新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

許された盗撮としてのドキュメンタリーはフィクションに対し奇妙な近似を見せる。

渋谷は東急本店Bunkamuraシアターにて映画・「パリ・オペラ座のすべて

」を観劇す。


さて監督のフレデリック・ワイズマンなる男はドキュメンタリー職人であるということらしく、本作もセリフ・ナレーション一切なしで堂々160分という長尺だ。

世界に冠たるオペラ座のトップダンサーたちが、公演に向けおのおの振り付け師との対話を繰り返しながら演技を完成させていく様に、芸術監督が携わる経営マターの一端、オペラ座を支える職人の仕事場などのカットを織り交ぜた作品は、普遍的な構造への配慮を見せず、興味のない観客は身の置き所をなくすに違いあるまい。


しばらく前の僕のように、お稽古ごととしてのバレエにしか想像が及ばないといった御仁には、むしろロバート・アルトマンの「バレエ・カンパニー

」をお薦めしたい。
こちらも教訓には非常にとぼしい作品で、何につけストーリーが展開することに期待してしまうと肩すかしをくらうという大変な映画だ。念のためアルトマンがハリウッドを干された奇人というか、苦労人だということをお伝えしておく。
だがバーのウェイトレスを掛け持ちしながらバレエダンサーとしての成功をつかもうと努力する主人公が恋に癒される一幕など、「オペラ座のすべて」に比べれば気休めになる風景はまだ多い。

しかし「オペラ座のすべて」を観終わったとき何よりも先に思ったのは、「バレエ・カンパニー」でアルトマンが撮りたかったのは、本当はこの映画だったのではないかということだった。

アルトマンは「プレタポルテ」や「ショートカッツ」で有名な「群像劇」(あるいはオムニバス)を得意とした監督だ。
いくつもの場所で何人もの登場人物が経験する様々な出来事。アルトマンの作品では切り刻まれた複数のストーリーがめまぐるしく切り替わりながら並行して語り進められていく。

それはあたかも違うチャンネルでやっているテレビドラマを、リモコン片手に同時に追いかけていくかのようであるが、その先でやがて観る者を驚かせる大団円とは、というのがアルトマンの手法で、この手法はアルトマンのフォロワーであるポール・トーマス・アンダーソン(「マグノリア」)に引き継がれていく。

しかしアルトマンの作品はドキュメンタリーではないから、主人公がカメラに向かって話しかけたりはしないし、況んや誰かがフレームの外から登場人物に向かって「では今の気持ちをカメラに向かってどうぞ」などと話しかけたりはしない。これは我々が幼い頃から親しんだ創作映画における最大のルールのひとつだ。
つまりフィクショナルな映画においては、カメラは登場人物には見えないところに存在しており、観客の視点とはいわば「盗撮者」のそれと定められているのである。

他方、ドキュメンタリーはカメラが被写体の前に存在する資格を得て撮影される。
登場人物は非常にしばしば、カメラに向かってさまざまな事を語ったりもする。彼の戦争とはいかなるものであったか、師は何をもって範を示したのか、妻が今際の際に発した言葉はなんだったのか。
これらはすべて撮影者が発した問いに対する答えなのだが、編集の結果、話者のモノローグとして示されることが多く、ある意味で「ドキュメンタリー映画」とはこういったモノローグを繋ぎあわせたものだとも云える。

しかし「パリ・オペラ座のすべて」(あるいはフレデリック・ワイズマンの手法)はこのようなドキュメンタリー映画の「ルール」に対し大胆な例外を突きつけている。
先に述べたとおり、この映画において登場人物は一度たりともカメラに向かって何かを語りかけたりはしない。
また製作者の知識を注釈に加える(「ちょうどその頃、彼の心のなかには大きな疑問が浮かぶようになっていました」等々)というドキュメンタリーにおける正当な権利も行使されることはない。
もちろんカメラは「そこに居てよい」という許しを得てすべての出来事を記録しているわけだが、それでもこの特権が観客によって意識されることは最後までないのである。


このように考えるとこの映画は「製作の手法としてドキュメンタリーだが表現の手法としては創作映画である」と云うことができるだろう。


よってできあがったものは、もしアルトマンがワイズマンのように「取材」するのではなく台本を書いて「作った」としてできあがったであろうものと、もしかしたら似ているのかもしれないと私は思ったのだった。


アルトマンがもしオペラ座のバレエ団を取材していたら、彼はこの映画を、セットと俳優でイチから創り上げていたかもしれない。



「フィクションの価値はそのノンフィクション性にあり、ノンフィクションの価値はそのフィクション性のなかに存在する」。だがここにフィクションとノンフィクションとの境界そのものを無化してしまいかねない作品が存在すると、つまり私の感じたことというのはそういうことなのであった。

しかしわざわざ挟み込まれた最後のカットでカメラマンが突如観客の意識へ舞い降りる。

それはまるで「ところでこれはドキュメンタリーです」という刻印をワイズマンが捺したかのようであり、あたかもそれでもって創作映画との比較そのものを拒絶するかのような、つまり私のようないらぬ思いを巡らせる者に「おやめなさい」と告げるかのような、小気味の良いラストシーンなのであった。