新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

どこへ行ったんだ、タイガー。

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カップに蹴られたボールはゆるやかな傾斜を転げてバンカーへと落ちた。ギャラリーのどよめきはうねりのようだ。

気がつくと僕は最終ホールのグリーンで、砂に埋もれたボールを呆然と見やっていた。

最終日のここまで三打差の二位へ追い上げてきたゴルファーが冷静にパットを決めるとキャディーが僕に歩み寄って言葉をかけた。


「まだあなたに二打のアドバンテージです。リラックスして、タイガー」


このとき僕は、自分がタイガー・ウッズであることを知らされた。芝生に照りつける太陽の光がこんなに重いとはいまのいままで知るよしもない。

キャディーは忠実にゴルフバックの脇に立ち、僕がクラブの名前を告げるのを待っていた。彼は僕がサンドウェッジの発音をサンドウィッチと聞き分けられないような男だということを知らない。

ギャラリーの話し声はやがてささやきになり、「お静かに」というオフィシャルの呼びかけとともに静寂へと返っていった。

僕は黙ってキャディーに近寄ると、一番角度のなさそうなアイアンを自分の手で抜き取った。抑えきれない驚きがギャラリーから洩れ、すぐに静まる。きっと僕は選択を間違えたのだろう。だがタイガー・ウッズの奇行はしばしば奇跡の前触れだということを彼らは知っているのだ。

我を忘れたような状態で振ったクラブがポンとグリーンに上げたボールは、しかしやがて先ほどとは違うラインを通ってまたバンカーへ戻ってきた。ギャラリーの声はもはや悲鳴まじりだ。

暑い。流れる汗も太陽から僕を守ってはくれない。

キャディーがまた僕に歩み寄り、今度は卓球のラケットを差し出した「これを使ったらどうです?」。

僕はラバーを貼ったそのラケットの表と裏を検分しながら、こんなものをゴルフで使って良かったのかどうか、記憶のなかを必死で探った。

「冗談ですよ」キャディーが云って僕の手からラケットを取り上げた。沸きあがる嬌笑。タイガーのパートナーはジョークのわかるやつだ。

僕はひきつった笑いを浮かべながらキャディーの肩を叩く。そう、これはジョークだ。

「心配はいらないよ」。

再び僕はボールを打つ。同じようなシーンが繰り返されて、僕はまたバンカーに収まったボールを見下ろすことになる。三度、そしてもう一度。


確実だと思われた勝利はもう、遠くへ行ってしまった。

もはや誰もギャラリーの動揺を収めることができない。

痴話喧嘩の報道に始まったスキャンダルは不倫騒動を巻き起こし、そこからとめどなく流れ出した破廉恥な私生活の有様によって、ゴルフ界の若き貴公子の名声は地に落ちた。その彼を守ってきた最後のステータス、世界最高のゴルファーであるという揺るぎない事実がいま、剥がれ落ちていく。

僕はバンカーの柔らかな砂のなかから輝く太陽を見上げた。

すまないタイガー。僕は君の一番大切なものをなくしてしまった。君にとってはどんなにたやすいショットでも、僕にはとても代わることができないんだ。

「もう・・・・やめにしよう」

僕のつぶやきを聞きつけたキャディーが耳を寄せた。「なんですか?」

「棄権だ・・・・・ここで棄権しよう」

アナウンサーの叫び声が耳の奥に響いた。

タイガー・ウッズ、最終ホールでゲームを投げました!棄権です!スキャンダルにまみれたヒーローがいま、敗者の資格すら持たずにホールを去ります!」


自宅とおぼしき屋敷に着くと、どこが主の場所なのか考えることもせず手近なソファへと僕は深々と倒れ込んだ。

試合が終わったばかりの家のなかではタイガーを取り巻く身近な人々がせわしなく動き回り、僕の世話をしようとしていた。

マネージャらしきスーツの男がソファの後ろに立ち、僕の肩に手を置くと耳元で云った。

「大丈夫、気にすることはない。いろいろなことがあったんだ。こういうこともあるさ。君はよくやっている方だよ、タイガー」

ありがとうとだけ僕は答える。僕には到底値しないこの男の気遣いに、せめてこう答えることぐらいはしなければタイガーという男に申しわけが立たない気がした。

てきぱきした口調の女性が部屋の隅で何かの指示を出している。家のまえに押し寄せたメディアを追い払えと云っているのだ。

タイガーは人間であり、1人のプレイヤーだ。試合を棄権する権利はいつでも持っている。彼はそれを行使した。だからと云ってなんなの?優勝したってなんの話題にもならないあの男なんかより、タイガーの方がよほど配慮されてしかるべきだわ!


こうして僕はタイガー・ウッズという男のことを知る。

ファンは選ぶ。自分はタイガーのことを好きなのか、嫌いなのか。

メディアは論ずるだろう。タイガーは尊敬に値する人物なのか否かを。

しかしタイガーのすぐ近くで彼のことを知る人々は、選ぶことも論じることもなく、ただ彼のことを大切に思っている。押し寄せる悪意と興味から彼を守り、彼に幸せになって欲しいと願っているのだ。

タイガー・ウッズとはきっと、そういった愛情にふさわしい男なのだ。


三打のリード。そのパットを外したとしても、タイガーはまだ勝者たりえた。

だけど流れるようなラインの先で、そのボールがカップには入らないだろうことを君は知っていた。

パターを静かに振り出す前、グリーンで芝を読んでいるとき、あるいはそのもっと前の今朝ベッドで目ざめたときから、君は自分がこのパットを外すことを知っていたのだろう?

そしてその天才がゆえの予感が現実のものになるとわかったとき、君は神に祈ったのだ。もういい、この人生を誰かに代わってほしい。この重荷を背負い続けるのは本当に自分でなければいけないのかと。

君の願いはあまりにも強く、それは神に届いた。そして僕が選ばれたのだ。


部屋のなかは相変わらず、タイガーのことを気遣う人々でいっぱいだった。

うなだれる僕に声をかける者はもういなくなったが、誰もが何かできることはないかと様子をうかがいながらひっそり行き交っている。

どこへ行ったんだ、タイガー。僕は心のなかで呼びかけた。君の人生が君を待っているというのに。


朝、目を覚ますと僕は自分には無邪気な観衆も守るべき名声もないことに気付く。その代わり僕には豪邸もなければ取り巻きもいない。タイガーのものはタイガーへ返されたのだ。

そうだ、タイガー。

僕は会社へ行くために起き上がり、あくびをした。

僕の人生が僕を待っているのだ。