新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

マラリア。野性の人間とは。

プールサイドにセットされたテーブルの周りでは、巨大な蚊が灯りに照らされながら飛び回っていた。

先ほどから僕の脳裏を明朝体の「マラリア」がいったりきたりしている。

「季節や地域によっては」マラリアに留意する必要があると外務省のホームページでは案内されていたから、まさか冬のさなかが「季節」ではあるまいとタカをくくって来たところがこの有様だ。

しかしいずれにせよ、金曜日はホテル内でアルコールのサービスを受けられないということだから、どうしても一杯飲まねば寝付けそうにないということならば、プールサイドに設置されたこのカクテルラウンジで粘るほかなかった。


船着き場からダッカまでの道のりは、それこそまるで「深夜プラス1

」みたいな大立ち回りだった。

行きに下りがあれだけの渋滞だったということは当然帰りは上りが大渋滞で、いよいよ動かなくなったというところで先行車が意を決して迂回路へ入った。

迂回路というのは確かに車は呆気にとられるほど少ないがひどく曲がりくねった田舎道で、灌木の林をかすめながらダッカへは二時間以上もその調子だった。ドライバーは渋滞のないのがよほど嬉しいのか前を走る仲間の車をすら煽りながら、突然現れる対向車を幾度も紙一重で交わし、ついに無傷だった。

道はときたまちょっとした集落のなかを通り抜け、この辺りはまだダッカに近い分電気もきていて昼間訪ねた村よりは近代化されていたけれども、しかしいずれ劣らぬバラック様の小屋が木々に寄りかかるように立ち並び、裸電球の下で男たちが何か食べていたり、商店があれば店番の女がぼんやりテレビを観ていたりするのは、あたかも「カリブの海賊

」に長々と乗っているようで楽しかった。

それにしても一歩集落をはずれれば街灯も標識もないなかで、TOYOTA純正ナビは日本設定のまま「電波がありません」と表示してこのまま一生痴呆状態であるし、よくもまあ迷いもせずに帰れるものだと思ったが、とはいえこの道も徹頭徹尾見事に舗装されており、こういう道というのは限られているから、ダッカ周辺なら誰でも頭に入っているのかもしれない。


ホテルに着いたときにはとにかく疲れていたのだがまだ9時前であったし、なによりも胸のつかえは一杯飲みでもしないことには降りそうになかったからT氏にお願いして、一休みしたあとプールサイドでビールに付き合ってもらうことにしたのであった。


僕は非常に恐ろしい考えをもっていた。

ずいぶん懐かしいものに感じられたハイネケンを傾けると、それはますますソリッドに、形を伴って僕の頭のなかに現れた。


絶望すら存在しない村。希望は失われたのではなく、むしろその初めから存在したことがない世界。

人々が毎年必ずやってくる洪水に従いすべてを手放し、悠久の昔より繰り返されてきた10ヶ月限りの「1年」を、それまでとまったく同じように過ごし、病人は病という事実だけを受け入れ(未来に思いを致さぬ限り、彼らには「運命」という観念すらないだろう。あればそれに抗うために何かを始めているはずだからだ)ている。

批難を恐れずに云えば、彼らは「野性」であった。

野良猫は腹が減ったとき、そこに餌があれば食うがなければ食わないだけだ。そこには「運命」も「希望」も「絶望」も存在しない。

物陰を探して雨露を凌ぐことはするかもしれないが、ローンを組んでそれを補強したり占有しようとしたりはしない。

そして何よりも野良猫は、飼い猫になりたいと願うことがない。

飼い猫を見かけ、その存在を「異質なもの」という程度には認識しているかもしれない。しかし自分も同じネコであって、可能性としては自分も飼い猫として餌や物陰に困ることのない生き方ができたかもしれないネコであるということを知らない。

飼い猫でありたいと望むことを知らず、よって野良猫であることに失望もしない。


「動物だ」と僕は思った。

あの村で暮らす人々は、そういう意味では動物となんら変わらないのだ。

環境に影響を及ぼし、それを自分の都合のいいように変化させて生きる苦しみを減じようと「希望する」ことをしない人間。それはある次元において人間よりもむしろ動物に近い存在だ。
正直に感じたこのことを頭のなかで言葉にしたとき、僕は激しい罪悪感を覚えた。
「彼らは動物だ」。
それは僕に「人間は平等である」か、あるいは少なくとも「機会において平等である」と教えてきた戦後民主主義教育の根底にある教条を踏みにじるフレーズだった。
だがあの小屋の埃っぽい光のなかで宿痾に苦しむ男と向き合い、彼が治癒を祈ったり、運命を呪ったり、救済を望んだりといったその一切を「思いつかない」のだと知ったとき、僕が受けた衝撃を言葉にするならそれ以外にない。
人類が平等であるというのは仮説であり、史上まだ一度も実現されたことのない理想に過ぎない。
それでもその理想を信じることにこそ人間の栄光と尊厳があるのだと教えられてきた僕にとって、自らそれを諦めることはあまりにも罪深く、恐ろしいことだった。


それでもと、僕はハイネケン一本でアルコールの回った頭でT氏に語りかけた。


あのとき彼と僕との間に、「我々は平等である」ことを担保するものは何一つなかった。


希望することを知らない人間と、我々とは平等ではありえない。




それでも何かをしなければならないんでしょうね。


僕はカトマンズの村で救われる命と、悲しみを癒す儀式の話をした。


いったい何をすればいいのか、それが何になるというのか、たった一日で僕はまた不明の谷へと突き落とされた気がしたが、何かをしたいという気持ちだけははっきりと残っていた。


「入口においては情緒的に」。


いよいよ僕の寄る辺はそれ以外になくなってきていた。


「現実」を語ってニヒリズムの砦まで後退するか、「理想」を語って現実を受け入れるか。


ともに「主義」に過ぎないこの両者の間にあって、責任はもはや意味をなさない概念に成りはてた。


ならば俺は、何かをしたいのか、したくないのか。


行動を導くのは結局、この問いでしかないのだ。


誰がやったのか世界中に塗り込められた夢や理想で、世界は随分わかりにくい姿になってしまっている。


だがこうしてベールを丁寧に剥いでいけば、今日僕がこの生身の身体でぶつかったような事実に出くわすだろう。


世界は完成されたパズルではない。隙間なく敷き詰められた石畳ではない。


世界はいびつで、バラバラの、不格好な姿をした不良品だ。綺麗になることは永遠にない。

だとすれば、つまりと僕は思った。




俺は、自由なのだ。