新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ポテチは新たな次元へ飛翔し、観客は眉をひそめる。

後日詳述するが、福岡伸一は「できそこないの男たち」の最終章で人間の第六感について語っている。

曰く視覚、聴覚や味覚あるいは触覚といった五感のすべてを奪われたとしても、遊園地のフリーフォールに載せられれば、私は「落下していること」を感じるであろう、それは人間の第六感が「加速度を感じる力」だからなのだと。

福岡はこの最終章において科学者らしく謙虚に「決して証明されない仮説を敢えて」持論として記すと前置きし、詩人のような憧れを感じさせる筆致で「時を超える夢」を語って遺伝子の定める「はかないオスの運命」にまつわる本書をしめくくる。


たとえば生まれつき聴覚をもたないものに聴覚について説明しても、理解することはできない。

我々が、立体であることの次の次元である「四次元」について考えあぐねたところで決してそれを想像したり理解したりできないのもこれと同じだ。

逆に人間の第六感も、ほかの五感をすべて殺してみないことには、それがそこにあることに気付くことができないのかもしれない。

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最近、といっても過去10年ぐらいの間に、映画館で食べられるものの種類はずいぶん増えた。

そもそも映画館が物を食う場所ではなかったことを考えると、「爆発的に」増えたと云っても過言ではないほど、それは増えた。

ところで映画館といえばポップコーンであるが、これはなぜか。

学生の頃突然気付いたことに、これは食べても音がしないからだろう。

バリバリいってほかの客の邪魔にならないからこそ、ポップコーンは映画館の供する代表的なスナックとして今日まで生きながらえたのである。

ここへきてはたと思い至る。

食べ物には「うまい」「口溶けがいい」「香ばしい」等々おおむね人間の五感に対応した諸々の属性があるわけだが、実際にはここに「うるさいか否か」という軸が存在して然るべきなのだと。

食べ物から味と食感、それに匂いを取り去ってみよう。

食通の発行するグルメ通信は「『クルジェットのプランシャ焼き モッツァレラと生ハムのコンビネーション トマトのエッセンスとチョリゾソース』・・・きわめて静か。よってエクセレント」というように、音で食べ物を評価しはじめるはずだ。


前項「重力ポテト。」で書いたように、僕はその日映画館へ持参したポテトチップスの中身を床にぶちまけ、身じろぎする度に靴の裏でバリバリいって割れるチップスにおののきながら上映時間のあらかたを過ごした。

このとき僕は、比較広告が禁止されていた時代にアメリカで実際にあったという広告を思いだしていた。

「一番うるさいポテトチップス」。

ほかのよりうまいと云えないので「うるさい」と云ったという話だが、通常我々の気付かない次元で食べ物を語っているという点でも優れたコピーだ。

開封直後にそのすべてを失い、ほとんど味わえなかったからというのもあるが、暗がりのなかでチップスはたしかに「音の次元」を主張しており、僕はその飛躍に劇的なものを感じ、かつその悲劇的な状況を恨んだのである。