新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

未来予想図紛失。

モノが売れなくなっている。

これを不況のせいだとするのは偽りであり、現実から目をそらそうとしているのに他ならないという人に会った。

あるせまい業界で随一のキレ者と称される方だ。


高いものが売れず、百貨店はあいついで減収・減益を発表している。

では安いものが売れているのかというと、そうではないというのが彼の指摘だ。

生活必需品はいつの世も必ず売れる。

高いものに手が出ない世であれば、それは安いものが売れるのは当然だ。

「いいものが高く」で売れなくなっているから百貨店の業績は低迷しているのである。

では他方で「いいもの」も安くあれば売れるのかという点に着目すべきなのだ。

答えはノーであり、「モノが売れない」という状況の本質はここにあると彼は云う。


高度経済成長からバブル景気、その後の「失われた10年」を経験した集合としての日本人は、消費行動を深く学んでしまった。

「いいもの」「面白いもの」「気に入ったもの」、これらのすべては高かろうと安かろうと、買った以上いずれひとつの帰結に至る。

要らなくなって、捨てられるのである。

つまり「消費」とは「買う」こととイコールではなく、予定された「捨てる」によって完結する一連の行為なのだ。

ちょっと出かけた折に気に入ったそれを、自分はどこに置き、いつ何に使い、どこへどのように捨てるのか。

買った瞬間から迫られる無数の選択と、背負わなければならない責任についてすでに学んでいる人々は、簡単にはモノを買わない。

従って、と僕は理解した。

これからのマーケティングは「使い方」を説明するだけでは足りないのであって、それをどのように使い、どのような生活を実現していけばよいのかという買った者の責任についての明快な説明を必要とするのだと。

思えば「カラーテレビ」「マイカー(Car)」「クーラー」の三種の神器が内需を拡大させた高度経済成長期に消費の原動力となったのは所得の増大だけではない。

「現代的な生活」という圧倒的な存在感をもったライフスタイルのイデアがあって初めてそれらは「神器」たりえたのだ。


たとえが古すぎる。

あたりを見渡してみよう。

紙のように薄い大型テレビ、ほぼ「ウェアラブル」な携帯通信機、音もなく走り去る電気自動車、いながらにして世界中の情報を、ほかの何より詳細に教えてくれるネットワーク端末など、我々はすでに「ほぼ未来」を生きている。

それは古くは空想科学小説(SF)や少年漫画、特撮映画やアニメーションの世界を支配していた「未来」にほかならないだろう。

たとえば、僕は問いかけた。

ドラえもんの道具を100コ、ランダムに並べてみましょう。

そのなかに、こじつけであれビックカメラに行けば解決してしまう程度の道具はいくつあるでしょう。

たしかにそれは云いすぎであろう。

だが、そうした問いにも数瞬の黙考がうまれるようなリアリティが存在する。

我々は、すでに未来を生きているのだ。

この20年間、総じて「マルチメディア」という具体をもたない奇異な言葉でまとめられる多くの機器を我々は受容してきた。

こうした受容は漫画・アニメ・SFといった、少年期に手渡された未来の設計図にのっとって行われたものではなかったか。

そして我々は立ち止まる。

時ならずして未来に追いついてしまった我々の手にある設計図はここで終わっているのだ。

まったく実現しなかった未来は宇宙への進出と時間旅行ぐらいのものだろう。

ここに至り、我々の消費活動はどのような未来を実現するためになされるべきか、教えてくれるものはなくなった。

風の谷のナウシカ」以来のアニメは、人類を滅亡の危機においやる世界大戦により近代以前へ逆戻りした世界をひとつのテンプレートとするようになり、「魔女っ子」アニメに代表されるファンタジーは未来ではなく現代社会を舞台に展開されるパラレルワールドに過ぎない。


設計図はここで終わっている。

「必要は発明の母」というならば、未来を消費することに汲々として、新たな設計図に夢を馳せることをやめた我々こそがあらたな発明とその消費というサイクルを緩慢なる死に追いやってきたのかもしれない。