新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

いきものがかりの内省。

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酒を止めてちょうど半年が経った。

たった半年だが、あれだけのペースで飲んできた人間だ。腹の臓は延々と煮えたぎる釜がごとき有様であったのだろう。人間ドックの結果は、さまざまなメーターが即座に正常化する様をみせつけ、あらためて「酒は百薬の長」なる言葉がいかにいい加減なものかを思い知らされた。

体重が4キロ減り、血圧が下がり、γ-GTPに至ってはたった17などと目をこらさないと見えない程度にまで減少した。

酒は毒だ。


しかし思えば人間の身体はひとつのビオトープ、または培養液を満たした60センチの水槽に手と足を付けて頭を載せただけの代物だ。

我々はその水槽のなかで胃や腸や肝臓を飼っているようなものだから、いかな「自分の身体」だからと云って、水槽に泳ぐベタに「元気出せよ」などと言葉をかけても意味がないように、「病は気から!大丈夫、大丈夫!」などと強がってみても、やはりこの水を濁し、粗悪な人工飼料などを食わせた挙げ句、あまり家にも帰らず照明を付けっぱなし、あるいはうっかりしてポンプを止めた状態にしたりなどすれば、ベタは飼い主へのギリや忠誠心、果ては気合いともまったく無関係に、死ぬ。


本格的に酒を飲み始めて十数年。

僕は自分の首がつながった先の水槽に向けて、恐ろしい量の酒を流し込んできた。

そこで呼吸している胃の腑どもが目には見えないのをいいことに、やりたい放題をやってきたわけだ。

気がつけば僕のビオトープは、どんよりと濁る緑色の水に、色落ちして野良金魚に戻ってしまった魚が白濁した目をぴくぴくさせながら漂っているような、「終わってる水槽」になりさがっていたということだろう。

まぁ難しい魚ならまず繁殖には成功しない。


悔い改めなどしたわけでないことはことわっておかないと欺瞞のそしりを受けかねない。

身体というのは自分の一部というか、あたかも文字通り自分自身であるかのように思っていると、実際には他人のそれとも変わりがないほどままならぬものだと思い知っただけだ。

思えば水槽のベタは飼い主のことなど考え及びもせぬ。

ただ与えられる餌と、新鮮な水をはじめ限られた空間を満たす環境一式のありようによってのみ、ベタはその運命の命ずるところを知るわけだ。

メンテナンス。アクアリウムはメンテナンスのスポーツである。

これを思い出した僕はもう、自分の胴体のなかに息づくいきものたちに対し傲慢であることはやめようと思う。


アクアリウムとは、メンテナンスのスポーツなのだ。