新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

Xの墓標/ウィー・オン・ザ・トレイン

四年あまりにわたったボストン生活がまもなく終わろうとしている。

ということばかり最近はつぶやいているが、これは大変なことなのでしばらくはこの調子でやらせてもらう。

私の書いたチラシの裏をのぞいているのはあなた方だ。

 

いまちょっとしたスタートアップの起ち上げをやっていて、「やっていて」というのは先日パートナーから

「『手伝っている』という云い方が非常に気になるのでやめていただきたい。なおあなたの働き自体も全然足りていません」

というほとんどコンテキスト不明な指弾を受けたからやっているわけなのだが、この関係でサンノゼへ出張するということがあった。

無知な読者を想定して説明すると、サンノゼは米西海岸・サンフランシスコの南に位置しており、僕の住むボストンは反対の東海岸・ニューヨークの北にある。移動にかかる時間は直行便で六時間、時差は三時間だ。

週末のコンベンションだったので「前夜祭」となった金曜日の、いわゆる下りのハイウェイは死ぬほど混むそうで、壇上でマイクを握った変なシャツのVCが「俺はサンフランシスコにオフィスがある。つまりここからは3時間かかる」と云って笑いをとっていた。

パートナーに聞けば、「特に金曜はひどいですけど、基本的にこのへんのひとは三時半ぐらいになると車に乗って帰路に就きますね」ということで、このとき僕の額にアムロ=レイみたいな閃光が走り、

「つまりニューヨーク市場が引ける四時半が西海岸の一時半だからだな。その分、朝が早くて、帰りも早いというわけだ」

と看破したつもりが、彼の返答は「いや、みんな金に困ってないからですよ」という身も蓋もないものであった。

あと「渋滞もひどくなる前にみんな帰る」ということだったが、全員がそれをやってしまったら帰宅は無限に早くなっていってしまうのではないかと思った。

結局のところ本当の理由は不明だ。ただ、イノベーションのふるさとであるはずのシリコンバレーでみんなが金持ちになってしまって三時半には家に帰るということになると、これはもうここでは重要なイノベーションは生まれないだろうなと思ったので、これはまた別の機会に書く。

昨日、ウォールストリートジャーナルが「就職市場でテスラすげぇ人気」という記事を書き、にもかかわらずそのなかで話している「元従業員」がみなほとんど瞬間的に退職しているのに反発したのか、イーロン・マスク

「週に四十時間しか働かない奴に重要なことはなしとげられない」

ツイッターで吠えていた。

まぁこれはそうだと思う。

しかしそうしたらイアン・ブレマーがそのツイートの上に

「教師にはできる。教師はときに四十時間しか働かないが、とても重要なことをなすことができる。だがイーロンの云っていることとはまた違うのだろう」

というとんでもないクソリプをトッピングしていたのがすごくシズっていました。

 

しかしとはいえ金曜日はボストンでも四時前には道路が混み始める。平日だってきっかり五時から地下鉄が満員になるのだから、彼らがどれだけ仕事をしていないかはお察しだ。

ところで満員電車を東京の専売特許にしたい向きには多少あれだがボストンにも満員電車は発生していて、しかもボストンというのは学生や研究者をはじめ多くが数年程度滞在するだけの基本は田舎者のアメリカ人か田舎者の外国人の街だから、彼らは満員電車というものを知らず、それゆえ車内の最適化がまったく実現していない。

たとえばバックパックを背負ったままの若者とか、バッグを肩にかけたままの女性とか、駅で開いたドアの前にスーツケースを置いて必死で守ってる狂人がどちらを向いてもいる。

もっとひどいのはこれにアメリカ人特有の無邪気さが乗っかってくることで、駅に着いたときにはすでに満員の車両(その駅では誰も降りない)に「ちょっと奥に詰めて、乗れないから!サンキュー!」とか云いながら背中から乗り込んできて、乗ったと思ったらそのままハンズフリーで誰かと電話し続けている奴とかがいる。

さすがにこれはと思うのだが、しかしいくら地下鉄が便利だと云ったってアメリカで電車に乗っている奴なんていうのはそもそもこれは車を持てない貧乏人同士であるということだから、皆が云うだけつらくなると思ってじっとスマホの画面を見つめながら俯いているだけだ。

アメリカのもっとも哀しい姿はこういうところにあると思う。

誰かの上にある者も、どこかで必ず誰かの下であることを否応なく思い知らされるという世界。

彼らが一刻も早く家に帰りたいと願う理由のひとつもそこにあるのだろう。

暴れ回りながらキャバクラからつまみ出される小金持ちよりも、ベロベロになってホルモン屋から転がり出てくるサラリーマンの方が幸せそうだというのは、アメリカではただの感傷に過ぎない。

朝になれば必ず、金のない方がみじめな思いをする。

誰もが好んでピザを食うのではない、拒まなければピザを食うことになるだけだ。アメリカでも金のあるやつはアメリカ人には正しく発音の出来ない名前の店でカルパッチョやパエリアを食ったりしているわけだから。

だから僕もまた下手な乗り方をする乗客たちの圧倒的なスクラムを受けながら、「ま、この無作法、無教養もツイッターだと思えば日常の光景」などと思いながら変な姿勢でツイッターを開くのだが、その車両空間は実際にはツイッターではないものの、これが意外に気持ちを楽にしてくれる。

おそらく通勤に地下鉄を使わざるを得ないアメリカ人の多くも、そうやってこの極めて不本意な時間帯を乗り切っているのだと思う。

 

こうして僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていく。

 

結局のところ僕たちは、いま以上に幸せになることを怖れているのだ。

それには代償が伴うことをたたき込まれているから。

宇宙へ行けば戦争が起こり、タイムトラベルはパラドクスを呼び、仮想通貨がバブルを招く。

フェアネスを期してあらかじめ云えば、僕の答えは「ノー」だ。

だが僕たちは、もう充分に夢を見られなくなったのだろうか。

あるいは「実現してもこの程度」だという夢の方が僕たちを裏切ったのだろうか。

たぶんそうではなくて、色々なことを実現するのは結局のところ「恋」なのだ。

僕たちが恋をしたときには、色々な障壁が取りはらわれてこんな風にもなる、あんな風にもなると想像ができる瞬間があって、それがおそらく本当はすべてのフィクションの源なのだけど、僕たちは歳をとっていくし、もっと悪いことには国が、社会が歳をとっていくということがある。

