新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ゾウの渡り、望郷。【2】

極真空手道場へ通う先輩に電話一本で拉致された僕はそのとき八丈島にいた。

5名の釣り好きと僕といういびつなパーティは台風で壊滅したあとの八丈島へ渡り、5名は3日にわたって防波堤からの釣りを楽しみ、僕は読書を楽しんだ。

そして帰りの機材が用意されるのを待つ空港で、僕にはもう読む本がなかった。

八丈の宿はエアコンすら有料で、連夜30分ごとにこの料金を回り持ちながら深酒をしたため、すでに経済的な完全燃焼を果たしていた僕にはもはや娯楽に費やす金もなく、帰りを惜しむ5名をよそにロビーに置かれたテレビをぽつねんと眺めるしかなかった。


テレビにはアフリカゾウの群れが出ていた。

出産を控えたメスのゾウが、とてつもない距離のサバンナを渡っていく姿を追ったドキュメンタリーだ。

照りつける太陽の下、誰に云われるでもなくゾウはただひたすらに渇いた大地を小走りにかけていく。

目指すのは、と語りが入った。このゾウが生まれた森です、と。


大人になったゾウは群れを求めて遙かな地へ旅立ち、豊かな餌を食み、恋をし、つがう。

しかし子をなし、これを産み育てようというある日、ゾウは突然走り出すのだ。

自らが生まれ、育った場所へ向かって。

そう思ったとき僕の視界が一瞬、フラッシュを焚いたようにまばゆく輝いた。


ゾウは懐かしんでいた。

腹のなかで育つこどもをやがて産み落とし、無事育て上げて「子孫を残」すため、出産と子育てにふさわしい安全な場所を求めてゾウは必死に駆けている。

母親が自分を生み育てた懐かしいあの場所へ向かって。

それが果たしてどのような場所なのかは僕にはわからないし、おそらくはもうすぐ母親になるこのゾウ自身もまた、それを知らないだろう。だが親が自分を育てたその場所こそは、自分がこどもを育てるにふさわしい何かが用意されているはずだと信じてゾウは走り出したのだ。

「懐かしい」気持ちは、「恋」のステージが終わり、いよいよいのちを繋いでいこうというフェーズに入ったゾウに、その目指すべき場所を示す羅針盤の役割を果たしていた。


大学を卒業すると同郷の仲間たちは実家へと帰っていった。

わけを尋ねてみても結局のところ「地元が落ち着くので」というのがその理由で、これは少なくとも当時の僕の理解を超えていた。

だがおそらく彼らのなかではそのときすでに子を産み、育て、そして死んでいくためのプログラムが動き始めていたに違いないと今は思う。


経済の発展は「流動性」がキーとなる。

ヒト・モノ・カネは、おのおのもっともうまく使われるところへ自由に流れ、集積することでより大きな利潤を生み、そのサイクルを拡大させていかなければならない。60年代の高度経済成長期はその背景として「集団就職」というムーブメントがあったことを抜きに語ることができない。

ところが現在、「Uターン」「Jターン」のかけ声にもかかわらず、都会で働き恋をする人々に、懐かしい土地へ帰って暮らすことは容易には許されない。ヒトだけが帰ったところでモノとカネが都会に集積している以上、地方に経済の発展はありえず、そこで暮らすことのできる人数は限られ、かつ減少していく一方だからだ。

そして「懐かしい」という感情は回収されずに圧殺される。

生まれたこどもがどんな世界に生きて、その目にどんな風景が映るのか、この地で育ったわけではない親には想像することもできないまま我々は繁殖しているのだ。

こどもの育つ世界は親の育ったそれとはあまりに違いすぎて、親には彼らにかける言葉も見つからない。


資本主義経済はいまのところ、人間の本能に照らして最も合理的なシステムだ。

だが同時に、それが人間にとって完全にフィットしたシステムでないということも、大方の議論が一致するところである。

ではいったい資本主義原則のなにが人間のどこを壊し、阻害するのか。考え続けていたもうひとつの問いに答えが出たのは八丈島の夏からざっと十年目のことだった。