新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

リアが非コミュに優しくすると大変なことになるぞという話。

シルバーウィークを満喫中のみなさんにおかれてはさぞご機嫌麗しいことと思う。

わたしは今回の東京滞在最後の夜となった昨晩なぜか一睡もできず、マンスリーマンションのキッチンでウィスキーを立ち飲みしながらシャアがダカールで行った演説の練習をしているうちに夜を明かしてしまった大馬鹿者だ。

今日はいろいろと片付けなければならないことがあるというのにへべれけに酔った状態で羽田と新宿を朝から往復してみたり、散髪屋の椅子でガン寝したりした挙げ句、ようやく羽田空港国際線ターミナルのラウンジでシャワーを浴びていろんなものを洗い流したばかりである。

 

「いろんなもの」には先ほど新宿バルト9で「心が叫びたがっているんだ。」を観たことによって頭からかぶった大量のモヤモヤも含まれる。

主人公の成瀬順は幼い頃に出会った玉子の王子にかけられた呪いで口がきけなくなったまま高校生になっていた。

順が原因で夫と別れた母親は女手ひとつで彼女を育ててきたが生活に疲れ、世間体を気にして順が近所の人と顔を合わせるのを快く思っていない。

ある日、高校の担任である音楽教師は学校と地域住民との「ふれあい交流会」の出し物にミュージカルを上演したいといいだした。

彼が実行委員に指名したのは、両親が離婚したあと祖父母と暮らす引っ込み思案の坂上拓実とチアリーディング部の部長を務める優等生・仁藤菜月、肘を傷めてチームの夢を絶ってしまった野球部のエース・田崎大樹、それに順。

クラスメートはただでさえ出し物に乗り気でなく、田崎は部活をドロップアウトしそうな自分のストレスで手一杯で実行委員の役目を放棄する。

なにごとにも積極的でない拓実は教師に再考を求めようと音楽準備室を訪れ、同じようにやってきた順と鉢合わせした。

そのとき、ひとつの偶然が順の心に不思議な感情を目覚めさせる。

歌でなら、自分の気持ちを言葉にできるかもしれない・・・私はミュージカルをやりたいんだ・・・。

 

まずこういう話をするとウェブ広告屋を中心に分かったような顔をした知人が「そもそもなんでそんなもん観に行ったんすか」とCTR(クリックスルーレート=ウェブページ上に表示されたバナーをユーザーがクリックする頻度)の話をしてくる。

成果にせよ報酬にせよ常にパーセン(パーセンテージ=統計的に成果を計測すること、または売上に比例するかたちで報酬を得ることを意味する)で生きている人間というのはどうしてもこういうアタマになるのだが、そも良い映画・アニメに一本でも多く出会おうと思えば人がよかったというものばかりを拾っていては追いつかない。

ピンときたものにはかじりついていかなければ、万が一「俺だけは感動!」という作品だった場合に取り返しがつかない。いいものとの出会いは一期一会。出会うか出会わないかはオール・オア・ナッシングであってパーセンの話ではない。コレを逃してアレを手に入れたところでコレとの出会いは永遠に取り返しがつかないのだ。

そういうわけで私は気になればなんだって観に行く。

「カンフー・フォー」だって観に行く。特にDVD化も怪しいようなタイトルこそ、もう一生出会えないかもしれないわけだから劇場へ足を運ぶほかない。

まぁ「カンフー・フォー」の話はいい。

ホーチミンシティの劇場で下手なベトナム語を使って「カンフー・フォー、1枚、いくら?」と訊いたら係の男が「えっ、カンフー・フォー?これ?あの右から二番目のやつ?ミッション・インポッシブルじゃなくて?」と激しく動揺していたのはいまではいい思い出だ。

 

「心が叫びたがっているんだ。」は「あのはな」すなわち「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」の制作チームである「超平和バスターズ」が送り出す作品だというこの一点でぶち上げられたタイトルである。

ちなみに「あのはな」というのは「あの花」と記述してはいけない。

なぜならこの呼称は、

あの日見た

花の名前を

僕達はまだ

 知らない。

を左上の「あ」から斜め読みしたものだからだ。

リアルに描写された秩父の街を背景に、幽霊になった少女とのひと夏の物語はテレビシリーズならではのゆっくりとした時間の流れのなかで深い後悔と優しさ、子どもに過ぎない思春期の少年達のやるせなさと希望を描いて静かな感動を呼んだ。