僕が生まれるその昔にあったという東京オリンピックの話を聞いても大阪の万博の話を聞いても僕にはなんだかピンとこないのが、

「それが日本にとっての恋だったのだ」

と思い当たると即座に落ちるものがあって、大阪万博のあの妙ちくりんな未来がそのあと実現したかどうかなんてどうだっていいじゃないかという気になる。

あれから日本はそんな恋にのぼせて行けるところまで行って、いまは違うひとと結婚してローンもかなり残ってるみたいだけど子どもも何人かいて、まぁ幸せそうにやってる。そんな話なんだろう。

だから、いまからまたやってくるというそのふたつが「ああ、これが『老いらくの恋』というやつなんだ、もう『その先』はないと分かった人間が、まだ生きていることを声の限りに叫ぶ最後の宴なんだ」と思うと僕にはそのあと、何も云えなくなる。

その点、若者はいい。放っておいても恋をする。我々がツイッターをするしかない超密度の車両内でも誰かに恋ができる。

「自分はここにいる」と叫ばなくても、恋をするだけでそれを確認することができる。それが若いということだ。無知で、傲慢で、独りよがりな人間だということなんだ。

 

一方で僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていく。

 

イーロン・マスクが宇宙へ行くと云いだした理由が僕には分かると思う。

彼にはもう、このままでは自分には昔のように恋はできないと分かっているのだろう。

もう二度と、自分のなかから「欲しい」という気持ちは沸き起こってこない。だからいちばん手の届かないものをゴールに決めただけで、これから彼のチャレンジはすべて失敗すると思う。

だが、おそらくひとが若返るために唯一可能な手段がそれなのだろう。

 

僕の両親は父親の仕事のことがあって、七〇年代の終わりに僕を伴って少しアメリカに住んだことがあった。

ずっと時間が経ったあとに、僕が九〇年代のアメリカ小説を母に送ると、母はショックを受けたようで手紙をよこした。

「私たちがあなたと暮らしていたアメリカはあんなに輝いて、自信に満ちていたのに、それがどうしてこんなになってしまったのかと残念に思います」

それがもう二〇〇〇年代だったが、母がアメリカばかりかそのときの日本をもやはりよく理解していないのは間違いがなかった。

その時代にオーストラリアへホームステイをして、英語の教師をして、研究者と結婚をして、幼い僕を抱いてアメリカへ渡った母が、そのときにはもう、何も分からなくなっていたわけだ。

 

こうして僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていくのだ。

恋する若いひとたちには決して勝てない。だがそれでも満員の電車に「サンキュー!」と叫びながら、背中から押し込んでくるアメリカ人のように、我々は乗り込んでいかなければならないと思う。

それで彼らの恋が邪魔されるわけはないのを、僕だって知っている。

欲望という名の電車(字幕版)
 

 

ゴーイング・リベラル/僕たちのトレーサビリティ

リベラルな暮らしにはカネがかかる。

今年のボストンは例年よりも早い冬の訪れを感じさせ、十月も半ばになればとてもじゃないがマウンテンパーカーなしに外を出歩けなくなったから、いちはやくホームレスに対する支援を開始している。年末までのもっとも厳しいこの時期には、毎日必ずどこかのホームレスに一ドル渡すのがルールだ。やむなく渡すタイミングを逃したら、次の日以降にキャリーオーバーしている。

ボストンのホームレスたちは路上で冬を越すことができない。

雪解けの三月から短い夏を街角のそこここで過ごしたホームレスは、稼ぎ時の終わったクリスマス前には姿を消す。

たとえば二月の終わりごろ、ホームレスのことさえ忘れたころに突然寒さの緩む日があって、荷物を抱えてショッピングモールを出ようとすると誰かがスッとドアを開けてくれることがある。驚いて "Thank you, Sir.” と顔をあげるとそれは春と間違えて姿を現したホームレスだ。

あっ、と思って小銭を取り出そうとするが両手がふさがっていて間に合わない。

明日にはノリスターと呼ばれる極寒の吹雪がニューイングランドへ戻ってきて、このホームレスは死ぬ。

だが僕のためにドアを支え、黙って立っていたあのホームレスの姿が僕の身体のなかで種子となり、この時期になると芽を吹いて一日に一ドルずつの実を落とすのだ。

*     *     *     *     *

オランダのベンチャー企業がFAIRPHONE(フェアフォン)という製品を作っている。

ダイヤモンドの不都合な真実はだいぶんよく知られるようになった。だが我々の使う携帯電話にも搾取的な労働によって採掘され、多国籍企業が安くで買い上げた金属や鉱石が使用されている。

そこで使用するすべて(あるいはほとんど)の部品について原材料がどこからきたかをトレースし、フェアトレードによると確認されたものだけを使って製造されているのがFAIRPHONEだ。

■FAIRPHONE

https://www.fairphone.com/en/

私は妻がかなり厄介なキリスト教左派の家庭出身だし、私自身も中道左派を標榜する現代的なリベラルだから、このFAIRPHONE、企業を支援する意味でもぜひ求めなければならないと思った。

そこでEU圏内にしか発送しないというこのFAIRPHONEを、イタリアはトリノに住んでいた先輩にお願いして取り寄せてもらったのが数年前のことだ。

何が云いたいかというと、リベラルな暮らしにはとにかくカネがかかるというのだ。

*     *     *     *     *

スターバックスの店内にコーヒー農園で働く子どものまばゆい笑顔を収めた写真が飾ってあったという現代のアネクドートがある。

コーヒーが搾取労働で有名な作物だからブラックジョークになるというわけだが、そもそも児童労働がアウトなのでさすがにこれはないと思う。

ただ、スターバックスを大きくしたハワード・シュルツユダヤ人で、ユダヤ人の他者に対する無関心はマジでやばいとイスラエル企業に身売りした伯父が云っていたので、根も葉もない噂ということでもないのかもしれない。

 

イスラエルパレスチナ系住民が暮らすガザ地区

国連が「居住不能」だというレベルまで人口が過密するガザ地区は、イスラエル全体の失業率は四パーセント程度なのに、ここだけ四〇パーセントを超えるというまさに別世界で、「世界最大の監獄」と呼ばれている。

このガザ地区からの人口流入と暴力の拡散を防ぐために建設された境界壁はすでに400kmあまりが完成しており、なおも建設中だ。ドナルド・トランプはメキシコ国境に築くという壁について、「壁のことならイスラエルに聞けばいいだろう」と発言した。

