新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

無常の世界を引き留める負債というシステム。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を観てきたが、情報量が多すぎて頭も心も満杯なので、某所に挙げた過去の日記を転載することで急場を凌ぐ。


以下、転載。


ガイナックスについて調べていたらWikipediaに意外な記述があった。

それはガイナックスがかつて「オネアミスの翼」を制作するために設立された目的会社であったにもかかわらず、興行が不振に終わり、借り入れた制作費を返済できなかったため解散できずに存続せざるを得なかかったという歴史的事実だ。

負債を返すことができず存続を選んだ会社があるということ。

会社を殺すはずの負債がガイナックスを生かし、多くの優れた作品を生み出す母体を守ったという事実とその示唆するところは重かった。


人間関係は小さな貸し借りが繰り返すうちに続いていくものだ。

だから遠慮しすぎることや気を遣いすぎることは人と人を遠ざけるし、人はそれを嫌い、ためらう。

優しさに触れ、幸せに感じ、それを相手に返したいと思えばこそ人は彼/彼女の近くにいたいと願うのだ。

だがガイナックスに生き続けることを選ばせたのは果たしてそういった相手であろうか。


善意か悪意かといった話ではない。

ガイナックスに負債を負わせて生き続けることを強いたのは会社でも銀行でも、人ですらなく、この世界そのものだったのではなかろうか。

資金を借りた相手に返せないということであれば破産して会社を整理してしまえばよい。

それをそうさせず「しがらみ」と云え「恥じ」や「外聞」と云え、あるいは「プライド」や「希望」と云ったところで、いずれガイナックスを社会に繋ぎとめたのはこの社会を構成するもの、そのものでありそのすべてなのだ。


借金を背負ったまま進むガイナックスは優れた企画と制作力を駆使しながら、どんな手をつかってでも売上を作る覚悟を強めていく。

その典型がふんだんに散りばめられるヌードや入浴シーンといったサービスカットであり、脱衣麻雀や少女育成シミュレーションといったアダルト路線に特化したゲーム制作であったが、やがてそういったポリシー、あるいは「芸風」はこの会社のコアコンピタンスとなり、当初から持ち合わせた多彩な能力を引き立てる要素として存在感を増していくことになるのである。

その後このように才能と技術、それに借金に裏打ちされた嫌味のない外連味は「ふしぎの海のナディア」でついに開花し実を結ぶ。

しかし皮肉なことにガイナックスはこの劇場版を制作するにあたって下手を打ち、再び莫大な借金を背負うことになるのだ。


「ナディア」に始まった90年代の陽も傾いた頃、いよいよガイナックスはその負債を帳消しにしてくれる「新世紀エヴァンゲリオン」を世に送り出す。

低予算故の困難をまたも乗り越えることができず、多大な伏線を積み残したまま破綻を迎えるストーリーや痛々しいまでの突貫の跡。

しかし「エヴァンゲリオン」はアニメ史にガイナックスの名を大書し、なおも進行するほどの支持を受ける。

まさにこれこそが、生き続けるためにガイナックスが身に付け、磨き続けていた「自分たちの作品を、売ること」の完全な発露であり、それが「売れるものを作ること」とは大きく異なることに我々は気付くべきだ。

ガイナックスの悪乗りともいうべきエヴァンゲリオンのマーケティング戦略は、登場人物の猥褻なフィギュアを自ら発売したり、彼らを脱衣麻雀に起用したりといった段階に至るに及び、自社の創作物であるキャラクターをマニアの慰みものにしているとの非難を一部で受けるようになる。

だがガイナックスにとってはこれもどこ吹く風であろう。

なぜならそうして非難する「純然たるファン」をエヴァンゲリオンに惹き付けた要素こそ、猥褻なフィギュアに象徴されるガイナックス得意のギミックだということをガイナックスは知っているし、それに気付いている観客はそんなことはどうでもよいのだと看破して、作品の中に隠された本当の「アニメ」を探し続けているからだ。


このようにしてガイナックスは、この世界に対する負債をはね除けた。

それは愛情を返すことや親切に応えることとは違い、むしろ苦しく、ときに陰鬱な作業であったことだろう。

だが既に破産した会社が名作を生み出すことは原理的に不可能だ。社会はいかにしてかガイナックスに負債を背負わせ、生き続けることを選ばせた。

そうして幾多の優れた作品群を、日本が誇るクリエイターたちを、各国が憧れる文化の礎を回収したと云えるだろう。


「生まれた」も「I was born」も受動態であり、人は自らこの世に現れるわけではない。

その人にこの世界はいくつもの負債を背負わせ、生きてそれを返すよう求めてくるのではあるまいか。

金も名誉も、手に入るものの価値などおよそ知れていると云うならば、世界に対して借りを返そうともがくなかで発生し、身体の奥底に染み付くものにこそ唯一、価値があるのではないか。


「この素晴らしき、ロクでもない世界」。

缶コーヒーをあおりながらトミー・リー・ジョーンズが呟く言葉はそう考えれば、まんざら何かの語呂を合わせただけの人を食ったコピーというわけでもないのではないかと、もうだいぶ腹が一杯になったころ結論した。


転載、ここまで。


要するにジンギスカンを食いながら考えたことを書き連ねたということなので、「死んだ羊の肉」として挙げておく。