機材はエアバス380。大揉めに揉めた挙げ句やっとこさロールアウトした世界最大の旅客機だ。シンガポール航空はその最初の機体を引き受けたローンチカスタマー
である。
いまやゲンかつぎになっているフライト前のうどん
にも朝10時ではさすがに手が伸びず、まるで深夜でもあるかのように人気のないゲートで貧乏くさくビールをすすった。
シンガポール航空(SQ)はタイ航空、キャセイパシフィック航空とならび「世界三大」と称されるほど高いサービスクオリティを誇るエアラインだ。「日本二位」からアジアへの飛躍を目指すANAは、シンガポール航空をひっくり返すとの意を込めた「QSプロジェクト
」を起ち上げ、この追撃をもくろんでいるという。いずれにせよ高い客室サービスを世界に誇る航空会社がすべてアジアのフラッグキャリアだというのは少しく興味深いところだが、
「当便には、修学旅行のお客様が搭乗されます」。
気付いたときゲート前はすでに高校生とおぼしき私服の連隊によって占拠されていた。
おいおいと、朝のビールにクリンチされた頭で僕はぼやいた。
どこへ行くのか知らないけれどもよりによってシンガポール航空とはどういうことか。はじめて飛行機に乗るというような生徒もおろう。思い出に残るフライトをなぜ外国の航空会社で飛ぶのか。修学旅行の受注すらおぼつかないJAL、ANAの営業力に肩を落とし、また世界屈指の快適なサービスを子供に覚えさせてしまう教師陣の無神経には腹を立てもした。
優先搭乗が終わり、一般搭乗が開始される。遊びのときはビジネスクラスでも、ビジネスのときは経費削減を図る私のポリシーを容れ、今回の旅は最初から最後までエコノミークラスを予定している。
「行きましょう」同行してくれるT氏が腰をあげた。動き出しが早い。一度会っただけのT氏と相互に理解を深めることが道々目的のひとつになるが、このファーストムーブは先行きの明るさを予感させた。
もっさりとした浮揚感とともに巨体がテイクオフすると、キャビンの後ろから修学旅行生たちのどよめきが起きた。
周囲の客が苦笑している。面倒で迷惑だが悪気のない連中が後ろの方に乗っているというわけだ。
香港までは約4時間と聞いている。一寝入りすればあっという間だろう。食事を済ませると座席をリクライニングし(A380のエコノミークラスはリクライニングすると座面が前方に少しスライドしてくれた)、速やかに眠りに落ちた。
しばらくうとうとした後、目を覚ます。二時間ほどが経過したような感覚で、正しければそろそろ香港に着く頃だったが腕時計を持参していない。さりとて飛行中の携帯電話の使用は航空法により禁じられており、時刻を確認する術がなかった。
フライトマップで到着地までの残り時間を確かめようと、すべてのシートに備えられたパーソナルモニタの電源を入れる。
「Time to Destination(到着地までの残り時間):4:37」。
4時間37分。思考に断層が生まれて解決の糸口を探すのにしばらく時間がかかった。画面を切り替えて航空機の現在位置を確認すると、僕は東シナ海の沖を飛んでいるところだった。目的地のマークはマレー半島の先端。
嗚呼。僕は隣の席で映画に見入るTさんに気付かれぬよう、ひとり額を打った。
この飛行機はシンガポール行きか。
人に任せるというのは恐ろしいものだ。香港へ向かっているとばかり思っていた僕は実際にはシンガポール行きの飛行機に乗せられており、到着までにはまだ倍以上の道のりが待っているのだった。
だとするとハンパに眠ってしまった。
シートベルトを外すと隣のシンガポール人(どうりでシンガポール人が乗っているわけだ)に詫びを入れ、トイレに立った。
制服を着ているわけではないのですぐには気付かないが、目をこらすとキャビンの後部は修学旅行の団体が占めており、賑わしいとは云わないまでも(友人のいるひとは)友人との「海外旅行」に浮ついた言葉を交わしあっている。友人のいない人は寝ているか映画に夢中のふりでもするのだろう。
トイレの周辺では友人のシートに群がって通路をふさぐ数人の男子生徒が行く手をはばむ。おのおのPSPを手にしてモンハンに興じている。声をかけるとディスプレイからは目をあげることもなく脇へ寄った。
* * * * *
改正航空法(平成16年1月15日施行)
常時作動させてはならない電子機器
次に掲げる物件であって、作動時に電波を発射する状態にあるもの
携帯電話、PHS、トランシーバー、無線操縦玩具、ヘッドホン、イヤホン、マイク、パーソナルコンピュータ及び携帯情報端末
* * * * *
哀しいかな「電子ゲーム機」が電波を発しない時代に定められた同法の施行規則が機内での狩猟行為を野放しにしている。乗務員や教師は友人たちと寄り合ってゲームに興じる若者が何をしていると心得ているのか。「モンスターハンター・ポータブル
」は電波を発射することで仲間の端末と交信する機能を実装するゲームである。飛行中の機内では厳に取り締まられるべき物件だ。
気を付けるのだな、若きモンスターたちよ。僕は自分のシートへ戻る背中で語りかけた。お前たちもまた運命によって狩られる者だということを忘れるな。
もうひとつ付け加えれば、これがもし米国国内発着便だった場合、お前たちのいるそのトイレの周辺、そこに群れること自体が連邦航空法によって禁じられているのだぞ。もちろんトイレでの喫煙はいずれの場合も禁じられているが、そもそもお前たちは未成年なのであるから、喫煙行為の発覚自体がこの楽しい旅行の暗転を意味することだけはくれぐれも忘れないように。
それからいま「楽しい旅行」と云ったが、きみたちの目的地は一般に観光地としては糞だと云われているシンガポールだ。ボンボヤージュ。いい思い出を。
」に取りかかり、さらに二時間。長旅にもようやくメドがたったという頃、食事になった。
「食事はWesternか、Japaneseか」と尋ねられて「Japanese」と答えると出されたのはエビフライのカレーで、ここでシンガポール航空はその世界に誇るホスピタリティの有り様を自信とともに示して見せた。
一度でも海外へ旅したことのある人は知っている。JALの機内食にありがちな「和食/洋食/カレー」というチョイスがいかに馬鹿げているかを。
「カレー」は和食だ。紛うことなく日本の食事なのだ。シンガポール航空は東京からの乗客に最大限の敬意をもってその事実を受けとめ、エビフライを添えて供する「和食」のスタイルを確立していた。わけのわからない和食でゲストを愚弄し、エアラインとして存在することの意味自体を危うくするような航空会社
とはまったく別の次元で、シンガポール航空はこの便を運航中なのであった。
深い感銘とともに食事を終え、「一服してえなあ」などと思っていると機体は着陸に向けて降下を始めた。
時差はわずかに1時間。すでに夕闇に覆われた東京を尻目に、いまだ陽も高い熱帯モンスーン地帯、シンガポールのチャンギ空港へと私とT氏、それに一群のモンスターは静かに着陸した。