ところでこの壁を作っているのはもちろんイスラエル政府だが、工事現場に雇われているのはパレスチナ系住民で、夜になると仕事を終えて壁の向こうへ帰っていくと伯父に聞かされたときにはさすがに笑った。

賃金格差とか雇用創出とか政策上の必然性があることはさておいて、「ちょっとそれは」というこの感情的なひっかかり、これが原因になって、「二級市民」を労働力として輸入する移民政策はおそらく日本では失敗する。あるいは流行の云い方をすれば「ワークしない」。しかし本気で労働力が不足すれば、長い時間をかけてもう少し融和的な社会が実現する可能性はあると僕は見ている。

シンガポールで多くの家庭が外国人のメイドを雇っているのはよく知られた話だが、このメイドたちは定期的に妊娠検査を受けており、陽性となると帰国しなければならない。これが就労ビザの要件。

小さな島国のシンガポールでロクな収入もない出稼ぎ労働者に子どもを生まれても、国籍やら市民権やら、あるいは医療費扶助やら教育費やらの子どもの人権コストがいろいろ大変だから、出稼ぎ労働者の出産はNGというのは理屈としては理解できる。だが、象徴的にはベトナム人労働者の待遇で既に紛糾の兆しをみせる日本社会であれば、感情的には到底受けいれられない制度であろうと思う。

理屈はともかく、「ちょっとそれは」という感情が国民に広く共有される場合、それが国民性である可能性には充分な注意が必要で、何が合理的であれ国民性にあわない制度を導入してもそれは形骸化するだけだし、それこそは悪しきグローバリズムに他ならないので、この感情を純粋に感情として尊重しつつ議論の俎上に上げるという試みがもっとなされなければならない。「それは感情論だからダメです」という奴は「朝まで生テレビ」ぐらには出られるかもしれないが、それ以上は偉くならない。

たとえばよその国についてこういうことを云って恐縮だが、国民皆保険制度はアメリカ人の国民性にあわない。よって結局はうまく普及しないだろうと思う。

また、こういうことを云うと「ではネトウヨの『在日憎し』の感情とも向き合うのか」という声を仮想せざるを得ないが、マイノリティに対する広義の暴力は、

「マジョリティに属するにもかかわらず報われない俺がいる一方で、なぜマイノリティを尊重しないといけないのか」

という憤りがその根本にあるのだから、やはりこの感情自体にはどこかできっちり向き合わなければならないだろう。アメリカでは両海岸の高所得者層がリベラルで、中西部の貧困層がトランプの地盤なのと同じだ。

これは予想だが、おそらくその先で日本人は「この国の貧しさにこれからどう取り組んでいくか」という問題にいよいよ向き合うことになるのではないだろうか。そうして日本はいわゆる「悪平等」、つまり結果平等を採用することで社会の統合を維持していくことになるのではないかと思う。外国人からはバカにされても、それで日本人が誇り高く生きていけるのであれば、それに越したことはないだろう。

議論の破綻を防ぐため、僕自身の意見と選好についてはここでは触れない。

*     *     *     *     *

最近、妻がまたiPhoneを失くした。

iPhoneをさがす」のレーダー上で光点は、目の前の商店街を少しふらついたたあと数軒向こうの建物に入ってふっつり消えたという。

妻はちょうど二年前にもiPhoneを失くしているが、このときは病院のトイレで便器のなかに落としたiPhoneが、詳細は省くが要するにアメリカンサイズのトイレであるから、そのままトレインスポッティングしてしまったということだった。

過失とはいえ猛省した彼女は「もうしばらく高いスマホは買わない」と云うので、僕は先輩から受け取ったばかりのFAIRPHONEを取り出してみせた。

「これがトレーサビリティにこだわってフェアトレードを実現した倫理的スマートフォン、FAIRPHONE」

素晴らしい……と云った妻はしばらく使ったあと、「アンドロイドわけわからん」と云って最新のiPhoneを買った。

 

八年前、僕たちは「どうせなら語呂のいい日にしよう」と入籍の日を決めていた。

だが婚姻届を預かったまま新宿で飲んでいた僕が十二時を回ってしまったため、永遠に戸籍に刻まれることになった特に語呂のよくない日が今年も近づいている。

あのとき妻が結婚指輪に選んだのは、フェアトレードのダイヤモンドを使うことで有名な宝石屋が造った、ダイヤを使っていない指輪。彼女がしているところ自体もう何年も見ていない。

そうして僕は、我々の結婚もまたフェアなものであることをいまも祈りつづけている。

ミッション 元スターバックスCEOが教える働く理由

ミッション 元スターバックスCEOが教える働く理由

 

 

叶えられた祈り/エイジ・オブ・イノセンス

世界のなかでどの街に暮らしたいですか、という質問に答えるのは存外に難しい。

どの街にもその街の暮らし方というのがあって、誰にだって「好きなように暮らせる街」などはまず存在しないからだ。

僕にとればサイゴンは恋人で、香港は愛人で、新宿はいまやいい齢になった「初めてのひと」といったところで、これほど月日が経ったいまもサイゴンはいつも去りがたく、香港は人目を忍ぶようにビルの陰を歩き、そして新宿の街が知っていることのなかでいちばん恥ずかしいのは、あの頃僕が本気だったということだ。

その点、四年も暮らしてまもなく去ろうかというボストンには特に思い入れもなく、スパッと割り切れるというか、ようやく僕もまともな恋愛をしたということなのだろう。

考えてみると四年も暮らせば腰掛けにしてはやや長いということになるものの、最初からいつか帰国することは分かっていたから必要なものも最小限に、どうしても要るならとにかく安くて捨てやすいものを選んで買うようにしてきた。いまボストン最後の四ヶ月をわずかな荷物とともに家具付きのアパートで過ごしながら、ふつうのひとはいつもこんな風に恋愛をしてきたのだろうなと思う。

あなた方はみんな、器用で美しく、無傷で、残酷だ。

 

最近、とりわけ自分のことを「無神論者」と名乗るようになっているが、これは自分のことを云うよりもむしろアメリカ人のクリスチャニティというものを見極めたいという思いからこうしている。

信じられないほどの利己心と愚かなまでの親切さ、そのどちらがアメリカ人の本質なのだろうという、いつからか生まれた僕のテーマになんとか年内で一定のケリをつけたいということだ。

