すでにご案内の通り、生命はみな生きて子孫を残すために生まれてくる。
このため生命体(思念体のことはよくわからない)の本能には「生きること」と「子孫を残すこと」に向けた強烈な動機付けがされている。
人間もまた然り。いかにブログなどを書いて高尚であろうと格好をつけたところで、その感情は云うにおよばず営みも思索も、結局は「生きたい」「子孫を残したい」という基本的な方針からは自由になることができない。
たとえばハンガー・ストライキをする人がいまでもたまにいるが、それでも人間は目の前に食べ物をおかれた状態では自らの意志で餓死することができないというのが僕の仮説だ。空腹でわけがわからなくなったけれどもまだ死んではいないという瞬間、ひとは自らの意志にはよらず本能によって目の前の飯をつかむはずだ。
僧が念仏を唱えながら断食したまま死に至るという「即身仏」も、洞窟のなかに閉じこもってこそできたのであって、目の前でユッケジャンが湯気を立てているような状況では成仏も延期やむなしとされたであろう。
そこまでややこしい話をしなくとも、こどもが苦いものをいやがるのは腐ったものを食べないよう頭のなかのノートン先生が怒るからだし、高いところを怖がるのは転落死するリスクから自分を遠ざけるためだ。
「暗闇」と「落下」と「大音響」に対する本能的な恐怖にいたっては、ひとがヒトになる前にインストールされたものかもしれない。ひとが怒るのは結局のところ身を守るためだし、笑うのは判断が不能に陥ったときのエラーコードで「ページが表示できません」に似たような反応だと考えて間違いあるまい。
ひとが死んだときに感じる悲しみは人間だけのものではなく、おそらくすべての動物に共通する「感情」で、それは仲間を失わないよう、助け合って生きることへのモチベーションにつながる。
そして云うまでもなく「恋」などはその配下に無数の派生的な動機を擁する感情の最大派閥で、これはもちろん「子孫を残」すという戦略目標に向けてロックオンされた巨大な装置であるから、人間の営みはそれこそ9割方がこれに端を発している。こいつをアンロックするのは並大抵ではないが、それについてはまた別の機会に述べる。
このように人間の感情を単なる道具、我々が生命としての役割を果たすためにインストールされたファームウェアに過ぎないと云い切るのは僕の悪い趣味で、我々が軟体動物のアップグレード版に過ぎないことを否定し、それこそあたかも「思念体」(あるいは「考える葦」)であるかのようにかしこまる人々をあざ笑いながら僕はしばしばうまい酒を飲んできた。
しかし随分前から僕は、簡単には説明がつかない感情が自分のなかにも存在することに気付いていた。
それは「懐かしい」だ。
果たして人がなにかを「懐かしい」と感じるとき、この気持ちは「生き」て「子孫を残」すためのどんな役に立つのだろうか。
いくら考えても納得がいかず、やがて「懐かしい」という感情は盲腸のように、もう使われていない器官なのだと考えることで僕は引き続きうまい酒を飲むようになっていた。
この謎は、ある日突然解決することになる。
あろうことか、【2】へ続く。