私は大河ドラマというやつを観ない。
いきなり白状すれば「独眼竜正宗」(’87年)「武田信玄」(’88年)「春日局」(’89年)の三年間は一話も欠かさずに観ていた。
しかし「春日局」の成功により大河ドラマはやはり時代劇で行くとNHKが決めた(’86年までの3年間は冒険的に近現代の人間ドラマが続いていた)ことで大河ドラマはなにか日本人の「大きな物語」への憧れを搾取するエクスプロイテーションに成り下がった気がして、心が離れたのである。
よって私は「龍馬伝」も観なかった。
龍馬がなぜ殺されたのかという問題を深く知らなかったので最後の3話だけ観てみたが、殺されて当然だと思った。
ただ「ハウステンボス、長崎~上海でカジノ船運航へ 公海上で営業」( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110107-00000600-san-bus_all )みたいなニュースに触れるたび、龍馬のマネをして「日本の夜明けガゼルよ!!」と雄叫びをあげるようになっただけである。
【画像】日本代表を例えれば「ガゼル」 肉食獣の餌食?
サカ速 - 09/12/18
http://syukyuman.blog95.fc2.com/blog-entry-1967.html
「龍馬伝」が博した熱狂的なブームを例に挙げるまでもなく、日本人は近年、明治維新以降、太平洋戦争までの物語に抱く憧憬を隠そうとしない。
この国に勢いのあった頃を思い返すのは悪いことではないが、多くの日本人が事の本質には思いをいたすことがなく、ただ感傷的に「大きな物語」を生きる人物たちに自分を投影しているようでむなしく、不愉快である。
坂本龍馬が襲撃され、殺害されたのは当然だと云ったが、それはそうだろう。
「明治維新」は「開国」ではなく「大政奉還」こそがその本質だ。
なぜならそもそも幕府が敷いた鎖国は体制を維持するための障壁、ツールに過ぎなかったのだから。
だが鎖国200年の間にヨーロッパで起こった産業革命は帝国主義を誕生させ、時代に遅れた日本はその圧倒的な軍事力によって植民地化されかねない状況にまで追い込まれてしまった。
ここまで日本の発展を阻害し、世界の劣等生、未開の民族に貶めたのはいったい誰か。
それが一国の国内で自分たちの既得権益を守るため、鎖国を行い、ただ封建的な搾取構造に拠って汲々と生きる大名はじめ士族階級だというのが「維新の志士」たちの基本的な思想である。
従って主権を幕府から剥奪し、士族階級を解体して鎖国の理由・効用をなくし、海外の知識・情報を取り入れることで日本の産業と軍事力を促成せねば独立を維持することは叶わないという危機感が彼らを革命に突き動かしたのだ。
日本人にとって「革命」という言葉はヨーロッパ伝来の舶来品であって、それはギロチンのイメージと堅く結びついているから、明治維新が革命であったという云い方はあまりしっくりこない。
しかし革命とは既得権層からの簒奪をともなう構造変化のことだから、明治維新はやはり革命であって、ここでいう既得権層とは士族のことを指すのだ。
当時江戸幕府の従業員である旗本はその家臣まで含めると80,000人にのぼったと云われる。
「官僚」と呼ばれ霞ヶ関で働く上級の国家公務員が15,000人というから、当時の江戸幕府はこれを遙かにしのぐ「肥大化した組織」であったことがわかる。
龍馬がやったのは、これら江戸幕府の官僚たちを解雇・リストラすることに他ならない。
現代の官僚たちはおおむね丸腰だが、当時の旗本たちはみな帯刀していたわけだから、龍馬がいくら筋を通したところでテロは防ぎようがなかったことだろう。
ところで「日本の夜明けガゼルよ!」と叫ぶことは金持ちのハゲにもそうでないハゲにもできるが、「大きな物語」に心を寄せた全国の視聴者のリクエストに応え、龍馬が身を捧げた革命を現代によみがえらせるとするならば、簒奪されるべき「既得権層」すなわち保身と自己利益のために国益を損なっている集団は何にあたるのだろうか。
【画像】多様性を求めての旅 - 【草食動物3】
http://www5c.biglobe.ne.jp/~odah/animal/herbivore/herbivore3.htm
1. 公務員
国家公務員であるとないとにかかわらず、公務員はふたたびリストラされなければならない。
「公務員は安泰」だといわれてきた、そのいいようこそがリストラを不可避であると証している。
第一に公務員が安泰だったのは人口が増加し続け、かつ経済が成長し国家の運営事務が膨大化する一方だったからで、すでに少子化で人口の減少が確実なものとなったいま、「日本のバックオフィス」が従来の規模を維持しなければならない理由はない。
第二に、「安泰」だと云われ続けてきた組織には「安泰であること」を理由に入ってきた人間が相当数いるはずだから、国家の規模が縮小しつつある状況ではこういう人間を淘汰しなければならない。
そもそもこの国の経済社会は資本主義を旨としている。
政府部門のみがやむにやまれぬ必要性から競争を免除されているわけだが、これは何も競争が嫌な人間や競争を生き残れない人間をかくまうために用意されたシェルターではない。
