新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

神話からの脱出。


新宿メロドラマ。-ベジャール
渋谷はBunkamuraル・シネマにて「ベジャール、そしてバレエはつづく」が公開中。

ローザンヌ市が世界に誇るバレエ団を取材したドキュメンタリーだが、私は2011年1月のローザンヌ国際バレエコンクールを見物するためについ先日よりフランス語を始めたりしているようなものだから、新年早々にしてこれを観劇せんと足を運んだ。


「振り返ってはいけない。何が起ころうとも進み続けることだ」。
2007年11月22日、バレエ界の巨匠・モーリス・ベジャールが没した。
世界でもっとも影響力の大きい振付師の死は、その巨大な遺産を人類が受け継いでいけるのかどうかという壮大な試練の始まりを意味した。
ベジャールの才能はあまりにも奇抜だったばかりでなく、彼のキャラクターそのものと不可分であると思われた。しくじればその偉業もベジャールとともに喪われてしまい、バレエ界は大きな後退を余儀なくされる。危機感が高まるなか、ベジャールが指名した唯一の後継者、ジル・ロマンの孤独な挑戦が始まる。
ベジャールの遺言は、彼の死後ジル・ロマンの率いるバレエ団がベジャールのバレエを演じることと同時に、ロマン独自の振り付けによる新たな演目を必ず上演することだった。

ローザンヌ市が助成金を約束した期限はわずか3年。ロマンはこの間にモーリス・ベジャール・バレエ団を、ベジャールの正統な遺志を継いだ新しいバレエ団として生まれ変わらせなければならないのだ。
ロマンが、ダンサーが、そしてバレエ団を見守る多くのローザンヌ市民が、あたかもベジャールそのひとと対話するかのように言葉を紡いでいく。だがスクリーンに描かれるロマンの戦いは、ロマンひとりの戦いだ。

ベジャールとの約束を果たすべく、「アリア」の振り付けを開始するロマン。
死と再生というベジャールのメッセージから、ロマンが導き出した演出のテーマは「暴力」だった。

「我々の生きるこの世界は暴力に満ちている。加害者になるか、被害者になるか、そのどちらかを常に選ばなければならない。だが加害者にもならず被害者にもならない道はある・・・・・死を受け容れることだ。そして再生することなのだ」

人類の悲劇とは加害者の論理であるリアリズムと弱者の願望に過ぎない理想主義(アイデアリズム)とを与えられ、しかしこの不出来な兄弟のあいだでは現実を克服できないでいることだ。

一遍の悲劇において振付師が神の役割を果たすのであれば、ロマンの演出こそはまさに神の手になるそれであるかのように思われた。

*     *     *     *     *

厦門の夜、久方ぶりの酒に酔った僕は泣き言を云った。
日本はもうダメだ。アメリカからはいまだに自治権を認められておらず、その間に中国がアジアのルールを定めていくだろう。
アメリカのスタンダードに慣れてきた日本人にとって中国のそれを理解するのは困難で、適応はおそらく間に合わない。日本人の美徳も文化も経済的な凋落とともに喪われ、やがて歴史のなかに消えていくだろう。残念だ。

だが、

「いま日本人に何かを云ってやれるとしたら、何と声をかければいいのでしょう。
『このままではお前たちは大切なものを守れない。強くなれ。現実に身をさらし、強くなって自分たちの大切にしてきたものを守り抜け』
と云ってやればいいのでしょうか。でもそうした道に身を投じれば、結局日本人はみずから日本人であることをやめることになるでしょう。
あるいは
『お前たちは自分たちの大切なものだけを守って、それと運命をともにすればいいよ。そうして上品な、誇り高い民族として歴史の海に?まれ、消えていけばいいのさ』
と云ってやればいいのでしょうか?そうするとおそらく簡単にその通りになるでしょう。
我々が歴史に対して責任ある生き方をするとすれば、それは一体どのように生きていくことなのでしょうか」

僕の話を聞いていた厦門出身のコンサルタントは日本に移り住んで20年、いまは結婚して帰化し東京で2人の子供を育てている。

彼は僕の話を静かに聞くと、いつもの優しい日本語で答えた。

「僕も20年前に初めて日本へ行ったときには、日本人はなんて弱くてつまらない民族なんだろうと思いましたよ・・・・・でもそれはほんの少しの間で、住めばすぐ日本人の良さがわかった。それは中国にはない、中国人にはないけれどもとても大切なものなんだということがわかりました。
それは私だけの経験ではなく、当時一緒に日本へ渡った留学生たちはみんな同じように感じていましたし、いまだって中国から日本へ留学する若い人たちは同じ事を感じているはずです・・・・・」

彼は僕に答えることを避けたのかもしれないが、僕には彼の云わんとしていることがわかった気がした。

生まれたときから日本人の僕よりも、大人になってから日本人になった彼の方が日本人のことをよく知っている。だから大丈夫だ、日本人の大切にしているものは世界との激しい軋轢のなかであっても簡単に損なわれたりするようなものではないことが彼にはわかる。だから恐れず、運命を受け容れればいい。
彼はそう云ったのではなかったか。

「僕だってモーリスは死なない人間だと思っていたんだよ」。
公演のパンフレットでジル・ロマンが笑っている。
だがベジャールは死んだ。
そしてベジャールの遺した最後の「作品」であるロマンその人の手で新作「アリア」は上演され、喝采を得た。ベジャールは死に、ベジャールは再生したのだ。ロマンの手によって。

舞台の袖の暗がりで1人、ダンサーたちに拍手を送るベジャールの後ろ姿をスクリーンに見つめながら僕は気付く。そうか、日本は。
明治維新をめぐる神話がもてはやされる昨今において、気付いているひとはいるのだろうか。
「生まれ変わること」とはつまり死ぬことだということに。

あるいは日本という国は、1945年のあの夏には死にぞこなったのかもしれず、いまだ再生を待っているのかもしれないということに。


2010年11月、モーリス・ベジャール・バレエ団は来日する。

死と再生によって新たな寿命を得た精神に触れるため、僕はそれを迎えに行くだろう。