新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

姉さん、ポップが死んだみたいだ・・・姉さん。

最近楽天のロゴがでかでかと貼り出された「有料動画サイト」のShowTime

が「交響詩篇エウレカセブン」の冒頭7話を無料で配信している。

「後悔しないから是非観てくれ」と薦めたいところだが、終盤必ず後悔する作品なのでごり押しはよす。ただ中盤までは無理なく楽しめるドライブをもったポップなアニメである。

 

ところで「ポップ」であるとは、コピーによって製造された大量生産の産物であるか、または意図的にそれを装った(か、強調した)様子を指していうのだと思っている。

エウレカ」は第一話から溢れんばかりの模倣と言及に満ちたアニメーションで、「王道である」「模倣である」とはどうしてかこんなにも楽しいのだろうと改めて考えさせられるところが、よい。

ポップであることそれ自体を好むことは「キッチュ」であると称され、よくすると小悪魔、打ち所が悪ければ「バカ」「痛いやつ」「貧乏くさい女」などとその評価は様々に分かれ、充分な注意が必要である。

(ちなみにShowTimeでの「エウレカセブン」のジャンルは「ロボット/メカ/青春/ドラマ/ラブ」)

 

しかしポップであるとは実にすがすがしい。

私は生き方(スタイルであって、道ではない。まして音楽の話ではない)としてロックを選んでいるし、音楽としてジャズを好む人もとりたてて嫌いではないが、しかしポップの味わいというのはそういった選好を超え、普遍である。

15年も前になるだろうか、おずおずと昼間、遊び始めた東京の街を埋め尽くしていた宇多田ヒカルのヒット・チューンに強烈な「ポップス」を感じたことをいまでも思い出す。カラオケに行けば男も唄っていた。

テレビを付ければ(あるいは付けなくても)全盛期の広末涼子松浦亜弥が独創性などみじんもないフレームのなかに収まっていた。それは、いまや快楽は大量生産が可能であることを保証する資本主義の女神のほほえみだった。

 

その点で昨今、ポップを感じることはめっきり減ったように思う。

アニメも音楽もスポーツ選手も、みな相変わらず大量生産されているが、そこに「ありがちな、アレ」であることのニヤリは生まれない。

もちろん先日上梓された「1Q84」などはその部類に入ろうが、村上春樹はその30年も前からポップであり続けているだけで、60歳を超えたジャズマニアのおっさんにポップの旗手を担われてはやはりたまらない。

大量生産の消費財というのは、たとえば子供の宝物になってしまうグリコの食玩のように悲しいぐらいチープな製造原価にもかかわらず人の心をつかんでしまう「まがい物」であることこそが価値の本質である。

歌や小説といった「作品」ではなく、「アーティスト」である(はずの)自分自身までもが大量生産の産物に過ぎず、際限なく消費されていくことに気付きもしないような若者の手によるポップの再興を願ってやまない。