夏の終わりに引っ越した先のアパートは、かねてより日曜日にはたまに礼拝へと足を運んでいた古い教会が建つ丘の中腹にある。

日曜の朝になるとこうした教会へは様々な人種や国籍の、それこそ老若男女が大勢集まってきて聖域で神妙に説法を聞いたり、それがロビーへ中継されているスクリーンに向かって車椅子から「オウ、イエイ!」と叫んだりコーヒーを飲んだりしているのを見るのが好きだ。日本でも雨の投票日に国政選挙の投票所へ子連れの若い夫婦が足を運ぶのを見るなどすると思わず涙禁じ得ないが、こちらはその気さえあれば毎週見られるのでもっといい。

だが正直に云えば、引っ越してからこちら自宅アパートのランドリーがあまり使えないので、僕は日曜日の朝を教会ではなく現代アメリカの神殿、つまりコインランドリーで過ごしている。

少し前に海外の希少な古銭、いわゆるアンティーク・コインを使ったマネーロンダリングの話が出ていて、この本を書いたひとを紹介されたりしたもので調べてみようと思ったら、サラリーマンがコインランドリーを経営しているブログばかりが出てきた。海外からの旅行客が多いからなのだろうか。日本でも少しコインランドリーの需要が高まっているようだ。

だがあるべき姿としてはワンルームでも多くが室内(または少なくとも室外)に防水パンを備えていて洗濯機が文字通り一家に一台の白物大国・日本とは異なり、ボストンのアパートにはまず各戸に洗濯機を置こうという発想がない。日曜日の朝はこれも老若男女がコインランドリーに集い、神妙に小銭を投じて辛抱強く宣託を待っている。

いま通っているコインランドリーは件の教会がある丘の反対側にあって、両替機はポンコツで紙幣を入れても五回に一度しか動かないし、だいたいは五ドル札しか受け付けない。これはやはり党派を問わず現代のアメリカがかろうじて受けいれることのできる唯一の大統領がリンカーンだからなのだろう。だがそのくせ、どの機械もはじめに "Whites" "Colors" を選ばなければならず、屈辱に震える指で僕は "Colors" のボタンを押す。するとお湯が出ない。そんなことをしているとリンカーンが足りなくなり、私は持ってきた半分を洗えないまま、また丘を上り下りしてアパートへ帰ることになるのだ。

教会の建つ丘は教会そのものを含めてボストンでも有数の観光ルートに含まれており、ど寒いなかでもよほどの雪でない限り、毎日のように観光客が詰めかける。

冬山へ三日ぐらい行けそうな荷物を両手に抱えてふうふう云いながら丘をくだる僕に、白髪のアングロサクソンたちが声をかけながらゆっくりとすれ違っていく。

「洗濯物?」

「おや、洗濯かい」

「おはよう、気を付けてね」

「ずいぶん大きい洗濯物だね」

「でも、私たちはアメリカ人よ。ご一緒しましょうと誘うことで有名なのよ」

     「天地創造」(ドン・デリーロ「天使エスメラルダ」所収)

このアメリカ人の無邪気さこそが各地で無用な介入を生み、ソ連を崩壊させ、フセインカダフィを殺し、果ては大量の難民に地中海を渡らせたのだ。

アメリカ人は疑いのない善意がいかに凶暴であるかに気付いていない。ともすればアメリカの国土は広すぎて、都合よく現実を切り捨てることが昔から容易であったことも関係していると思う。あるいは昔からアメリカには「現実」というものが存在しないのかもしれない。

端的に浅い奴らだと云っていいだろう。それで語弊があるなら深い奴らと呼んでもいい。

 

四年と少しの時は僕をやや老けこませたが、ボストンはあの頃とまるで変わらない。

綺麗だな、と思うことはいまもあるが僕がここにいる理由をボストンのなかに見つけ出すことはできなかった。

もしかしたら、多くのひとにとってアメリカの街というのはそういうものなのかもしれない。

一日いちにちと別れのときを待ちながら、僕たちはお互いに驚くほど言葉少なだ。

天使エスメラルダ: 9つの物語

天使エスメラルダ: 9つの物語

 

 

暮れない午後のサボテン。

あれから何年が経っても朝六時の歌舞伎町は最悪だ。

くたばりかけた夜の口から吐き出されてきたヤクザやホストやそのどちらにもなれない奴らが通りや路地へとあふれていて、どこへと消える様子も見せずにたばこを吸っている。ヒールの女はどれもバッグと紙袋の紐を握り、タクシーを止めようとして変な歩き方をしながら車道へと出ていく。

夜も九時ならあれほど綺麗になったのかと目を見張るような歌舞伎町が、いまもこんなに変わらないのだということがこの時間にはわかる。ほんの少し前までギラギラと輝いていたはずの彼らもみな、朝の光のなかでは年相応にくたびれた姿でとっくに終わった今日の落としどころを探している。

カタギでない、とはそういうことだ。

 

長く暮らしていた西新宿のマンションは窓から見える隣の部屋がホストの寮になっていて、その部屋にはカーテンがなかったから、休みの日なんかは昼に起きると向こうの部屋ではまだ子どもといってもいいような男たちがゴソゴソと床のうえから起き上がり、ボサボサの頭で着たままのワイシャツをパンツに押し込んでいるのが見えた。

僕は僕でそのマンションにはウエダという後輩とふたりで巣くっており、ウエダは家にいるときには自分の撮った写真のデータをずっと整理し続けているだけの人間だったから、僕が起き上がって「飯」と云うとすぐに(つまり着替えずに)カメラのストラップを引っかけて起き上がった。*1

裏手の高級ホテルはオフィス階から降りてくるサラリーマンを当て込んで地階に大きなレストラン街を擁しており、だいたいの場合、僕たちはとんかつ屋の「さぼてん」で休日の昼飯を食った。

決してこちらの顔を覚えようとしない店員の運んできたすり鉢の底で煎りごまを摺る。

ひとつ挟んだ向こうのテーブルあたりで隣人とおぼしきホストの一群がほとんどさっき見たままの姿で飯を食っているということが多く、こちらも一週間の仕事と酒で疲れ果ている僕は黙々と飯を食いながら彼らの話へ聞くともなしに耳を傾けた。

三十五年間、自分の食事を写真に記録し続けることでイグノーベル賞を受賞したドクター中松に感化され、自分も同じことをやるという無限に独創性の少ないプロジェクトに取り組むウエダはカツカレーへ向けてシャッターを切ると、あとはぼーっと写真のことを考えながら口を動かしていた。*2

栃木に帰りますよ、向こうのテーブルで新人のホストが云っていた。お母さんからメールとかよくあるんすよ、なにしてんのとかごはん食べてんのとかって。帰ってなにやるとか分かんないですけど。

