新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

独裁者の喜劇、アスリートの悲劇。

予備校で現代文を教えていた講師は、生徒が30分の問題を解くのに1時間をかけさせた。

「ゆうべの貴乃花は5秒で勝負を決めた。本番は5秒だ。だからと云って稽古は5秒でいいのか」

本番は時間が限られている。だが稽古では時間をかけ、ただしい解法を身体に教え込めというのだった。


北朝鮮がサッカーW杯への出場を決める。

だが本大会が開催される頃、この国がまだ存在しているかどうかが危ぶまれる。

国際大会をめぐるアスリート達の悲劇にあらたな1ページが加わるのか。


アスリートの悲劇は、彼らが「本番」に向けた長い長い鍛錬を重ねるところにその芽を生じる。

何万回もの成功と何万回もの失敗のあとで1度だけ許される「本番」はケガや戦争や風向き、誰かの気まぐれによって簡単にその帰趨を左右され、何万回もの成功や何万回もの失敗にかかわらず、そのときアスリートにできることは何もない。

これがアスリートの悲劇だ。

参加することに意義がある」という言葉はいまもしばしば使われるが、勝利以外の何かを「意義あるもの」だと考えるのはアスリート以外の人間だ。

それは悲劇だ。


北朝鮮をめぐる喜劇は、この国を生かしているのがまさにこの国を潰さんとしている国際社会だというところにある。

喜劇が幕をおろそうとしている。

それに続くのはおそらく、いくつかの悲劇だ。