新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ベトナムコーヒーの夢。そしてライトノベルが幕を開ける。

五年間引きこもって寝ていた部屋に人が入ろうとする気配がする。

ドア越しにも母親がオロオロしているのがわかった。

締め切ったカーテンの隙間から陽射し。朝らしい。


ドアが開く。寝たふりをした。

誰かが僕の顔をのぞき込んでいる。

聞いたことのない言葉が交わされて、さらに何人かが部屋に入ってきた。

どうやら布団ごと持ち上げて連れ出そうということらしい。


仕方なく大きく寝返りを打ち、力ないうなり声で目が覚めていることを認めた。

部屋の戸口から母親の弱々しい声が弁解するように云っている。

「アメリカへ行くのよ・・・もちろんアメリカン航空だけど、ビジネスクラスにしてくださるって・・・」

ドアに目をやると母親を遮って背の高い外国人が入ってくるところだった。

もちろん事情を飲み込めず、

「やれやれ、『組織』がようやく重い腰をあげたか・・・」

と声に出してみたが誰も表情ひとつ変えなかった。


外国人が白いスーツのポケットに手を突っ込んだまま、じっとこちらを見つめているのに耐えきれず、やがて僕はあたりに散らばった服を集めて着替えをはじめる。

「オーケイ、オーケイ。いいか、晩飯はイタリアン、朝飯はジャパニーズにしてくれよ。特に朝はたっぷりだ。旅先で昼は食わないんだからな・・・」

英語で男に話しかけながら着替えを終え、床に落ちていたパナマ帽を手にとったところで目が覚めた。

ハノイ時間16:00。昼寝は終わりだ。


朝から客先を回った。

最初に示した住所をタクシーのドライバーはもちろん知らず、遠からずといえども違うところで降ろされた。

だがそこはベトナムにもそろそろ一年。アタリを付けて裏側の路地へ回り込み、建物に貼られた番地を頼りに行き先を見つけ出すと、路上のカフェでカフェスダを飲んで時間を潰す余裕まであることに我ながら感心する。

昼過ぎにホテルへ帰り、東京とSkypeを結んで会議を終えると時間ができた。

とはいえ外に出るほどの余裕はなく、ホテルの地下にある喫茶店のようなレストランでスパゲティ・クラシック・ボロネーゼとシーザーサラダをダイエットコークで食べた。ベトナムには多い、完全に茹できったパスタはいつも僕に給食のスパゲティを思い出させ、これを僕は「クラシック」と呼ぶことにしている。

もう東京から電話がかかっている時間かもしれないが、地下のレストランへ電波が届かないのをいいことに、ベトナムコーヒーを一杯やることにした。

個人のSF小説を読みながらたっぷり10分かけてコーヒーを飲み、地上へ出る。

携帯の電波はまだこない。VINAPHONEに何かあったのだ。

ホテルの部屋から「携帯不通」の連絡を打って、しばらくそのまま仕事をする。

豆をすりつぶしたような濃いベトナムコーヒーの甲斐なくやがて14:30に眠気がきた。

Skypeの着信音量を最大にして、ベッドに潜り込んだ。


夏のハノイでは湿度が90%に達することも珍しくないと聞いた。

湿度はデータセンターの大敵で、室温を25℃にコントロールされたマシンルームではコンデンサに結露が生じ、回路がショートする。

これを回避するにはマシンルームを建物の内側へ封じ込め、徹底した空調で湿度をコントロールする以外にない。

それが実現できたセンターは、ハノイにたったひとつ。そんな話をされた。


サングラスを通して見るハノイの街はリドリー・スコットの撮る都市のようだ。

だがライトノベルである日始まる冒険のように、人生は一変したりしない。

背の高い、白いスーツの外国人は僕の知らないところでずっと、あの日のために準備をしてきたのだ。

朝起きて、打ち合わせをして、報告書を書き、Skypeで連絡をとり、名刺を整理してアポをとり、誰かとディナーをとりながら交渉を繰り返してきたのだろう。

あの朝、引きこもりの僕を急襲した冒険は、スーツの男が抱える案件のひとつでしかなかった。

それが男が僕の言葉を冷淡に聞き流した理由なのだと、そう思う。