ホストたちはだいたい背中を丸め、皿をのぞきこむようにしながら箸を使った。そして人が話しているとき、ほとんど口を挟もうとしなかった。

なんかこの仕事全然やりがいとかないじゃないすか、どこまでオンナにカネ使わせるかとかって、あといくら出せんのとかってどっかで作らせていくら払わせてってやってもあとに何にも残りゃしないし、なんか溜まってくだけなんすよ。こいつそんでどうすんのかなって、このあとこいつどうなんのかなって思って。疑似恋愛なんかなんにも残りゃしねぇし、なんか好きとかいわれて会ってても楽しくもなんともねぇし。

ここはオフィス街だから、休日の昼間は何時になっても客足はなかった。ガランとした店内は向こうに見える厨房の入口でのれんの前に店員が立っているだけで、ホストの話す声は高い天井に吸われてはそこで小さなエコーを残して消えていった。

「売上いくらとかいわれてもぜんっぜん嬉しくないっすよ。なんかもうやりゃやっただけイヤな感じなってくだけだし」

キャベツのお代わりいかがですかと、鉢を抱えた店員が尋ねた。お願いします、と僕は答えた。

……さん、なんか……になんかすげぇキレてたじゃん?

ああ、あれ……さん、なんか……さんと話してて……

店員が戻っていくとホストたちの話は変わっていた。

小さな1LDKに雑魚寝する彼らに共通の話題は、そのあともずっと店の話だけで客の話はほとんどなかった。

数年の間、ウエダがたまに芋を茹でる以外にはまったく料理というものをしなかったうちの部屋ではコーヒーも淹れられないから、食事が終わるとそのまま僕はホットコーヒーをとり、また黙ったまま天井を見上げてたばこを吸った。

ごちそうさまです……と誰ともなしに店員へ声をかけながらホストの一団が店を出ていったあとで、その頃まだガラケーを使っていたウエダがそれをひっぱり出し、はははっとひとり小さく笑い声をあげた。

「どうした」

「いや、母親にメールしてたんすよ。今日はさぼてんで飯を食いますって。そしたらいま返事がきて、『よかったね』って云ってるんで……うちの母親にとって、さぼてんは昔からものすごく良い店ってことになってんですよね」

行こうか、とたばこを消して席を立ち、勘定をすませて帰ると、窓から見える隣の部屋はいつも空っぽだった。

部屋へ帰るとウエダはまたもとのとおりベッドに寝そべって自分の撮った写真を検分し始めた。

僕はソファに腰掛け、何も映っていないテレビを前に今日はこれからどうしたものか、考えていたのだと思う。

映画も見ない、本も読まない、新聞もとらない、そんな年月だった。

やがて日が傾いて、もういちど酒を飲める時間がやってくるまで、何をしていたのかはどうしても思い出せない。

*1:だが多くの場合、ウエダはベッドに寝ているあいだからストラップをかけていた。

*2:なぜ分かるかというと、「いま何考えてた」と訊くたびにウエダはそう答えたからだ。

「トラフィック」。夢を弔う。

東京を飛び立って時間が経つにつれ、僕の時間とみんなの時間が少しずつ離れていくのがネットを見ていると分かる。

出張で日本へ帰っている一週間のあいだ教室でみんなと一緒に授業を受けていた僕は、また明日から僕だけが保健室へ登校することになる。そんな感じだ。

僕の昼休みには、もうみんなが寝静まっていて誰もいない。夢から覚めればこの世界にタイムシフトは存在ない。


駅で女子高生が電話しながら「お父さんもうツイッター頑張るのやめて!」と叫んでいたという話を聞いたことがある。それもツイッターでの話だ。

ツイッターなんか頑張っても仕方がない。それぐらいのことが分からないと(普通に生きていくこと自体が)難しい。

公式アカウントのフォロワーが増えれば売上が伸びるなんてのも、「ガン、治る!」とかいうのと同じレベルの民間療法で、それを信じたシャープは死んだ。

だけど僕は頑張ってきたんだ。

結局のところ、うさぎ研が始めたプロジェクトのうち最後に残ったのは僕自身なのだ。

すべては僕のブログを売るために。

あれ以来毎日、毎日僕はツイートをしつづけている。

*          *          *          *          *

最近なにか映画は観ましたか、と長机の端から男が訊いた。

「先日はスティーブン・ソダーバーグの『トラフィック』を観ました」

と答えると、三人の面接官はみな「おぉっ」と小さく声をあげた。

「どうでしたか?」と男が問いを重ねた。


ご存知のとおり、ソダーバーグは「トラフィック」で群像劇を撮ったわけですが、ことの大小にかかわらず、いずれもやがてパーソナルな闘いになっていく日々を生きるひとびとの行き着くところは、決してたやすくありません。しかしそれぞれにほんのわずかな希望を残して幕が降ろされます。

この意味するところを私はアカデミー賞の授賞式に見たと思います。

中継を見ておりましたら、監督賞を受賞したソダーバーグはスピーチでたしかにこう云いました。

「このオスカーを、毎日の暮らしを少しずつ芸術のために使っているひとたちに捧げたい」

“Their lives” ではなく “part of their lives” と彼は云ったのです。

つまりソダーバーグは、映画はハリウッドだけによって成るものではないと云っている。

芸術はプロフェッショナルだけのものではない。思うに任せぬ暮らしのなかで生活者として様々に日々を過ごしながら、それでも芸術に毎日の少しを投じることをやめない無数のひとびとのために、自分はいまここに立っていると、そう彼は云ったのだと私は思います。

ひとは、我々はそれぞれにパーソナルな闘いを闘いながら毎日を生きる。でもその小さな闘いは、世界へ、いま自分が立っているこの場所へもたしかに繋がっているというソダーバーグのそうしたメッセージ、芸術を諦めないひとびとへのエールが「トラフィック」という映画なのだと私は理解しています。


自分は英語ができるというアピールを嫌味なく盛り込んだこの長広舌は面接官たちの心に届いた。

若干名の採用枠に対して三百名以上の応募があったと聞いているが、僕は一次面接で「実はすでに大学院を中退しており、そうした意味で新卒採用に応募する資格がない」ことを告白したにもかかわらず、ついに十名にまで絞られた最後の面接へ来るようにと伝えられた。