社会保険庁とその後身の日本年金機構がさらした腐りきった組織のありようを見ても、政府部門の合理化は急務であり、避けて通ることのできない道である。
「職場がコンピュータ化すると仕事がなくなるので、コンピュータ化には断固反対!」などとどの口が云わせたのか。
役所であれ企業であれ部活動であれ、目的をもった組織のパフォーマンスは最終的には構成員の「士気」に依存する。
「安泰だから」という理由で国に就職した人間にはもとより士気など求めようもないから、「これからは安泰ではありませんよ」ということをはっきり告げて立法を行い、士気の低い者から解雇しよう。
2. 農業協同組合
平成22年度の「農業就業人口」は261万人だが、全国の総合農協に加入している正会員の数は500万人程度と云われる。
この「正会員」はいったい誰なのか。
そもそも「農業就業人口」とて、そのうちの6割近くが農業による収入をそれ以外の収入が上回る「第二種兼業農家」である。
「農業就業」とは云うが、全体で見ても世帯収入に占める農業からの収入はすでに20%を下回っているという、これが農協の実態である。
農業が日本にとって無視することのできない重要な産業であり、国の基盤であることは論を待たない。
しかし農協とその会員の素性をよく見てみれば、すでにこの集団が農業就業者の利益を代表したり、日本の農業の擁護者を自任したりする資格を失っているのは明らかだ。
農協とは第一に農業従事者のための事業を行うための組織であるが、それにしてはずいぶんと水ぶくれ感のある現在のこの組織が何をしているかというと、組織的な集票活動により選挙を通じて国政に影響を及ぼし、「農家」「農地」に対する補助金を延々と国庫から搾り取るためのロビー活動に他ならない。
「食糧自給率の向上」「食料安全保障」を声高に叫びながらTPPへの参加反対など農業分野の「開国」に対し執拗に抵抗する集団が、そもそも農業で食っているわけではない「偽装農家」の集団だというのだから泣けてくる。
世界の農産物市場で自由な競争にさらされることで日本の農業は強くならなければならない、日本の農業にはすでにその準備ができているはずだという論理がかき消される裏側には、そもそも農協が「農業をやってない者の集団」であって、「日本の農業の強さ」にはほとんど無関心であるという重大なすれ違いがある。
株式会社の農業への参入や自由な販路の拡大により、有能で意欲的な農家のポテンシャルを引き出し利益に変えてやれば、農業セクターは21世紀の日本にとって重しであるどころかかけがえのない強みになるだろう。
そのためには離反する農家に有形無形の圧力をかけ、これを阻害しようとする農業協同組合の解体が不可避である。
260万人の農業就業人口に対し農協職員は30万人ともいわれる。
この尋常ならざる寄生状態を明るみに出し、抜本的なリストラを行うことから始めなければならない。
3. 地方部
「地方の切り捨て」は小泉政権の樹立以降、構造改革に反対する者が常に武器としてきた抽象概念である。
しかし都市部はなにも地方を憎んだり恨んだりしているわけではないから、切り捨てるという話ではない。
総じて「国際社会において、日本は一国では成り行かない」ことに意識的である都市部の住民は、日本という閉鎖されたシステム内部での再分配にこだわるのみではシステム全体が劣化、沈下していくことを危惧している。
日本が世界規模の再分配システムに急いで参加しなければ、「世界のなかの残り物」を国民みんなで分け合うという憂き目をみることになる。
「お山の大将」を決めるのに侃々諤々とやっていて、気付いたら日本人はみな猿だった、周りからは指さし笑われて収奪される身に落ちぶれていたと、こういうことを心配しているのが「構造改革路線」の立場である(その点で「構造改革」→「景気回復」→「財政再建」を説く「上げ潮派」は純然たる「構造改革派」とは一線を画す。構造改革派にとって、構造改革による景気回復は国民を導くためのニンジンに過ぎず、本来構造改革の果実はより大きく、持続的なものになるはずである)。
都市部「一緒に頑張って、この先へ行きましょうよ」
地方部「いや、おまえらは我々を置いて行き、自分たちだけ行ってしまうつもりだ」
この綱引きに決着がつかず、日本はすでに始まったグローバルなレースにまだ参加できていない。
列強の「食い物」にされる前に立ち上がり、国力を高めなければならない。
そのためには開国により、敵を知り、己を知って額に汗しなければならないというとき、龍馬は80,000の幕府官僚以下、全国の士族階級を手にかけた。
これは「リストラ」であり、「切り捨て」に他ならない。
いま一度世界のなかに日本を位置づけようというとき、地方部は幕府・守旧勢力の立場をとっていることに気付かなければならない。
自ら都市部の者が云うことに耳を傾け、「世界のなかの農業」「世界のなかの林業」「世界のなかの土木業」について考え始めなければ、いつか本当に切り捨てられることになる。
「一人一票実現国民会議」のホームページをご覧頂こう( http://www.ippyo.org/ )。
東京都北区で衆院選挙の投票を行った場合、私の一票は鳥取県米子市の住民が投じる一票のわずか半分しか価値がない。
