置にくる概念である。


このうえでアニメを観る者がアニメを観るとき、ディテールの省略された映像視界を前提として了承しており、これに伴って劇中現実の閾値を無意識のうちに引き下げていることが非常に重要である。

これはときに大胆に省略されたディテール(キャラクターの顔の造作からしてすでにそうである)や、荒唐無稽なアクション、「芝居がかった」セリフ回しなど、日常生活ではお目にかかることのできない事象が、まず「アニメである」という時点でいともたやすく受け入れられているということに他ならない。

ここから先は程度の問題であり、「ま、アニメだからしょうがないよね」と考えるか「アニメだからできるんだよね」と捉えるか「・・・・・・(夢中で観ているだけで何も考えない)」かは人による。

だが少なくとも実写でドラえもんを観たとしたら、まず何よりもそのドラえもんの質感を身の回りの様々なもののそれと比べてしまい、「ドラえもんって○○○っぽいんだ」という自分の感想がうるさくて耐えられないのは間違いないだろう。


他方アニメがアニメであるうちは、人はそれを現実のなにかと比べて考えることをやめている。

アニメの自由と制約はともに、ここから生じる。

つまり純粋に映像の側面からするとアニメはゼロから生まれた完全なる虚構であるが、この虚構は現実を模倣することを必ずしも求められていない。

ゆえに多くの局面において「省略すること」(というか、そもそも描かずにおくこと)の自由が了承されており、これが「語るべきを語らず、受け手の解釈に信頼する」という芸術の要件とクロスするのだ。

ただし同時に、アニメがその自由を扱いきれず無節操に現実へ接近すれば、観る者のなかで常に自分の身の回りのものと比べて「○○○っぽい」と気にせずにはいられないスイッチがオンになり、たとえば「リアルじゃない」という的外れだが正当な批判を受けるハメになるだろう。

CGを多用した実写映画がときに「リアルじゃない」とのそしりを受けるが、フルセルで女子高生の髪がピンク色をしているアニメは「リアルじゃない」とは決して云われない。

ところがデジタルによる「再現力」をアニメの「力」だと勘違いすると、ある段階で突然ピンク色の髪が不自然に思えるようになってくるだろう。

このように根源的にアニメには必要ない(免除されている)「リアリティ」を持ち込みすぎると、作品は実写でもアニメでもない「クソゲー」の谷間へと落下するのである。


あくまでも実写映画である「マトリックス」シリーズはワイヤーアクションとバレットタイムによる華麗なシーンの数々で我々の度肝を抜いたわけだが、ここでは原理的にスローモーションによる再生が必要となり、これが観る者のスイッチを切り替えている(「では時間を止めて観てみましょう。つまりそういうことです」)。

マトリックスの荒唐無稽なアクションがスタイリッシュでいられるのはこのためで、その点でもウォシャウスキー兄弟のアニメに対する理解の深さは敬意に値する。

一方「ラスト・ブラッド」はここまでに挙げた過ちをすべて犯したうえ、「何かがおかしい」と気付きながらもそれがわからず、とりあえず最後まで作ったあとでぽいと投げ出した無教養な犯罪者たちの生み出したクソゲーである。


プロダクションI.G石川光久は本作のプログラムで受けたインタビュー上「『ラスト・ブラッド』が原作に加えた改変についてどう思うか」と尋ねられ、このように答えている。

本作の制作陣は「ディレクター」ではなく「プロデューサー」であるから、制作と配給規模に応じた成功が必要とするだけの「サービス精神」をわきまえており、「オタク度」は30%程度に収められている。

本作において残りの70%はこの「サービス精神」でできており、それが興業に成功をもたらすであろう。

「この作品は我々のものではない」という重大なメッセージを婉曲に、しかし正確に伝えるにはほぼパーフェクトの回答であり、石川がI.Gにとって致命的に必要ないくつかのこと(売上を含む)を明確に理解して行動することのできる優れたプロデューサーであることを示すコメントだ。


映画とはそもそもどんなものでも面白いものであり、つまらない映画はあっても観る価値のない映画はない。

ラスト・ブラッド」とて例外ではない。

だがその「いわれ」と「ゆかり」から云えば得られるものは極めて少なく、多忙な我々が割くことのできる時間はほぼないと云っていいだろう。