同様に秩父の高校生達を主役にすえた「ここさけ」は、こちらもまた「青春群像劇」というべきフレームワークで成り立っている。

しかし惜しむらくは群像劇にあるべき「主役達はそれぞれに違う問題でのっぴきならない状況に陥っているか、なんらかの謎を追っている」という重要な縛りが弱く、さほど問題を抱えていないの(拓実と菜月)がいたり、明らかに問題を抱えているが、それがどれほどのっぴきならないかがよくわからないというの(順)がいたりとキャラクターの造形に充分な手間が割かれなかったため、それぞれの問題がからみあい、やがてひとつのテーマが現れ、最後にそれが(偶然か、協力=ストーリーが一本化することによって)解決し、カタルシスをもたらすというフローが大きくブレ、すべった。

群像劇においては自分の問題をそっちのけにして他のキャラクターを後押しするのが出てきてはいけないのだ。それぞれが自分の問題に取り組んだり、そこから逃げたりしているうちに同じ場所にたどりつくという流れがなくてはいけない。

その点、まず拓実が、それから大樹が、そして菜月がと徐々に順の願いを叶えようとし始めるタイミングが早すぎ、動機が弱すぎる。

この問題は「あのはな」の慎重な構成と見比べれば一目瞭然だろう。

もちろん劇場アニメの時間的制約(「尺」の問題)はテレビアニメのそれに比べるべくもないが、しかし優れた群像劇やオムニバスとしてリリースされ傑作の誉れ高い劇場映画は古来いくつも存在する。そこは脚本もさりながら撮影と編集の妙であって、「ここはちょっと余韻を残したいから、セリフのあと〇秒のこす」みたいなことをいちいちやっているから尺が足りなくなるのだ。ずいぶん平板な編集だなと感じた観客は少なくないのではないだろうか。

あと致命的には、主人公の順が呪いによってしゃべれないというのが本作の最大のギミックなわけだが、実は頑張ればしゃべれたが、しゃべると腹が痛くなるとかいうのが最低だった。

担任の教師が二度繰り返すように、「ミュージカル(ドラマ)には奇跡が必要」なのは間違いないが、「ここさけ」における奇跡が「順がしゃべれるようになる」のではなく「しゃべっても腹が痛くならなくなる」という、これはこれで心理的な理由で困ってる人は実際にたくさんいるのであろうが、呪いから始まった物語の大団円としてはなんだかなぁという思いがした。

ただし余談であるが、口のきけない少女が歌は歌うことができた!というのは先頃お披露目となったボリショイsuzuikiの「創世記ミキオン」の筋と見事にカブっており、このシンクロニシティには驚いたし、なんだか正直かなり焦った。

音楽劇「創世記ミキオン」 | ボリショイsuzumiki

ネタバレついでにさらに云ってしまうと一番最後に拓実が順を口説き落とす「きみの気持ちには応えられないが、ステージで歌を歌って欲しい!」という手前勝手なオファーは「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」の最後とまったく同じだなと気付き、30年後に劇場でまたそれを観ている自分のことについて帰り道にはすこし考え込んでしまったことである。

以上、ひとことで云えば「非コミュの恋は勘違いと思い込みが九割で、そのくせ逆恨みも結構あるので妙に優しさを見せるとこじれやすい。リアはリア、非コミュ非コミュで矩を超えずにやっていくのがいいでしょう」という教訓譚だったのかなというところだ。

しかしそれで思い出したが、高校時代には非コミュの女子ばかりと狙ったように交際していた男子がいた。

あれはきっとセックスへの敷居が意外に低く、また別れるときも相手が諦めてくれやすいのではないかと勘ぐって当時の僕のルサンチマンは熱く燃えさかっていたが、「ここさけ」でも最後に野球部のエースともあろう大樹が順に告白しにいくのはやはりそういうことなんだろうと腑に落ちたし、体育会系男子の性欲のはけ口にされる無口な女子高生というのはほんと、なんとも云えないイコンだなと改めて感じた。

 

シャワーを浴びたばかりなのに書いてるうちになんだかまたモヤモヤしてきてしまったが、劇場内にも綺麗に泣き落とされているひとはあまりいなかったようだ。

ただし二日目だった日曜日、19:30の回は満席だった。

男同士の客が6割、カポーは1割、あとは男女単品にわずかに女性同士の客といったところだろうか。

観客の体臭はあまり強くない。観劇中の食事にも差し支えのない範囲だ。

 

では、ホーチミンシティにてお目にかかるのを楽しみにしている。

ごきげんよう。