新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

懺悔録。寿司折りと僕たちの、行方。

f:id:boiled-pasta:20160401075006j:plain

わけあって、ブログを書くのを休んでいる。

「休んでいる」って、おまえ基本休んでるじゃねぇかという突っ込みを、昼夜なしにくれるタイプが好きだ。男女を問わない。

それで、「お休みしています」ということをFacebookで表明した刹那のことだが、こんなブログに触れて思い出したことがあったので、書き置くことにした。

ベンチャーのマネージャを蝕む3つの病

「触れて」というのは、要するに僕は本文を読んでいないからだ。怖くて。

同年代の方々は、こうやって嫌なことから逃げてばかりの少年が汎用人型決戦兵器に乗って戦う話を覚えていると思うが、僕はいまそういう小説を書こうと思っている。

 

歳をとったというか、何か一線を越えてしまったのだろうか。

最近、ひとに話したいことが溜まって気が狂いそうになる。

実際、頭のなかに話したいことがあふれかえってしまい、数年ぶりに不眠を再発した。

それはまるで、冷凍庫でキンキンに冷やしたスミノフ・ブルーみたいな、透明の、カッチコチの不眠。

きわめて純度の高い、キラッキラでアンブレイカブルな不眠。

ボストンにいるのでドラッグストアで売ってるタイプの睡眠導入剤を服用しているが、効くまで1時間かかるものの、効き始めると死んだように寝る。

ま、それが不眠というものだ。FYI.

*     *     *     *     *

155 名前: すずめちゃん(アラバマ州)[] 投稿日:2009/02/09(月) 17:04:44.42 id:bsaWj/k+
若い女はどうか知らんが、おばちゃんプログラマーは重宝する。

若い男が面倒なのは、妙に向学心とプライドがあって、妙な実装
をしたがる。んで自分流でやりたがる。そして打たれ弱い。

おばちゃんは、知ってる実装しかそもそもやらないから、設計を
預けたあと、問題があればいの一番に文句言ってくるし、設計に
問題がなきゃ、延々何時間でも同じように作業してくれる。

あと、お菓子くれる。若い奴はお菓子くれない。そこがダメ。

出典が2ちゃんねるのコピペだということもあるし、ジェンダー論やポリティカル・コレクトネスの話はどうかいったん脇へおいていただきたい。

 

二十代の半ばで僕のチームに初めて本物のプログラマがやってきた。

純粋な礼儀正しさから年齢には触れないが、それは大手の開発現場で一度バーンアウトした女性だった。

「ITスキルのある事務員候補」としてその会社へ応募し採用に至ったわけであったが、ある事情によって彼女は僕のところへ回されてきた。

「僕のところ」というのは、いまさら遠慮なしに云わせてもらえば、もとは正しく社内の掃き溜めみたいなチームであって、「使い物にならなかったが、辞めさせるには惜しい気のするやつ」があちこちから回されてきて、彼らに何か仕事をさせるのが僕の役割だった。

当初は気を使って「うでパスタ事業部」などと呼ばれていたが、社内のそこここから投げつけられる仕事(と「人材」)に業を煮やした僕があるときキレて

事業部、ってなんですか。事業部、って。うちは事業なんかやってませんよ。作業ですよ、作業。うでパスタ作業部ですよ」

と云ったらきまじめな総務が社内全部の内線表に「301 うでパスタ作業部」というシールを貼り、以来僕たちは長らく「作業部」と呼ばれることになった。

 

'00年代の初頭にインターネット関連の仕事を始めた方には覚えがおありかもしれない。

そんな社内のお荷物か、よくて愚連隊みたいなチームがいつの間にか情シスみたいなことをやるようになり、やがて社内のシステム開発部隊になっていった。

そうしてこれもある種の社内政治と闘争の産物として、いよいよ僕らが大規模な商用システムの開発を始めなければならなくなったという、そのタイミングで彼女はやってきたのだ。

もちろん「お荷物」ではなく、「本物の開発者」として。

文字通り「掃き溜めのツル」のように、彼女はやってきたのだ。

 

彼女は本当に仕事のしやすい人だった。

彼女は最初にいくつか問題だと思うことを指摘し、納得のいく答えを得ると、それからは何週間でも端末に張り付いて黙々と仕様書を書き、更新し、みずから開発を行い、テストした。

その点だけからいえば、僕の仕事は彼女の仕事が終わるのを待つこと以外になかったぐらいだ。

お菓子はくれなかったが、彼女はユーモアをよく解してくれたし、ほどよく「いい加減さ」を受け入れる柔軟性も持ち合わせていたから、掃き溜めの主である僕たちともよく打ち解けてくれた。

