1571年(元亀2年)9月30日。織田信長は比叡山延暦寺を中心とした一帯に火を放った。
織田の狙いは近畿一円の抵抗勢力が文字通り「駆け込み寺」としていた延暦寺の影響力を排除、その軍門に下すことにあり、「信長の仏教嫌い」云々というよりは、純粋に地政学的なものであった。
延暦寺では多くの建造物が焼失(もっとも消失したのはこれが初めてでも最後でもないと思うが)、高僧の類は云うに及ばず、逃げまどう女子供を含めた3,000人あまりが殺害されたとされる。
ともすれば俗世の権力と結びつき、互いに利用しあう側面が強かった山門と、その現世勢力とのこれが歴史に残る最大の正面衝突であった。
比叡山高校はその名の通り仏教系の高校で滋賀県の私立校のなかでは随一の進学校であったが、私の友人は面接で「尊敬する人物は?」と尋ねられ、
「織田信長です」
と答えて落選した。
当然だと思う。
これを聞いた私の整体師は「そもそも織田信長は尊敬に足るような人物か」という問いを発して私の9番目の背骨をギュッと押し込んだ。
「だいたい織田信長の何をそんなに尊敬できます?」
「S&M」(2000年)はヘヴィ・メタルバンドのメタリカが、あろうことかサンフランシスコ交響楽団と競演した「事件」の記録映像である。
今世紀に入って、ヘヴィ・メタルは既に一般教養だ。だがそれにしてもコンサートホールのステージでフルオーケストラをバックに演奏される「Master of Puppets」は、何度観ても消化しきれない衝撃を発し続けている。
この作品が放つ戦慄の本質を「古典の自己承認」に定めようと思う。
いつもとは違う皮肉な笑みを時折見せるオーケストラのメンバーや、明らかにメタル好きの指揮者・マイケル・ケイメン、そしてこちらもいつもよりは少し行儀のいい、おしなべて30を過ぎたオーディエンスを呑み込んだコンサートホール、これらのすべては時を経て「現代の古典」となったメタリカを迎え入れる本当の古典の寛容と敬意を示している。
そしてメンバーの母親が感涙にくずおれたという、彼らの服装である。
新しいことをするのはそれほど難しいことではない。それはむしろ創造ではなく破壊だからだ。
しかし正しく前衛であるということは、時代に連なる先の者であるということであり、それはいずれみずからもがまた古典になりゆく覚悟を背負うことである。
さすれば思いはおのずとかつては前衛であった現代の「古典」へと至り、そこに敬意が生ずることは間違いがあるまい。
昨今は猫も杓子も口にしたがる「オマージュ」の、これが本来の意味である。
30年前、音楽界にとどまらず社会においてまでも圧倒的にアヴァンギャルドだったメタル・シーンに生まれたメタリカは、いまや古典である。
ただ新しいのではなく、あるいはただ古くなったのでもなく、前衛が「前衛」として古典になる様は、矛盾するようでいて、実は人類の歴史を形作るあらゆるプロセスそのものだ。誇りと自覚をもってそれを受け容れる者を「古典」は敬意をもって迎え入れるであろう。
歴史上に自分の名前以外ほぼ何も残さなかった、尾張のうつけ者とはワケが違う。
僕が大学入試を翌年に控えた冬、整体師は店を畳んだ。
客足の伸び悩む大阪には住み飽いて、東京は新宿に移るということだった。
「一足さきに、東京へ行ってますんで」
店は新宿三丁目だということしか僕には伝えられなかったが、それは当時の僕にはまったくピンとこない地名であって、東京へきた頃にはどこをどう探したらいいものかもわからなくなっていた。
歴史に名を残すためにはそびえ立つ古典の山を登るより、前衛である方が手っ取り早いとその頃僕は思っていた。
だがそれは自らを「前衛である」と認めることが簡単であるというだけの話であって、自身を「古典である」と認めることができるようになるまでの道のりはむしろ無限に遠い。
見ていて腹の立つやつらと腹の立たないやつらを、こういう基準で説明することができると思った。
東京へきて14回目の冬。結局、件の整体師にはまだ会えていない。
だが何年経って会ったとしても、お互いに積もる話もそれほどないだろうということはわかっている。