「不気味の谷」とはこのようなグラフの表す谷を意味する。
曲線は被験者の感じるポジティブな関心。
被験者に見せられる「顔の画像」は、グラフが右へ動くにつれリアルなものになっていく。
人間が「人の顔」を描いた画像に対し、そのリアリティが増加するに伴ってこのように親近感を強め、画像が完全にリアルなもの(つまり写真だ)になる直前、「リアル過ぎる」画像に対し突如として強い不快感・警戒感を抱くことは知られているが、サルでも同じような現象が確認されたというのが元記事の報道である。
「アニメはどこまでリアルになるのか。高画質・高精度のCGを駆使するアニメーションはいずれ実写映画に追いついてしまい、これによって『アニメ』としての存在意義を自ら喪失してしまうのではないか」。
この問いを裏焼きにした作品に押井守監督の「イノセンス」がある。
脳を含む全身がサイボーグであるにも関わらず、そこに「確かに」存在する自我の脆さ、はかなさ、くだらなさを愛し、ゆえに「我あり」と信ずる主人公は、肉体が機械工学・遺伝子工学によって再生可能であるように、人間の「自我」もまた単純な電気信号と、それによって蓄えられた情報の集積にすぎないという新たな「人間機械論」と繰り返し対峙する。
「自我をもって人間を人形と区別するのであれば、確立した自我をもたない子供は人形となんら変わりがない」。
検死官の言葉に対し感情的な言葉を返す同僚とちがい、主人公は語る。
「人間と機械、生物と無生物を区別しなかったデカルトは、5歳の時に亡くした娘にそっくりの人形をフランシーヌと名付けて溺愛した・・・・・そんな話もあったな」。
こうして人を模倣してつくられたはずの人形が、実は人間そのものと本質的にはなんら変わりがないのではないかという闇の深い問いとともに展開するストーリーは、ある人物にこのような仮説を語らせることになる。
「ひとが人形を恐れるのは、人形がもしかしたら生きているのではないかと思い、同時に自分は果たして本当に生きているのかという疑いをもつからだ」。
「不気味の谷」こそが、ここに語られる恐怖を描き出している。
つまり人は(または「サルは」)自分が人形(あるいは絵)とは明らかに異なると安心できる限りにおいて人形を愛するが、人形がまるで人そのもののように見え始めたとき、自分を人たらしめている「自我」の存在が、外見上はいかに無意味で無力なものであるかに気付き、その不安定さに恐怖するようになる。
では実際に撮影された映像を模倣した「人形」として生を受け、ある種「よりリアルに」なるために進化し続けてきたたアニメは自らの存在意義についての疑問をどのように扱えばよいのだろうか。
「不気味の谷」がその答えを暗示してくれている。
「『ラスト・ブラッド』が酷すぎる件についての走り書き」には「フルセルで女子高生の髪がピンク色をしているアニメ」が「リアルじゃない」として非難されることは決してないという喩えが、それこそ走り書かれているわけだが、このときピンクの髪をした女子高生が「充分にリアルでない」ことこそがアニメに自由を許しているのだということに、僕はここで気付かされる。
「不気味の谷」が教えてくれているのは、人間が(あるいは、しつこいようだが「サルが」)本能的に戯画なるものと模写なるものに線引きをしているという厳然たる事実であって、この谷を挟む2つの「興奮の山」は決して谷を越えて交じり合わないであろうということだ。
ひとが「これはアニメである」という理解を本能的になしている間は、ピンクの髪も、空飛ぶおさげの女の子も、あるいは外連味にすぎる台詞回しもアングルも、不気味の谷の「あちら側」の出来事として許され、むしろ積極的な関心とシンパシーをよぶ。
だがアニメがその分をわきまえずさらに模写へと接近しようとすれば、それは実写と真にイコールにならない限り、みずからを不気味の谷底へたたき落とすことになるであろう。
この谷こそが、実写とアニメのDMZ(非武装地帯)にほかならないのだ。
元の記事にもあるとおり、表現技術を駆使した実写映像への接近を課題とした「ファイナルファンタジー」は歴史的な失敗を演じた。
他方、「イノセンス」はそのデジタル映像の精密さにもかかわらず人物の描画だけはまるでセルから抜け出てきたように平板で、「リアリティ」を欠く。
人間と人形との違いが本当は存在しないのではないかという問いに発した作品にして、その問い自体がひとにもたらす「不気味の谷」をまるでわきまえていたかのように、自らは模倣としてのアニメ作品であるというメッセージを観る者の脳に対して発信し、谷のあちら側で高い評価を担保しようとした製作者の高い見識と深い洞察力をいま一度思った。