新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

敗北の軌跡。

ある日20ページを越す大部のパワーポイントがメールで送られてきた。

タイトルは「敗北の軌跡」。

5年前にスポンサーを得て起業した同い年の男による自伝だった。

ようやくそこそこ食っていけるようになった会社を部下に譲って退く決断を、彼は敗北と呼ぶことにした。


「どうするの、これから」乱暴な問いに、アメリカへ渡ると彼は答えた。片道切符だ。

「敗北」はやむなしとしても、期限も決めずの渡米が妻子の同意なしにできる決断だとは思えない。どうするつもりなのかと尋ねた。

「錆を落として出直します。ここ数年、経営に携わるあいだにとった遅れをアメリカで取り戻して、何かまた新しいことを独りで始めたいと思って」。

それは社長として何十人もの生活を背負いながらではできない。だから会社は後進に譲り、自分一人が裸になって行くのだという。

一度は志した経営者としての道に自ら背を向けるのだから、これは敗北だということなのだろう。悩みはしただろうが、決めてしまったあとの彼に敗北者の影はなかった。


我々は80年代バブルがはじけてから大人になった世代だ。他人の人生を取り上げて善しや悪しやと論評する趣味は持ち合わせない。いまや40代の「大人」たちの、それは悪趣味だ。分の良い勝負だとは思えないが、価値があると思うのならやればいいだろうし、やるならば成功してもらいたいものだと願う。


経営者に求められる資質のひとつは、自分の身体感覚を組織全体へと拡張する能力である。

ひとりでビジネスをやっているのであれば、耳に電話をあてがい、左手で電卓を叩きながら右手でメモをとればよい。だがこれを組織化するということは、誰かがどこかで電話をしており、別の誰かが電卓で計算をしており、また別の誰かが文書を作っているというその状態を、あたかも巨大なひとりの人間が作業しているかのようにイメージすることであり、口々になにか云うようで実は沈黙しているその「組織」という巨人に言葉を与え、語らせることだ。

自分の電話は鳴らず、計算は担当者がしており、文書はできあがったものが届く。

その状態を不安に思うのではなく、そうしてセーブされた自分のキャパシティを、では何に費やすべきかと考えるところから経営者の仕事が始まる。


この身体感覚、自己イメージの拡大はその言葉通りエゴの膨張を意味する。

経営者の自我は物理的な限界をはみ出し、拡大しなければならない。もとより自分1人で済む仕事をわざわざ10人の社員と分け合う社長はいない。彼が可能性について語るとき、彼は自分と社員をあわせた11人分の可能性についてのシナリオを語らなければならないのだ。


ただし組織が大きな力を発揮したからといっても、経営者本人の能力やキャパシティ自体が同じように拡大しているわけではないという現実が一方にある。

11人分の可能性を語ることを覚えたとしても、社長ひとりでサッカーチームができるわけではない。

社長1人で飯を11人分は食えないし、11人分モテるわけでもない。経営者として追い求める幸せは11人分でも、彼の人生に待ち受ける不幸は彼ひとりのものだ。

人間としての経営者を破壊するジレンマはただひとつ、これに尽きるのである。


「錆を落とす」と云った彼の言葉の意味は明白だった。

何十人もの人間が駆け回る組織の経営者という座にあって、彼の精神は広大な可能性の旅を経てきたのだろう。しかしその一方、自分の肉体はそこに留まって、なんら変わることなくひとり分の老化と劣化を経験していることを彼は痛いほど感じていたのだ。会社は力をつけていく。だがその中心にありながら彼1人の能力の拡大はあまりにも遅い。

経営者であるということは、この痛みに耐えることなのかという自問に、どもりながら彼はイエスと答えた。そして同時に、自分にはもうこれ以上耐えられそうにないということも。


敗北を美化するのもまた、古い世代の悪趣味だ。

現代というステージで展開されるRPGにおいて、敗北はもう少し真面目な意味をもっている。

言葉すらろくすっぽできない彼がわざわざアメリカへ渡ってまでやり直すこと。その目的は技術の習得などではなく、膨張した身体感覚をもう一度等身大の自己イメージのなかへと巻き戻すことなのではないか。

パワーポイントは最後まで読まなかった。だがそのタイトルだけは忘れることができないでいる。