酒を飲むと(当時の僕たちはほとんど毎日何かを飲んでいた)彼女は(酒豪ではあったが)酔いつぶれ、家に帰れなくなるので僕が旦那さんに電話して、クルマで迎えに来てもらった。

おかげで僕は旦那さんととても仲良くなったのだが、彼女は迎えに来た旦那さんを居酒屋の小上がりに正座させると、ガンギマリの眼でろれつのまわらないままに

「あたしだって、もっと若くて可愛い男の子と結婚したい。あんたなんかと別れて」

みたいなことを毎度云うので、なんだか僕が申し訳なくて寿司折りを用意して旦那さんがくるのを待っているのだが、翌朝、

「旦那さん、寿司食ってくれた?」と訊くと

「わたしが食べちゃいました」とケロッとしていた。

 

もっとも彼女は開発現場を離脱して転職してきたわけだから、ふたたび開発業務に就くのには不安もあったろうと思うが、相談すると「環境もやることも、まったく違うので大丈夫だと思います」と答えたのだった。

社風というか、なんとなくぬるい雰囲気に安心していたというのもあると思う。

そうして彼女は要件定義から、設計へ着手した。

*     *     *     *     *

システム開発に明るくない方のために少しだけ解説すると、「要件定義」とは、システム開発を始めるにあたり、「いまから何を作ればいいのか」を開発サイドが把握するための段階をいう。

こうして定義された「いまから作るべきシステム」を、今度は無数のプログラムを組み合わせて作り上げていくために「設計」がおこなわれる。

「設計」とは実際にプログラミングを始める前に、料理でいえばレシピのようなものをたくさん用意していく段階のことをいう。

ここまでくると、あとはレシピを受け取ったプログラマたちが、「俺、鯖味噌担当」「わたし、だし巻き担当」「僕、盛り付けやります」といった具合に分業をして、晩飯ができあがっていくわけだ。

*     *     *     *     *

そのシステムはウェブベースのアプリケーションとしては控えめにいってもかなり巨大なものだったが、しかも不断に仕様変更を行いながら複製されていくという環境から、その後数年にわたり、いまや「システム部」と内線表に記されるようになっていた僕のチームは混乱し、 疲弊し、次々と人員を追加投入しながら戦線離脱者を出し、フロアは野戦病院のようなありさまを迎えることになる。

しかしそんななか彼女は依然として、司令塔としての役割を果たし続けていた。

「ITスキルのある事務員候補」として彼女が入社してきたのをご記憶だろうか。

嗚呼、いまや彼女は二徹、三徹あたりまえの、延々と続くデスマーチを率いる旗手の役割を担わされていたのだ。

それを担わせたのは、もちろん僕。

 

「システム部」のゼネラル・マネージャーとしての僕はそのとき、完全に事態のコントロールを失い(そもそもこのプロジェクトをコントロールできていたのは彼女のおかげであって、僕は最初から何もしていないのだが)、事実上、呆然とそこに座って毎日少しずつ髭を伸ばし続けているだけの存在に落ちぶれていた。

「落ちぶれていた」というが、大切なのは、それがそもそも本来の僕の姿だったということだ。

 

本当は、このときに僕がするべきことはただひとつだった。

それは、システム部の責任者として、経営陣に対して以下のような進言を行うことであり、決断を引き出すことだ。

 

曰く、「進行中の開発プロジェクトは膨大な規模に達しており、さらに規模は性質を変化させて、ついでにできたようなアマチュア部隊の手に負えるものではなくなっていること」

 

曰く、「現在までと同程度の人材を逐次投入する戦術はすでに破綻しており、唯一の『本物』である開発者にかかる負荷が彼女を追い込みつつあること」

 

曰く、「よって致命的なデッドエンドへ至る前に、ここでシステム開発にかかる予算(それはすなわち事業全体の予算にほかならないが)を見直し、現在とは本質的に異なる『本物』の技術者を、少なくとも一定数リクルートすることが急務であること」

 

曰く、「それがひいては営業サイドで売上の成長率を回復し、投じる予算は遠からず回収されるであろうこと」

 