国民が一人一票の権利を行使して国の行く末を決しようというとき、人口の集積する都市部から代表を出すことは、地方から代表を出すのに比べ非常に困難なのだ。
つまりこうして国会には、地方部出身の議員が不当に多く入り込んでいるのである。
護憲派も改憲派も、都市部も地方部も、我が国の国政を「一人一票」の原則が支えることには意義のないところであるが、その反面こうした「選挙システム」の著しいゆがみが放置されているのはどうしたことだろうか。
こうるさい議論を端折れば、すでに地方部から(本来そうであるよりも)多数選出されている議員がシステムの適正化を阻んでいるからだということは誰にも推測できる。
彼らの主張が何であろうと、システムの「適正化」を阻むこの動きこそが「既得権層」に特徴的な動きに他ならず、メスを突き立てなければならないポイントを明確に示している。
闇雲に「地方の切り捨て」だと云われようとも、選挙制度(具体的には選挙区の設定方法)の適正化は憲法の精神に則って行われなければならないし、こうして水増しされた地方部の声をボリュームダウンしてから議論をやり直さなければならない。
少なくともこの点において、合理的な反論は存在しない。
4. 団塊の世代
リストラするというと語弊があるが、少なくとも団塊の世代に対する社会保障についてはリストラせざるを得ない。
破綻に際し救済を乞うたJALがOBの年金をカットしたが、あれと同じで当然だ。
「人生設計が狂う」と怒った対象者も少なくなかったが、JALの将来設計が狂ったのだから分かってもらわなければならない。
今回の場合国の将来設計が狂ったのだ。
年金制度や健康保険制度がもうもたない。
いま30歳ぐらいの人は、生涯に支払う社会保険料と、受け取る給付金の額がほぼ同額になると考えられている。
これが20代の人になると、生涯で数百万円のマイナスになるということである。
このマイナス部分がどこにいったのかというと、親の世代の年金や医療費といった社会保障費に回っている。
ところが逆に団塊の世代になると数千万円の「儲け」が出ているというのだから、もうその「儲け」の部分はいくらか諦めてくれというお願いはしてもよいだろう。
だいたいいまの勤労世代に貯蓄ができないというのに、散々蓄財して「人生設計」のできた世代に対し、さらに年金まで支払う必要があるのだろうか。
「払う」といった約束は約束だけれども、社会保障のそもそもの役割に立ち返って考えよう。
豪華客船でクルーズに行っちゃうような夫婦に月額何十万も支払われている年金が、社会保障なる役割を果たしているのだろうか。
なに、若い頃は高度成長の波に乗って楽をしてきた世代だ。
老いたとはいえ、まだまだ元気はある。
現役時代に培ったノウハウを海外に広め、日本の生産現場や市場を拡大する役目でも担ってもらおうではないか。タダで。
働けない人に働けと云ったり、カネのない人からむしり取ろうというわけではないが、必要以上にカネをため込んで、ありあまる「老後の幸せ」を堪能する時代はもう終わったということにご理解を頂きたいということである。
人情の入り込む余地はない。
以上、平成維新の詔とするが、龍馬がいまの日本の惨状をみたらこれぐらいのことはするだろうと思う。
維新のドラマが見せる「大きな物語」は、大きな物語の常として、どんな規模の物語にも投影することができる。
親子の確執にも、上司との諍いにも、同期との競争にも、民族紛争にも、この大きな物語の構造は当てはめることができるのだ。
だから大きな物語を題材にしたドラマはウケるし、NHKは大河ドラマを時代劇でいくという方針をいまも堅持している。
そんななか、龍馬がふたたび維新を行えば自分はリストラされる幕府の側にいるのだという自覚のないまま「日本の夜明けガゼルよー!」と叫ぶことだけ覚えた小さな国民たちを、私は悲しく思う。
【画像】WILDLIFEJAPAN.com
http://www.wildlifejapan.com/gallery/thomsons_gazelJ.html
アジアに「大きな物語」を描こうとして大失態をやらかした日本人は、その後半世紀あまりにわたり、物語の主体であることを意図的に諦めてきた。
そもそも物語のなんたるや、その功罪をすら教育として行うことなく厳しく控えてきたため、現代の日本人は物語に触れたとき、その投影する先を間違える。
「物語」の力は人に「明日の自分」ではなく「明日の自分たち」を描かせるところにある。
あとは「自分たち」がいったいどの範囲の共同体を指すのかということだけであって、「国家戦略」「グランドデザイン」などすべてこのことを指していう言葉が飛び交うなか、国民はむしろ最小単位の「自分たち」に龍馬の姿を描きつかの間の英雄気分を味わうばかりである。
家庭で、職場で、街で、故郷で自己を実現しヒーローたることは大仕事である。
しかし日本という船そのものが沈みゆくとき、客であるか乗組員であるか、楽師であるか調理人であるか、また蓄えがあるやなしや、一等客室か四等かすら意味をもたない。
ニッポンはいまだ暗い夜の闇を行く。
国民はみなその行く先に目をこらし、心を傾けるべきときでガゼル。