新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

女を買うこと。給仕人の夢。

「わたしは英国王に給仕した」という小説がある。

すでに没したチェコの作家・ボフミル・フラバルがわずか18日間で一気呵成に書き上げたといわれる作品だ。

フラバルは49歳でデビューした遅咲きの作家(もっとも、遅咲きにならざるをえなかった背景にこそ20世紀チェコの複雑な社会状況が影を落としているのだが)。

1997年、鳩にえさをやろうを身を乗り出したアパートの5階から転落して82歳の障害を閉じたという、ちょっと聞いただけで「ただ者ではない」とわかる文学者である。

「わたしは英国王に給仕した」は、なぜか池澤夏樹が選者をやっているらしい河出書房新社の「世界文学全集」に収められている。

わたしは英国王に給仕した (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

わたしは英国王に給仕した (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

 

 「まだお前はここじゃ給仕見習いだから、よく心得ておくんだ!お前は何も見ないし、何も耳にしない、と!・・・・でも旨に刻んでおくんだ。お前はありとあらゆるものを見なきゃならないし、ありとあらゆるものに耳を傾けなきゃならない。繰り返し言ってみろ」

田舎町のホテル「黄金の都プラハ」の支配人がレストランへやってきた少年を怒鳴りあげて物語の幕はあがる。

以降年老いた少年が山奥にうち捨てられた「ドイツ人の村」に見付けたビヤホールで一人語りを始めるまで、5つのレストランを渡り歩く様子を物語は5章にかけて追いかける。

少年の夢はたったひとつ、「百万長者になって、自分だけのホテルを所有するようになること」。

一度はドイツ人女性に惚れ込み、「ドイツ人化」してまで祖国を併合した敵国に与するまでになる主人公だが、チェコスロバキアが共産化した後はわざわざ「自分は百万長者だ」と証明してまでみずから収容所へ向かう、彼の「夢」はすなわち承認欲求だ。

小さな街であろうと首都プラハであろうと、はたまたセレブだけのために用意されたリゾートであろうと、ホテルのレストランで食事をし、酒を飲み、女と戯れる「客」の愚かしい狂乱と、まばゆいばかりの輝きは変わることがない。

幼くして給仕人としての人生をスタートした主人公は、「あちら側」の世界に触れ、悟る。

わずかばかりの収入でも、家族とつつましい食卓を囲む人生こそが幸せだなど、嘘だと。

そんなものは金持ちが、本当の幸福と豊かさを貧しい人々の目から隠すために弄した作り話に他ならないと。


映画「英国王給仕人に乾杯!」が日本で公開された際、監督のイジー・メンツルに、原作であるこの作品を「かならず日本語に訳すと約束し」たという訳者が「解説」に云うように、「わたしは英国王に給仕した」はそのままチェコという国家自身の物語だ。

第一次世界大戦の講和によりオーストリア-ハンガリー二重帝国から独立して以来、というよりもその独立の経緯からして、チェコは、そしてチェコスロバキアは大国の胸三寸でばかりその運命を決められてきた。

やがてチェコスロバキアはドイツにより侵略的に併合されるが、なんと連合国は恥ずべき沈黙をもってこれを承認してしまう。

ドイツの敗戦後はソビエトの「衛星国」として、チェコにとってはあまりに大きな冷戦という大構造のなかで、ひとつのピースの役割を演じることになった。

チェコスロバキア政府による自決的な自由化がソ連の戦車に蹂躙された68年の「プラハの春」事件とその後のソ連の駐留に至っては、こうしたチェコの「宿命」を象徴する最たるものだ。

主人公の名は「ジーチェ」(こども)。

大国だけが歴史を編むことのできる世界にあってまるで子供のように翻弄されたのが、チェコという国だ。

まるで何も目にしないし、耳にもしないでいるかのように扱われながら、しかしチェコはすべてを見てきたし、あらゆるものに耳を傾けてきたのだ。

あの愚かしい、豊かな大人の世界に仲間入りする日を夢に抱きながら。


「百万長者になりたい」というジーチェの望みは「百万長者の仲間入りをしたい」という承認欲求にほかならない。

その誰よりも強い欲求がジーチェに強いる滑稽な悲劇と回り道。

対戦を経てふたたび主権を回復したチェコと、そのときついに夢果たして百万長者であったジーチェのそれぞれが自ら選ぶ運命とは。

年老いて静かにヒューマニティへの思いを語るジーチェはこのとき、共産主義化した祖国のなかに「人間の顔」を探そうとしたフラバルそのひとである。

チェコが、そして帝国主義に乗り遅れた近代民族国家の多くが巡り合わせる「大きな物語」の20世紀版に接して21世紀を思うにつけても重要な意味をもつ、これが「文学」だということなのだろう。


映画「英国王給仕人に乾杯!」は原作への敬愛をにじませつつ、チャップリンを思わせるしたたかなユーモアを映画の責任としてしっかり取り込んだ良作。

これだけでもフラバルの皮肉な人柄と文体を忍ぶには十分だが、より多くの示唆に富むエピソードを楽しみ、語り口こそ軽妙ながら深いその思索に触れたければ原作の一読をお薦めする。

原書は書かれたときの勢いをそのままに、ほとんど段落もないようなスタイルだというが、訳者は編集者と相談のうえ、日本語版では適宜改行を設けたことを明かしている。 

英国王給仕人に乾杯! [DVD]

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