まず脚本家はもう、ほかの仕事を探した方がいい。
小説だってそうだが、映画は言葉のみによって成り立つのではないし、言葉を積み上げたところで小説にならないのと同様、言葉を書きつらねたところで映画はできない。
セリフだろうがト書きだろうが、言葉はすべて映画そのものを喚び出しフィルムに焼きつけるために用いられる祝詞のようなものに過ぎず、自分の書いた言葉のあとに映画が続くのだ(あるいは続くかどうかが物事を分けるのだ)と彼女は理解しなければならない。
神事は神が降りてくることに意味があるのであって、神主の云々する言葉には意味があるように思えるに過ぎない。
その点、要らぬ言葉を吐かせ、あらねばならぬもう一言を書かずにおいたこの脚本に映画は宿りがたい。猛省を促す。
他方、原作が著名であるがゆえに真相がすでに割れており、ミステリの話法をとることがためらわれたのには同情する。
しかし多分に叙情的な小説を原作の話法に倣って映像化するためには演じる者を選ばねばならない。
「笑う」という言葉に笑い、「苛立つ」という言葉に苛立つことしかできない俳優と、それを指導しきれない演出家たる監督の組み合わせにこの荷は重かった。
物語のコアは、善悪は主観のなかにしかなく、故に自分は悪ではないと居直る男に激しい嫌悪を抱きながら、これを主観でもって裁いてしまう点では男となんら変わりのない兄弟の矛盾と罪にある。
渡部篤郎はおそらくほとんど演出の指示を受けずにこの男を演じきり、観客の嫌悪と、それでも主人公の視点は理不尽であることとの間でテーマの緊張感を保っているが、主役の二人はセリフ・所作ともに辞書的な「言葉」の内側にとどまっており、このアドバンテージを受け取ることに失敗する。
これはプロダクションの話になるが、放送局を招くにあたり、原作の改変にはかなりの制限が生じると考えるべきなのであろうか。
今回のキャストと制作陣であるならば、たとえ「犯人」が観客に明らかであったとしても、散文的な語りを諦めミステリとして再構成したうえ、原作から優れて光る叙情的なエピソードを頂戴するという手法がふさわしかったように思う。
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上映開始直後、膝に載せていた シマヤだしの素の味がするポテチがひっくり返った。
「幸せそうに生きていれば、重力だって怖くない」というこの映画の結論にもかかわらず、開けたばかりの袋からスローモーションで飛び出たチップスは僕の足下に散らばり、前の座席の下までこぼれていった。
結局ほとんど食べられなかった。
映画を観ている間中、脚を動かす度に「バリ」「バリ」とチップスの割れる音がして、大変心苦しい思いがしたことである。