傾きかけた人生行路は夢にまで見た映画産業、配給会社への就職で建て直せると、僕はほとんど確信していた。

*          *          *          *          *

何から何まで自分の手でやった「厚めの同人誌」とはいえ、うさぎ研以来続けてきたプロジェクトである「新宿メロドラマ」が決して無益な試みではなかったことを確かめるためには、その書籍化においてどうしてもツイッターからの反響が欲しかった。

ほとんど文盲であることが分かっているFacebookユーザーのなかにも心あるひとはいて、あたたかい言葉をかけてくれ、あるいは書籍を受け取りに足を運んでくれたが、何よりもコストをかけて「頑張って」きたツイッターからの評価を僕は必要としていた。何かあれば今回でこのアカウントが潰れてしまってもいいと思っていた。

結果は満足のいくもので、これからも僕は毎日ツイッターを頑張りつづけるだろう。それが無駄でないことははっきりしたからだ。


コミケには出せなかったが、そもそも出さなくてよかったのではないかというひともいる。理由を説明する必要はないだろう。

だが僕はそれでもやはり、いつかコミックマーケットへ出展することを目標に僕なりの小さな闘いをつづけていきたいと思う。

今回はじめてフィジカルを制作した経験は、まさにソダーバーグが言及したひとびとの闘いのいかなるものかを僕に知らしめ、毎日の少しを芸術に捧げている皆さんへの敬意をリアルなものにした。

この敬意をもって、僕は皆さんへの仲間入りを乞おうと思う。風呂は一日二回も入っている。

そうして僕はあの日、好きなことを仕事にしたいがために放った出まかせを回収するのだ。そうすれば引き換えに今度はソダーバーグの言葉を僕のものにすることができるだろう。

*          *          *          *          *

日が暮れそうになり、アルバイトは休みだったから店で売り物になっているのを持って帰った「銀河英雄伝説」の続きを見ながらウイスキーでも飲もうかと考えていたら、先輩から電話があった。

今夜、ブルーノートブルース・ブラザーズ・バンドが出る。何人かで見にいく予定をしていたが、ひとり来られなくなった。代わりにおまえが来ると思うから、いま車でそっちへ向かっている。用意して待っていろ、時間がない。

分かりました、というと電話は切れた。

先輩にしても不躾な電話だが、友達とていない自分にはありがたいお誘いだ。

アパートを出て通りを渡ると、ワンボックスにはほとんど箱乗りといった風情で先輩たちが待っていた。

間違っても面倒なことにはなるまい。

僕が乗り込んでドアが閉まると、タバコを挟んだ指でハンドルを握る女の先輩がこちらへ流し目をくれてニヤリと笑った。


理由は忘れたが、その晩最後は僕のアパートになった。たぶん飲んでいた店が全部閉まったので僕を送っていこうということになり、車で乗り付けてそのまま全員であがり込んだのだと思う。酒だけはあるのをみんな知っていたからかもしれない。

朝になってガラス戸の向こうが白んできたころ、ひとりの先輩が刻を尋ねた。

「五時です」

僕が答えると、先輩は笑って「おまえもよく付き合うよなぁ」と感心したように云った。

その先輩が座っているのが僕のベッドだった。

「今日はバイト?」

「バイトはないです」

「あっ、休みか……何かあんの?」

「十時からアスミックエースの最終面接があります」

先輩は一瞬絶句したあと、馬鹿じゃねぇのかおまえはと怒鳴ってみんなを急き立て、部屋を出ていった。

「がんばってね」ドアが閉まるとき、女の先輩がくわえタバコの隙間から云った。


アスミックエースはその年、僕を採用しなかった。理由は分からない。

そもそも僕は応募資格を満たさないドロップアウトだったのだし、とりたてて世慣れた若者というわけでもない。あるいは酒の匂いをプンプンさせ、真っ赤な眼でわけのわからないことを口走ったからなのかもしれない。

とにかく僕はその選考に漏れた。

落ちる理由の方が多かったのだから、驚きはしなかった。ただ配給会社を経て映画評論家を目指そうと思っていた望みがこれで潰えたことは確実で、またひとつ扉がバタンとしまっていよいよ僕はどうやって金を稼ぐかということだけを考えて生きていかなければならなくなった。

そうやって生きていくには人生は長すぎて、それを思うと暗澹たる気持ちだった。

しばらくして、僕は映画評を書き溜めていた自分のホームページを閉鎖した。


僕はあまりいろいろなことを深く後悔することがない。考えれば考えるほど、人生はもっと悪くなりえたことに思いあたるからだ。

だからあのとき先輩に対して居留守を使わなかったことも、早くに次の日の予定を知らせて中座しなかったことも後悔はしていない。あれはあれで楽しい一夜だったことももちろんある。

ただひとつ惜しまれるのは、僕があのとき映画評をやめてしまったことだ。

夢は必ず叶うわけではない。だが諦めれば死ぬ。


高校生のころに映画雑誌で読んでいた清水節さんの短評が好きだった。そんなことを先日ツイッターでつぶやいたらご本人の目にとまり、返事をいただくことができた。

映画の世界で働くことはとうの昔に諦めたが、インターネットを通して清水さんのお仕事に触れることができて嬉しい、これからも楽しみにしているとお伝えすることができたとき、僕のなかで死んだままずっと埃をかぶっていた夢が、フッと煙になって消えた。

何か大きなことができるわけではないだろう。だがこうやっていても、僕たちは世界と繋がっていることができる。毎日の少しを投じながら芸術をつづけるひとたちの側で生きていくことができればいいと思う。

ありがとう、ツイッター

チャリティ・ファッジ・プリキュア。

チャリティ・ガラのチケットを買えという話がもう十年以上前にあった。

リーマンショック」って聞いたことがあるだろう。あの少し前のことだ。

日頃から「カネは出すなら、ただ出せ」を唱える私にとり、いくつ星のレストランで飯を食う行為は慈善ではない。原価部分がフォアグラに化けて私の胃袋に入っているからだ。*1だが、そこにはとある知人との取引があって、会社の金で参加することになったという話だ。

取引というのはこういうわけだ。

当時、うちの会社はある界隈とのつながりを求めていた。

その入口になる人物がガラへ客を集める世話役のようなことをやっている。この人物にいい顔をしたい理由のある知人が、会場で引きあわせるのを条件に二人分のカネを出せとうちへ云ってきたのだ。

「うちは行かなくたって、彼自身がよろしくやってうちとのパイプ役になってくれればそれでいいんじゃないんですか」と会議では反対したが、まぁいいから行ってこいということで社内がまとまり、私が行くことになった。

