いわゆるところの通勤ラッシュを受けて、JR赤羽駅は夕方の6時から7時半のわずか1時間半を限りに、これでもかというほどの人混みにあふれかえる。
ひょっとしたら埼玉かと思われがちなへんぴな土地に果たしてこれほどの大都会が存在したのかと、初めて訪れた人をあざむく赤羽の、これがハイライトだ。
そんな赤羽にとある部長を、私とPさんは迎えた。
梅雨入りだと云われているのにしぶといほどの、うだるような暑さの一日だった。
駅前通から路地を入るとそこに真味亭がある。
雀荘にあがるような暗い階段の先に半開きの扉があった。低い天井の下、6卓40席ほどの広めのテーブルがひしめきあっている。
「チャプチェ、まずいですよ」昨日下見に訪れた私が忠告を発したが、それでも我々はチャプチェをとった。
ビールが終わるのを待ちきれず取り寄せたチャミスルをグラスに盛り始めると、部長が悲嘆の声を挙げた。
部長の勤務先では半期に一度、社員の手によって上司の評価がくだされる。
このたびの評価において部長のランクは、いわばDマイナス。「氏ね」と云われているぞと知らされて、もはややりきれぬと部長はうなだれた。
その評価、つまりアンケートというのは記名か、あるいは匿名かと私は問うた。
曰く記名であるということであった。
それは部長、と私は云う。部下の誠意と真摯さをこそ誇るべきではありませんかと。
言葉は名を持たねばならない。
言葉は常に、ある人格の手によりなされ、その舌によって語られねばならぬ。
名を匿い、主たるべき人格から離れた言葉は、即ち「魔」となり、ひとりでに人を呪いはじめる。
そうなるとそれを発した人間ももはや主ではないから、誰にも止めることができなくなるのだ。
高潔で、何かを破壊し、何かを創造することができるのは、それを発した人間が名をしたためた言葉だけだ。
「あなたの部下は高潔だ。そしてあなたの組織は、いまもまだ生きていますよ」
気がつくと、最近始めたというサムギョプサルをテーブルのうえでやっている。
タレのない焼肉みたいでどうにも気に入らないのだが、「タレがないので煙が少なく、排煙装置が要らない」のだとPさんに教えられ、それはそれはと感心する。
「韓国伝統家庭料理・韓楽」は押しも押されぬ赤羽の目抜き通り、大「LaLaガーデン」アーケード街を左に折れた先の、小さなオフィスビルやらワンルームマンションやらが建て込んだ一角にあった。
LaLaガーデンからはほんの50mばかり入っただけだが、そこは元々にぎわっているというほどでもない赤羽だ。周辺の灯りはすっかり消え、人通りも途絶えたなかぽつりと営業しているのだから、さてはノーゲストかと疑いながら店へ入ると、それでも3組の客がテーブルについて小さなテレビでW杯の韓国戦を観ながら野球の話をしていた。
店内はあたかも九十九里あたりのシーサイド・カフェ。
海が好きで仕方のない旦那に引っ張られて海沿いに住んではみたがやることもなく、旦那は旦那で仕事なんだか遊びなんだが毎日マリンショップの手伝いにでかけていないものだから、一念発起で実家に泣きつき、やってみました喫茶店、といった風情のやたらブラックとシルバーが映える内装だ。
綺麗だが年齢不詳でカネのためなら何でもやりそうなママが注文をとると、カーナビほどのテレビ画面にかじりついていた赤いシャツのおじさんがそそくさとビールをテーブルに並べ、またテレビの前へ戻っていった。
チャプチェはゴマ油に塩こしょうが随分正直に効いている、ただの春雨であった。
韓国は前半を終えて2-1とアルゼンチンを相手に善戦している。
酒にあまり強くない部長は、連れてきた部下の男にフェラチオしろと迫り始めた。さきほどは深刻な話の流れでなまじ忠誠を誓った部下は本気で困っている。彼は部長の評価をいったい何としたのだろうか。
チャミスルを空け、勘定を済ませる。
真っ暗な路地に出ると後ろから「カムサハムニダ!」と呼ぶママの声がした。
その路地を一本駅の方へ戻ると雑居ビルの1階に「韓国料理 ヨンジゴンジ」がある。
ドアを開けるとその瞬間にわかるのは、ここがもともとカウンター6席、テーブル2卓の典型的なカラオケスナックだったことだ。
いまはカウンターのスツールをとっぱらい、鰻の寝床のような店内に無理矢理テーブルを5つ入れているが、天井が高く照明も屈託がないため、その狭苦しさはむしろ馴染みになったような親近感を持たせてくれる、たとえば都心の沖縄料理屋みたいな雰囲気だ。
いきなり韓国語で話しかけてきた若いママをPさんが何か云っていなしている。
「なんて云ったの?」と訊くと「2対1、2対1って云ってます」とPさんが苦笑する。
カウンターのなかだけの狭い厨房のうえでテレビがまたサッカーの中継をやっていて、こちらではどの客もみなそれに釘付けであった。
店は狭いが使い方にはまるで無駄がなく、狭くて丸見えの厨房さえ気にしなければ賃料との戦いはたやすいであろう。
「こりゃいいんじゃないのか?」とつぶやく僕に「個人でやるならこの店は鉄板ですよ」とPさんも同意した。
「個人でやるなら」という言葉の意味がよくわからない。集団で店をやろうとしているのだろうか。
チャプチェの味はまるっきりめんつゆか焼肉のタレで、部長とPさんがブーイングを挙げる。プルコギは完全にすき焼きだった。
しかしメニューはほんの20品ほどしかなく、それもまた身軽な経営スタイルを反映している。
こういう店だと思えばそれはたいした徹底ぶりだった。
こんなに狭い店なのにPさんの席の後ろには何故か二層式のでかい洗濯機が置かれている。
なんであんなものがと問うと、あれは洗濯機ではなくキムチ冷蔵庫だと教えてくれた。
そういえば真味亭でトイレに行くときにも同じようなものを見かけた。こういうことは足を使わないとわからない。
アルゼンチンが続けざまに2点を入れて試合を決める。
部長はまだフェラチオをしろと云っている。部下も限界が近くなってきて、妙なところを掻き始めたりしたので、潮時だと判断して勘定を頼んだ。気がつくと試合中にもかかわらずテレビはすでに消されてあった。
店を出た。
ようやく、らしき店に出会った。
だがまだまだ、たかが6店回っただけだ。
「次回は高円寺にしましょう」と云うと、部長が是非と叫んだ。Pさんは何かを深く考えている。
東京は明日からまた、雨になる。