新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

エヴァはもういい。エヴァが観たい。

正直エヴァンゲリオンには飽きてきた。

「飽き」たという物云いに語弊があるなら「もう観なくていいと思うようになった」と云いかえる。


豊かなアニメーションとしても、学生の時分に強烈なインパクトを受けた文学作品としても、その価値はいまだにいささかなりとも減じるところがない。

しかしもう、それがテレビ版であろうと過去に三度リリースされた劇場版であろうと、家にDVDがあったところで(あるのだが)もう繰り返し観ようとは思えない。

全部知っているからだ。

ストーリーやセリフはもちろんのこと、カット割りからカメラのアングルまで、果てはそのシーンに自分がどのような印象を受けるかまで、なんなら初見のときに受けたどのような印象をいま思い出すであろうかまで、いまや作品のすべては再生機の力を借りずして即座に蘇るようになってしまった。

職場で追い詰められたとき、朝食の食器を洗うとき、風呂に入るとき、電車に乗るとき、降りるとき、スイカに水をやるとき(なかなかないけれども)、エヴァンゲリオンの断片は僕の(ミクロには)日常に、(マクロには)人生にロードされ、その鮮やかな印象を残してまた記憶のなかへ戻っていく。

ハードもソフトもかさばるだけだ。


だから、僕は「ヱヴァンゲリヲン」を観に劇場へ足を運ぶ。

エヴァ?(観てない奴に限ってこう略すことが多く、僕はいつもそれを正す。「お前は観てないんだから『エヴァンゲリオン』って云えよ。ひとの彼女を呼び捨てするようなもんだろ?」)もういいでしょ、いい加減。またどうせ同じなんだから」。

それは決して公平な意見とは云えずあきらかな揶揄を含んでいる。

だが僕は「ヱヴァンゲリヲン」を観に劇場へと足を運ぶ。


古いものでも新しいものでもなく、また事前譚や続編でもなく、劇場の暗闇に踊るエヴァンゲリオンは常にいわば「新たな原典」だ。

与えられるのではない。意味も衝撃も、爆発する僕のなかの物語から生まれてくるのだ。

よって評価は不要だ。

初号機は咆吼とともにアスカの乗ったエントリープラグを噛み砕き、その瞬間に僕の知るエヴァンゲリオンは破れて散った。

それはたとえば「実はおまえの父親はしがない新聞の配達夫ではなく、世界をかけめぐって要人暗殺の計画を防ぎ、そのたび知り合った美女を抱く希代の秘密諜報員だったのだ」と知らされたときの感覚に似ている。

足下の地面が裂け、短い落下のあと、気がつくとエヴァンゲリオンは消滅していた。

「序」で蒔かれた種は凄まじいばかりの生命力で発芽し、枝を伸ばして世界を破り捨てた。

「続編」でも「パラレル」でも「同人」でもない、同じ世界、同じ人物たちを用いて描かれるもうひとつのヱヴァンゲリヲン

批評することはにわかに容易ではない。