そういうわけだから払った金の領収書は経理へ回した。私の飲みたい酒ではないからだ。領収書になんとあったかは忘れたが、税務署から見ればただの贅沢な飯だから多分交際費になったのだろうと思う。

*     *     *     *     *

埼玉で税務官をやっている後輩がいる。

「因果な商売やってるな」と思わず口走ると、「ほんとそうですよ……」と漏らした。

ある朝、IT企業の若い社長の家へ税務調査で踏み込んだそうだ。

こういうとき、踏み込まれた方はまず「なにぶん突然のことなんでね」とシャワーを浴びる間税務官たちをリビングに待たせ、そのあとそこへ座らせて世間体の話をひとくさりすると相場が決まっている。

聞いていると風呂上がりの社長が後輩を指して尋ねたそうだ。

「あんたさぁ、手元に一億あったらその一億どうする?」

「そうですね……まずはやっぱ半分はちょっと貯金かなぁ」

社長は心底うんざりした顔で云ったという。

「だからあんたは公務員なんだ」

ほんとにそうだなと思いました、と彼はしみじみ云った。

*     *     *     *     *

恵比寿は渋谷区のくせに自分だけは違うというような顔をして、隠れ家的な飲食店をいくつか知っていると多少手練れの遊び人ということになるようだが、私はそもそも人から隠れて酒を飲む必要がないし、そういう街が好きかと問われればもちろん嫌いだ。

冬だった。

すっかり日も暮れた頃、仕事が長引いたという彼は荷物をさげて現れた。ガラで催されるクジに彼の会社から景品を出すことになっているという。

私はといえばいつものスーツに水玉のネクタイをしていた。

不本意な集まりに出かけるとき、私はいつも水玉のネクタイをする。これはいまも変わらない。

「おっ、オシャレですね」

それを彼は褒めた。

少し遅れていたので(彼のせいだ)彼は急ぎ足で手近なオフィスビルの化粧室へ入り、出てくるとタキシードに着替えていた。

「よくそんなもん持ってますね」我ながらあきれた声がでた。

「こういうときのためですよ」と彼。

「みんな着てくるんですか」

「男の人は結構多いですよね」

「僕がそういう手合いと喧嘩になったらどうします?」

「絶対にダメです」

タキシード?

こんなことなら私の席などとらず、やはり彼が二倍払ってもっといい席を押さえればよかったのだ。

会場外のロビーでは本当にタキシードを着た男やドレスを着た女がいて、ドリンクを片手に「ザ・談笑」という談笑をやっている。男は笑うときだけ声が大きく、女はJALのチーフパーサーみたいなしゃべりかたをしていた。

なかでも明らかに顔の広いと見える白髪の男性がやたらと大きな身振りで何かを話しているのを見付けると、

「ご紹介しますよ」彼が云って、その人物の脇へすり寄った。

「……さん、こないだお話ししてました、あそこの会社のうでさんです」

「あっ、あの!ああ、そうですか、どうもどうもどうも今日はありがとうございます」

男性はくだけた調子でグラスを持ち替え、右手を差し出した。

「IT企業でいらっしゃるんですって?いや私はITの方はね、もうからっきしダメなんですよ!」

「でしょうね」

このとき給仕長が用意の整った旨を呼ばわり、相手はおっ、では失礼と云って扉のなかへ姿を消した。

「これで終わりですか」

「印象には残ったと思いますよ」

「僕、これで帰っていいですかね」

「いやせっかくだから楽しみましょう」

彼が陽気に僕の背中を叩くと会場へと誘い込んだが、ガラ・ディナーはやはり最悪だった。

もう詳しくは覚えていないが、こちらは一口たかが知れている外野席で、ひとつ向こうのテーブルではシティのハゲたアメリカ人*2が3人、3人ともやたらと灼けた女と無限にしゃべっている。

一方の私は酒を飲むとひとつも飯が食えないたちだがワインの給仕が遅いので、ボトルをそこへ置いていけと凄んで向かいにいる彼に止められていた。

「僕のワインをあげますよ」

バカみたいなイヤリングを吊した女が順番にやってきて「ラッフルです」と云った。

「なんですか?」

「クジですよ」彼がささやいた。

「いくらですか」

パチンコならドル箱が天井へ届く金額で、確か領収書は出なかった。

ひとつづりになった番号札をテーブルクロスに広げて見ていると、なんだか無性に悲しくて悲しくて、仕方がなかった。

もったいぶった割に三皿のコースで何時間経ったかと思わされた頃、デザートが通されてラッフルの当選発表になった。セリーヌの非売品という言葉に会場がどよめき、気をよくした司会がたびたびそれを繰り返している。

「さぁさ、どんどん出てまいります!本日はセリーヌの非売品もございますのでね!」

この司会は資産の額でいえばこちら側の人間だろうが、知能のレベルはあちら側だなと思った。

セリーヌの非売品って云ってますよ」

「凄いですねぇ」

「あんたが出した景品、靴下じゃないですか。大丈夫ですか。こいつらたぶん靴下なんか履きませんよ」

「大丈夫です。そこがいいんです」

「どこが」

云いたくないけど見てられないのでとことわると、私はラッフルのつづりを彼の手の中へ押し込んでホテルの車寄せへ出た。

震えながらタバコを何本か吸って時間を潰し、会場の席へ戻ると彼が上気した顔で待っていた。

「ラッフル当たってましたよ!」

「ほう、なにが」

「うちの靴下です!」

「えぇ……」

「うでさんいなかったんで、僕がステージへ行って」

「あなたが自分で受け取ったんですか」

無様なことをさせて申し訳なかったと、それは今でもそう思う。

 

コーヒーを断ってワインを飲み続けたおかげでガラが跳ねる頃にはなんとか私も酩酊していて、タクシーを捕まえると唸り声をあげながら歌舞伎町のキャバクラへと向かった。

その頃、キャバクラというのはどんなことがあっても同じ顔で私たちを待っていてくれる箱庭で、まさに今夜、私が必要としている場所だった。

店においてある私専用のライム絞りでジンリッキーを作っていると、向かいの席では彼が私の当てた靴下を開封して女の子に何か説教している。

「今日ネクタイかわいいね」とつばさちゃんが云った。

「大事なパーティーだったからね」

ふと思いついて彼の話に割り込んだ。

「ちょっとあなたその服、もう着替えてきたらどうなんですか」

少し考えてから、彼はそうしますといってトイレへ消えた。

これでいい、と私は思った。これですべてがいい。

その晩、私は靴下を店へ忘れそうになり、彼が代わりに持って帰ったというが、もちろん私は覚えていない。

 

