新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ベルーガとともに運ばれたもの。

その晩、チャビンがすでに大きく負けていることを、僕たちは知らなかった。

地味な色のシャツで包んだ腕のなかには1枚1,000ドルのチップが山のように積まれていたからだ。

それまで何日ものあいだカジノフロアをさまよい歩きながら大きく勝ちも負けもできず、ただ浅い眠りを繰り返すうち精気だけを吸い取られて落ち武者のような姿になった僕たちは、この男に賭けることにした。

 

東洋からきた若い連中が同じテーブルにつくのをチャビンはいやがらなかった。

隣に座った僕が口座からチップを引き出すのをチラリと見やり、グラスからウイスキーをひとくち生で呷るとディーラーに向かって “How much I owe you?” となまりの強い英語で尋ね、1,000ドルチップでコミッションを払った。

礼儀正しくチャビンの賭ける方にあわせて小ぶりなベットを繰り返すと、3度続けて全員が勝った。

「どこからきた、日本からか」

ようやくチャビンが話しかけてきたのはその頃だった。そうだ、と応えるとチャビンはディーラーに向かって云った。

「みたか、日本人だろ。知ってるんだ。

 日本人は礼儀正しく、気の良い国民だ。尊敬してるんだよ、俺は」

ありがとう、日本人をたくさん知ってるんですかと尋ねると「ビジネスだ」と云った。イランから、キャビアを輸出するのさ。キャビアだけじゃ、ないけどな。

「彼は大物。とっても成功してるんだよ、ビジネスでね」ディーラーが付け加えた。

立ちのぼるカネの匂いは目がくらみそうだった。「もちろんビジネスでね」

“How much do I owe you?”またチャビンが訊くとディーラーが答えた。「350ドルです」

チャビンはまた1,000ドルチップで鷹揚にコミッションを払う。後払いのコミッションを都度払うプライヤーは借金が嫌いなのだ。そして金持ちもまた、借金を嫌う。

「ウイスキー・アンド・ソーダ。彼と同じもので」

呼び止めたウェイトレスに紙幣を握らせて僕が云うと、チャビンはこちらを向いて微笑んだ。

カジノと人生に共通して大切なことがある。「勝ち馬に乗れ」というのがそれだ。

 

「日本人は本当に、尊敬に値する連中だ。そこには文化がある。世界で一番素晴らしい民族だよ」とチャビンが云った。

「おまけにからっけつですけどね」と僕が応じるとディーラーが大きな声で笑った。

ウイスキーが3杯目になる頃には僕たちとチャビンは意気投合していたが、あいにくチャビンはあれ以来ツイていなかった。

何かがおかしいと首をひねりながら、「日本人はチームワークを知っている」と繰り返すチャビンにほだされ、同じように賭けていると僕らの手持ちは見る間に減っていった。

“ How much do I owe you?”

嫌みを聞き流してチャビンがコミッションを払った。こちらも手持ちはあとわずかだ。

頃合いか、と僕たちが視線を交わしているとチャビンは残ったチップを脇へ押しやってピットボスを呼んだ。

「カジノホストを呼んでくれ」

小声で不可解なやりとりがあり、落ち着いた足取りでスーツの女性が現れた。

「ハイ、調子はどうですか、サー」

 「ツイてないんだ。もう40,000ドル出してくれ」

僕は息を呑んだ。

カジノはネイキッドでチャビンにチップを貸し付けていたのだ。

僕たちが見付けたとき、チャビンの腕のなかにチップがうなっていた理由がこれでわかった。

" How much do I owe you? "(私の借りはいくらかね?)

今度はコミッションの話ではない。いたずらっこをたしなめるような笑顔でカジノホストが指を二本立てた。

200,000ドル。

この男は今晩こうして負け続けていたのだ。

 

「さあ日本の若者たちよ、心は決めたかな?

 私はプレイヤーだと思うよ。

 しかし素晴らしい夜だ。日本の若いジェントルマンたちとこうして時を過ごせるんだからな!」

チャビンは届いたばかりのチップからひと山つかんでテーブルの上へ投げ出した。

あさ5時。帰ろうというそぶりはみじんもない。

観念した僕はグラスを干すとウェイトレスを呼び止めた。

「ホットコーヒー、急いで」

 

*     *     *     *     *

 

そもそもカジノの収益というものは負け金ではなく賭け金の総額に対するチャージであり、滞在型リゾート(IR)においては賭けの負けを収入の担保にしているのではなく宿泊や飲食、観光などもすべて踏まえて一人当たりの集客利益を念頭においており、カジノというのはいくつもある「日本にいる楽しさ」のひとつの具であるわけです。

内田樹せんせが斜め上の角度からカジノ法案をDISる一部始終: やまもといちろうBLOG(ブログ)

 

カジノはともすれば「客の勝ち負けに関心はない」と主張したがる。

たしかに僕たちがバカラに勝つ確率は半分よりも少し低いが、みじめな思いをさせられることはずっと少ない。

 

*     *     *     *     *

 

次の日もチャビンはバカラテーブルにいた。

服装はゆうべと変わりなかったが、手もとにはウイスキーのグラスではなくアイスコーヒーとミルクのポットが並んでいた。

用心深くしばらくうしろから様子をうかがっていると、今日は本当に勝っているらしく勢いよく張り込んであっという間に30,000ドルほど勝ってしまった。

借りは返してもらわねばならぬ。これもまた人生において忘れてはならないルールのひとつだ。

今日こそはと襟を正してテーブルに近づき、笑顔でハイ、調子はどうと声をかけた。

チャビンはすぐには応えなかった。

ディーラーが払い戻したばかりのチップをつかみ、ゆっくり肩越しに振り返ると、チャビンは盗人を見る眼で僕を見て云った。

「お前の知ったことじゃない」

 

チャビンというのは彼の本当の名前ではない。

ハゲだから「ハゲチャビン」と呼ぶことにしただけだ。

あれ以来、姿はみていない。

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