新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

「幸運が、お前には必要になるだろう」と黒人は叫んだ。

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日比谷・日生劇場にて「キャバレー」観劇。

「Das walt ist Kabaret ! 世界は、キャバレーだ!」とのっけから大見得を切る諸星和己がいけない。いつもテレビサイズのカメラが自分を追いかけているという錯覚が抜けないものだから、やはり生涯舞台には向くまい。

だが藤原紀香との二枚看板で集客にはフル回転であろうから、関係者の手配してくれたE列という好ポジションであれば周囲は「党員」に取り囲まれているやもしれず、最後まで礼儀正しい拍手を送る。


聞けば随分有名な舞台なのだそうだが、むしろ小さな小屋で、劇団の公演として観たかったというのが偽らざる感想だ。藤原紀香は存在感で張り合える共演者がステージに見あたらず、バランスの悪さで芝居を壊す。

これは不幸としか云いようがないが、これこそがスターを配したキャスティングの難しさそのものなのだろう。観客が誰もそれを不満としていないことの方が問題。

結局舞台は藤原、諸星のふたりを並べるために用意された八百屋の店先がごとく平板となり、群像なのにこのふたり以外はほとんど印象に残らない有様。<

諸星の見せ場はローラースケートで駆け回る独り芝居のみ。これはうまい。彼はいっそ芝居はやめて、ローラースケートで歌いながら踊るグループでも結成すれば成功するかもしれない。


しかしそれにつけてもキャバレーである。

「人生はキャバレーだ」とまで云うのだからまたてっきり人生はキャバレーのなかにあるのか、あるいはキャバレーが人生のなかにあるに過ぎないのか、キャバレーで生きてきた人間がそれを確かめるためにはキャバレーを飛び出してみるしかないという自己実現の物語を期待していたのだが、ストーリーがまったく違った。

この時代の「キャバレー」がいかなるものかということもあるだろうが、猥雑な演出はまさにこちらの期待したキャバレーそのものだったから、これが非常に残念だった。

壁とロッカーの隙間をくぐり抜け通路へ抜け出す主人公。裏口へのぼる階段へ向かって走り出す。

背後から、事態に気付いたオーナーの手下が騒ぎ出す声がする。

階段手前の暗闇に巨大な人影。主人公、ギョッとして足を止める。

人影「そこまでだ、若いの。そう急ぐんじゃない」

用心棒の黒人が物陰から歩み出る。昨夜主人公に殴られた鼻が折れている。

深いため息をつく主人公。

実は二人は昔なじみである。


主人公:「・・・・・ハイ、AJ」

AJ:「ゆうべのは効いたぜ」

主人公:「芝居が下手になったのさ。いまは作家志望だから・・・・・そこをどいてくれ、AJ」

AJ:「前にもこんなことがあったな。俺たちはよほどキャバレーに縁があるらしいや」

主人公:「それもこれが最後だ」

AJ:「そういくかな?」


脇へ身体を引くAJ。

主人公、階段を駆け上がる。雨が降っている。廊下の奥に姿を現す追っ手。

駆け出す主人公の背中からAJの声がする。


AJ:「グッドラックを持っていけ、兄弟!お前には必要になるぜ!」


通りの脇では白内障の客引きが道行く人にいつもの声を掛けている。

客引き:「キャバレーは人生!キャバレーは人生!」

そうキャバレーは人生だ。だが人生はキャバレーではない。少なくとも彼にとっては、もう。


雨のなか、路上に上着を脱ぎ捨てる主人公。店では大騒ぎが始まっている。

星空へパンアウト。エンドロール。

こういうのがよかった。