「音楽が鳴っている間は踊り続けるしかない」と云ったシティのCEOが飛ぶのはそのしばらくあとのことだ。

何のためのチャリティー・ガラだったのかはもうまったく覚えていない。

セリーヌの非売品でございます!」という司会の声と、かぶりつきの小金持ちがどよめく声だけは鮮明に記憶している。

*1:フォアグラが悪いというわけではないし、第一私もフォアグラが嫌いではない。フォアグラだけをソテーしたものも喜んで食う。

*2:つまり偉いのだろう。

新世界より、チャリティー・ワン。

アメリカでは、と語るほど私はアメリカというところを知らない。

だが公平な意見を聞きたいならインターネットは正しい場所ではない。

だから時が経つにつれ洗練されていく圧倒的な暴力の高まりを日々周囲に感じながら、私は今日も云いたいことを云うだろう。

 

この世でジャズよりは多少マシな音楽にクラシックがあって、それでもクラシック音楽の理解度で全人類を並べれば私はたぶん最後から二億番目ぐらいだ。それこそ子どもにも劣る。

ボストンには腕に覚えのある市民の演奏するクラシック楽団があり、無数にある教会のひとつでチャリティコンサートを催すというので高いカネを払って鑑賞に行く。

高いカネというのは四十米ドル。物価の高さに定評があるボストンでもこれだけあればまともな店で大人二人が晩飯を食える。ただしまともな店というのはトイレが自由に使えるという程度*1のことで、このレベルではまだナプキンは紙だ。

楽団のディレクターは多少気合の入った若者だと聞いていて、この男がいくばくかの報酬をつまんでいる以外、コンサートの運営にいたるまですべてが無償のボランティアによって賄われているという。

客はまず演者の家族に職場の同僚だというのが弱めだが、何せオーケストラなので演者の数が多くこの集客力もバカにならない。土曜の夜といってもアメリカは本当にやることがないから職場の同僚がさらに自分の家族を伴っている。どうせみんなそのへんに住んでいるのだろうからなんやかんや顔なじみも多そうだ。

まったく哀れな話だ。そうは思わないか。

5時に仕事を切り上げて家で子どもと遊ぶのが悪いとはいわない。だが子どもがいなくたって職場を出ればチポトレ*2でも食って家に帰る以外ほかにやることもないのがアメリカの現実だ。それはなにも持ちあげるようなことじゃないんだ。

「消費の質という意味でいえばアメリカはいまだに中国並み」と云っているひとがいたが、いまだにそうなら死ぬまでそうだろう。だから買い物も楽しくない。ボウリング場は不穏だしカラオケはないし、バレエは下手だし映画館は寒い。*3ボストンは比較的リベラルだから近くの公園では過去に男性も性的暴行を受けている。*4

食事はもっとひどい。酒だってまずい(ただし酒がうまい国は少ない)。店も遅くまでやれない。

「アメリカ人は職場での飲み会をしない」などというが、うまくて安くて遅くまでやってる店が近くにありさえすればアメリカ人だって課をあげてドンチャンやりたくなるのは当然だ。*5ただ、ないのだ。どこにもそんな店は。安くてまずい店か、高くてもっとまずい店しかないのだから飲み会なんかやるわけがないだろう。

 *     *     *     *     *

ところで、「アメリカ人は味を評価しない」とある人が云っていた。

「彼らの飲食店に対する評価は、店の内装とイメージが六割、サービスが三で味は二割ぐらいしかない」

十一だ。

 *     *     *     *     *

たしかにアメリカ人は家族と多くの時間を過ごすのだろう。だがそうでなければ5時以降は犯罪かディアゴスティーニぐらいしかやることがない。

この国にはほかにやることがない。

 

それがクリスチャニティなのかどうか私には詳らかでないが、アメリカには誰も得しない集まりを支えるコミュニティの力が強い。*6

ボストンとてそこそこの都会だが、なお年老いたマイルドヤンキーみたいなのがどこからか現れてはこの手のイベントをいちいち盛り上げている。

盛り上げているとは云ったが、しかしそのへんに住んでいるボランティアのアメリカ人というのは往々にして声の小さい年寄りで、穏やかというよりは常に何かに怯えている。*7教会にいる連中は特にそうだ。イレギュラーな出来事に弱く、表情は一様にぼんやりとしていて、なにより全員が白人だ。

なお彼らの馬力はよくて四人で一人だ。「切符を取り置きしてもらっている」と受付へ告げると、なぜか額を寄せ合い不吉な表情でひそひそと話し合ったあと、ひとりがそっと封筒を差し出して、

「ここにチケットが入っている。開場はまだだがこのあたりにある椅子はどれも利用してもらって構わない」というようなことを話すのに一分かかった。

すべて見ればわかる情報だ。

*     *     *     *     *

ところで実は私はクラシック音楽のコンサートが嫌いではない。ジャズよりは好きだ。

なんというか、やはりビートが利かないのでアルファ波が出ざるをえないし、結果寝ていてもそれはそれになるのがいい。

そうでなければさすがに行かない。

会場では第一部の終わりに少女のスライドが出た。

聡明で、勇敢で、重病を患っていた彼女はもうこの世の人ではない。

今日、私たちが支払ったチケット代は彼女の名の下に、このオーケストラへ参加する才能あるアーティストへのスカラシップに充てられると彼女の両親が話した。

「皆さんのご支援に感謝します」

私は泣いた。

客電があがると隣の席で子どもがひとり、信じられないぐらい深く眠っている。

トイレへ向かうTシャツの男がその姿をみて大笑いしながら通っていった。

「分かる、俺もこの手の音楽はさっぱりだよ!」

*1:セルフサービスの店を中心に、この街ではトイレにナンバーロックがかかっていることが多い。

*2:チポトレは「チポレ」、コストコは「コスコ」、あともうひとつ何か忘れたが、そういうことを云っているひとがいた。

*3:シーズンなら野球場はお薦めできる。

*4:公式にはSexual Assaultだ。脅しに使われたのは銃だった。

*5:六本木を見ろ。

*6:書いてから少し頭を冷やして気付いたが、チャリティなのだから受益者は存在する。だが受益者が「得をする」という表現も問題がありそうだからここは見逃してほしい。

*7:老人があんなに偉そうにしているのは日本だけだというひともいる。