当時の僕の職責を考えれば、これらはすべて「そうでなければ結果が出せない」妥協不能な条件であり、この交渉はシステム部の部長という職を賭して行うべきものだった。

「要求が通らなければ、辞職します」ということだ。

ところが少なくとも僕にとって、事はもう少し複雑だったのだ。

それはこういうことだ。

いまなら、うえに挙げたことの他にもうひとつ重要な要求が必要だったということがはっきり分かるが、当時の僕は無意識のうちにこれに気付かないふりをし続けていたのだ。

それは、

 

「あたらしく組成されるべき『本物』のシステム部のトップに僕はふさわしくありません。最後の要請には、僕の後任人事が含まれることになります」

 

というものだ。

 

先に結論をいえば、僕の後任となる人物は、僕の後始末をうまくやってくれた。

ただし、彼を指名したのは僕ではない。僕はすでにその権限を剥奪されていたからだ。

 

いまにして思えば、土壇場で僕をうまく更迭した当時の経営陣は(遅ればせながら)正しい判断を正しく執行したというほかない。

「僕を取り除くこと」がソリューションに含まれるとき、僕自身がそれを導けなかったことについては、それから数年のあいだにいくつも言い訳を思いついたが、すべて破綻した。

要するに、組織を毀損し、それを通して人と事業の両方を毀損しつづけていたのは僕自身の自尊心に他ならない。

自分の完全性と無謬性に対する根拠のない自信。

経験的でなく、つまり非科学的であるという意味では崇拝と同値の確信が、「自分はここにとどまって、仲間を助けなければならない」と告げていた。

「できないはずがない」とも思っていた。

だから、「やりとげなければならない」と思い込んだのだ。

だが実際には、僕には決定的に経験が不足しており、必要な能力もキャパシティも持ち合わせていないことはある段階から誰の目にも明らかだったのだろう。

僕は部長の職を解かれ、僕専用の、新しい掃き溜めに移された。

「使い物にならなかったが、辞めさせるには惜しい気のするやつ」。

いまもいちばん恥ずかしく思うのは、そのとき僕が「恥ずかしい」と感じていたことだ。

*     *     *     *     *

そんな僕が、なぜまたよりによってシステム開発を生業とするようになったかについては、今日は触れない。

*     *     *     *     *

そのとき彼女はもう限界を迎えつつあった。

あたらしい部長が大規模な組織改革を実行し、彼女ひとりの肩にのしかかっていた重荷が取り払われた頃、彼女はふっつりと出社しなくなってしまう。

後任になった僕と同い年の男は、少なくとも僕に対して「武士の情け」のような敬意を払うことを忘れなかった。

二ヶ月が過ぎた頃、彼は僕に、彼女から退職届を受け取る役目と、それから彼女に支払う「退職慰労金」の額を決める権限を与えてくれた。

僕が金額を提示すると、彼は一口タバコを吸いこんで、「あんたがそうだってんなら、いいよ」といった。

 

僕が用向きを告げると、彼女は自宅近くのファミレスまでやってきた。

元気そうに見えたが、真っ黒だった髪の毛に白髪が目立っていたのを覚えている。

自分のふがいなさから彼女を追い込んでしまったことを率直に詫びると、彼女は逆に恐縮した様子で、頭をさげた。

「こんなになるほど大変だとは思ってなかったんですが、なんでかこうなってしまいました。こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

用意した慰労金の額を告げると、少し驚いたような顔をしたあと、笑い出して「そうですか、ありがとうございます」とまた頭を下げ、退職届を丁寧にあらため、持ってきた印鑑を捺した。

 

新しい職場は暇だった。

しばらくしてその生活にも身体がなじんだ頃、いつものようにへべれけに酔ってタクシーで自宅へ帰る途中で、彼女の携帯からメールが届いた。

「退職金、振り込まれてました。

 今日全額引き出してきて、札束で旦那の顔をはたくというのをやってみましたが、感無量でした。

 ありがとうございます」

僕は苦笑した。

この話を思い出して泣くようになるのは、まだ数年後の話だ。

*     *     *     *     *

さて、長くなったが、これで今年のエイプリルフールはおしまいだ。楽しんでもらえただろうか。

ところで四月一日にはもうひとつ、大切な意味がある。

僕のような人間がこんなことをいうのもなんだが、今日から新しい生活を始めたみなさん(それが無職の生活であったとしても)に伝えておきたいことがある。

それは、人生には諦めるのが最良の道だというときもあるということだ。

ただ、諦めたものにはいつかまた、どこかで巡りあうと信じることを諦めてはいけない。

すぐに癒える傷口が、あなたに与えてくれるものはないからだ。

僕とみなさんの末永い幸せを、心から祈っている。