新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

わかった、要するにこの国の政治家たちはただの英雄なのです。

そんなある日NHKスペシャルで「証言ドキュメント 永田町 権力の興亡 第2回」が放映さる。音楽は川井憲治。

1996年の橋本内閣誕生からその退場以降、小泉純一郎の登場にいたるまでずるずると議席を減らし、誰の目にも「旧式のシステム」が取り返しもなく崩れていくのだということは自明であったにもかかわらず、「旧式のシステム」が崩れた後にどんなシステムも残りはしないのだとも気付いていたからこそ、みんなが「あれ、なんか調子がおかしいな?」とでもいうようなとぼけた顔をしながら、その実は誰もが古い時代の残滓に必死にすがりつこうとしていた自民党の姿は、そのまま当時のこの国の姿にぴたりと重なって実にみじめだ。


物語論で読む村上春樹と宮崎駿」は「スター・ウォーズ」に始まる「物語の復興」が、神託めいた依頼を受けて旅立った少年が試練を受け、傷つき、誘惑を受けながら最後には自分に打ち克って栄光とともに帰還するという類の、万古のかなたより世界中いたるところに遍在する神話の構造を現代によみがえらせることに成功した、そのグロテスクな様をありありと見せつけてくれる。

あたかも工場で検査員が出荷を待つ製品の正常に動作することを確認するかのように、80年代以降のハリウッドでは映画のスクリプトがこの「神話」のテキストに合致することで正しく観客の共感を喚びうるものであるかどうかを確認する専門の職能が生じた。

このように神話の構造はそこに代入された素材に従い自動的に物語を生成するアプリケーション、すなわち「物語メーカー」としてまさにその80年代、世界中に広まろうとしていた。

ひとの根源的な精神構造に根ざすこうした神話は大量生産の産物となってなお、あまりにたやすく熱狂を招き、やがて物語メーカーは大都会の瓦礫と化したアメリカ人の自我を再生させるための「物語」としてのイラク戦争を生み、あるいは陳腐なRPGから引用されたジャンクの寄せ集めに過ぎない「物語」を掲げる無数の宗教に生命を与え、それらはいずれも「スター・ウォーズ」が世界中で受け容れられたのとまったく同じ方法論で人々を魅了し、巻き込んでいく。


日本ではこうした宗教団体のひとつが神話の力を頼み、政界に進出しようとしていた。

街頭で開陳された神話の姿は白昼目にするにはあまりに低予算で、ひとびとはその前を素通りしたが、だがそうした現象が自分たちの住む街のなかで突然生じること自体には、奇妙に違和感をもたなかったことだろう。なぜならば、そうでなくとも神話はいたるところに蔓延していたのだし、ときにはすでに彼らの人生すら「物語メーカー」になけなしの自我を代入してみただけの結果であったりまでしたからだ。


ところがこの宗教団体の姿に過剰な嫌悪感を抱いた作家がいた。

村上春樹はその年、東京都内に姿を現したオウム真理教の姿に激しい拒否感を覚えたことを記憶している。

しかし忌まわしい事件を契機としてその内奥に分け入った結果、このカルト教団を成り立たせていた主装置こそ、まさに村上自身を作家たらしめているものに他ならないのだという事実に行き当たることになる。

実はこの国においては村上こそが余人に先駆けてアメリカで復興しつつあった神話の構造に着目し、これを丁寧にトレースすることで日本のみならず世界中の支持を得た伝道師であった。そして様々な「ジャンク」を設定として放り込めば自動的に物語が生成される「神話の構造」は、麻原彰晃もまた採用したオウム真理教フレームワークだったのである。


羊をめぐる冒険」で物語メーカーの威力を存分に借りた村上は、この舶来品の力がやはり海外の国々にまで普遍的におよぶことを確認していた。

しかし気がつけば自分を取り巻く社会のすべてが「神話的な構造をもった安直な物語」に充ち満ちていることに愕然とし、「自分版の神話」に力を得た人間たちがときに当然のように人を殺し、英雄のように凱旋すべしとしている有様に誰より震撼したのもまた村上であり、しかしその反応が他でもない同族嫌悪であることを村上は「アンダーグラウンド」で告白する。

愚鈍な大統領が9.11に続く自分の神話を二流の配役で世界に流し始めるのはそのあとのことだ。


自民党分裂以来の16年、この国の政治史は「守り」と「攻め」のなかでおのおのの政治家たちが自分のメンツだけを懸けて暗闘した神話の集合でできている。

二大政党制実現のため、身内までをも犠牲にしながら自分の影と戦い続ける小沢一郎、その小沢を「悪魔」と呼び捨て、権謀術数を駆使しては自分たちの王国を守ろうとする野中広務、巨悪に立ち向かおうとし、これを倒して英雄の称号を得るはずが仲間にとどめられて自己実現の機会を失った加藤紘一、時代の呼び声に立ち上がり、「死んでもいい」と吐いて自己実現の道を歩み続けた小泉純一郎

彼らはみな、「物語メーカー」に「俺」を代入して神話を紡ごうとしているだけのスクリプターに過ぎない。

野中の豪腕によって「加藤の乱」が頓挫し、森内閣の不信任決議案が否決された瞬間、本会議場でがっちり握手を交わし、肩をたたきあった野中と古賀の姿はまるで

「見たか、俺の投げた最後のスライダー。まるで刀の背中を滑り落ちるように外角へストンと決まりやがったぜ」

と云い交わしながらダグアウトへ戻るバッテリーのようだ。


1億人以上の「俺」が住まうこの国で、その未来を決するべく選ばれたはずの男たちはと云えば、なんと自分の「俺」をこの島で最大の「物語メーカー」に押し込まんとして押し合いへし合いをやっているのがその実だ。

要するに、誰が勝とうとできあがるのは一編の神話に過ぎない。古くは日本書紀から、「スター・ウォーズ」以降には彼の地ハリウッドでもそれこそ星の数ほど産み落とされた、よくある神話の新しいやつがまたひとつ生まれ、塵芥の山に英雄の名前がまたひとつ加えられるだけなのだ。


さよう、この国もきちんと配役をこなした冷戦の終結によって「大きな物語」は終焉を迎えた。

だがその後、共有されるべき物語を失った世界で、あとは主人公の名前を入力して自分の神話を好きにプレイしなさいとは誰も云っていない。

では我々の語るべき物語はどこにあるのか。忌むべきはどういった物語なのか。

歴史に学ぶべき時がきている。