官吏や法曹がなにか法律の運用を誤ったとき、この国は法治国家ではないのかという怒りの声が巻き起こる。
この怒りは二重に間違っている。
まず法治国家の原則というのはもちろん、人に過ちを許さないといっているのではない。過ちは過ちであり原則は原則だ。慌てることはない。
だが重要なのは、この国にはそもそも法治国家の実体というものが存在しないということだ。
法治国家というのは、誰かひとが「あれはいい」「これはダメだ」などと決めたりしない国だということで、国民の自由に深くまつわる概念である。
何がよくて何が悪いかは法律に書いてあるから、人は何かを決めるときには法律を理解し、それに反しないよう気を付ければ罰せられることはない。
たとえば家庭内では何がよくて何が悪いかが文書化されているわけではないから、母親の機嫌が悪ければ昨日は許されたことも今日は怒られるということが起こりうる。
「いつもはいいって云うじゃん!」とか「あんただってやってんじゃん!」とかいう反論はシャットアウト。「お母さんの云うことが聞けないの!?」これが法治国家に対する「人治国家」の在り方であって、物事の正否・善悪は権力者個人のなかにあり、余人には予測不可能である。
海外のホームドラマなどでは口答えする子供を「Because I say so.」(お母さんがそう云うからよ)とはねつける母親が登場するが、これがつまり法ではなく人が支配する社会の有り様だ。
で、こういった社会の何がいけないかということだが、権力者がいつどこで怒り出すかわからないため、人が萎縮して自由に生活したりチャレンジしたりすることができないのだ。
つまり「人が本来もっている自由を存分に行使できること」これこそが法治国家であることの本旨なのである。
とかく日本人というのは自分が損を被ったり、それが不平等であると感じたりしたときに「日本は法治国家ではないのか!」と叫び始めがちなのだが、実はそれとこれとは本質的に関係がない。
不当だと感じたら裁判をすればよいということになっている。すればよいのだ。当たり前に勝つこともあれば、負けることもあるだろうけれども。
法治国家は国民に自由を担保するのであって、自由を行使するコストやそのリスクを国家が負担するということとは無関係なのである。
まずそこのところを誤解している人間が多すぎるということが問題だ。
例えば口蹄疫問題を考えてみよう。
天災とも云える疫病によって生活を脅かされている畜産農家の方々には誠にお気の毒であると思う。
しかしこの被害を政府が補償し、農家を救済するということ、果てはその対応が遅れたからと云って農家の利益を代弁する「族議員」の絶滅を憂うのは、法治国家の原則からするとどういうことになるだろうか。
まず口蹄疫によって家業の継続が難しくなった農家を補償することと、狂牛病のあおりで閉店に追い込まれた焼肉屋を救済することを比べてみよう。
いずれもやむにやまれず生活に貧するわけだが、前者が自治体や政府による補償を声高に求めるのに対し、焼肉屋がそうしないのは何故だろう。
メディアもまた、農家の救済を訴える一方で焼肉屋の救済を求めようとしなかったのは何故だろうか。
「可哀相だから」「気の毒だから」「彼らのせいではないから」「誰しもいつそんな目に遭うかわからないから」。
それが農家を救済する理由だとしたら、これらはすべて焼肉屋の店主とその家族にもあてはまる。
これを理由に農家に金銭的な補償を行い、焼肉屋は潰れるに任せるとすれば、これを云う人々がえてしてもっとも嫌う「不平等」がそこに生まれることになるだろう。
だいたい職業などは何をするにも自分の努力や能力のおよばない事情で失敗するリスクをはらむ。
「焼肉屋はやってもうまくいかなそう、でも焼鳥屋ならまだマシかも」と思う者が焼鳥屋をやるのだし、そもそも「飲食業は時流に影響を受けやすいからリスキーだ」と判断した者がクリーニング屋をやるのであって、これらは完全に本人の自由だ。
ただしどんなリスクがあったとしても、いきなり禁止されたり罰せられたりするリスクは「ゼロ」だと確信できるから、人は自由に職業を選ぶのだ。
総理大臣が「あ、今日ちょっと嫌なことがあったんで、明日からクリーニング屋は禁止ってことで」とは云い出さないのが法治国家というわけである。
法律が変わるにせよ、それには国会で長い審議を経なければならない。この安心感を担保しているのが法治国家という枠組みなのだ。
だが子供の頃から散々教え込まれたように「自由と責任は裏表」であって、政府としては国民に自由を保障しているわけだから、その責任ばかりを負わされてはたまらない。
「国民のみなさんは自由に仕事を選んでください。責任は政府がとります」などと云ってしまった日には、焼鳥屋やゲーム制作やら編集プロやらバンドマンやら、みんなそれこそ好き勝手なことを始め、「うまくいくかどうか」などはもとより埒外だから失敗する人の数はいまよりも多くなる。
挙げ句それらの失敗した「起業家」連中が、いまの畜産農家のように政府に対して補償を求めたとしよう。
無謀な約束をしたおかげで国家の財政はあっという間になりゆかなくなってしまうだろう。
仕事がうまくいかなければ生活が破綻する。だが仕事を選ぶのは個人の自由だから、失敗の原因がなんであろうと責任は本人にある。それでやっと皆一生懸命頑張るようになる。そうやって社会は成り立っている。
さてこのように考えると、口蹄疫の蔓延に際しても政府は畜産農家を救済してはいけない。
政府は畜産農家で働く人々に対して「あなた方は畜産業をやらなければならない」とは決めていない。彼らは自ら選んで畜産を生業としているのだ。
そればかりか彼らは、畜産業にこうした疫病のリスクがあることを予測できなかったか、または予測していても何の対策も打てなかった人々である。
つまりこのように、法律が自由を担保しており、ゆえにその分の責任は国民にあるという考え方からすると、政府が畜産農家に対して補償を行い、彼らを救済しなければならない理由はない。
法治国家であることに重要な意味があると考えるならば、農家の救済を叫ぶ前に確認しなければならないのはこの原則である。そうでなければ補償しましょうという話も出ないまま潰れていったあまたの焼肉屋が浮かばれないであろう。
もちろん今回の騒動で畜産農家を補償する理由というのは存在する。その理由は畜産農家がただの国民ではなく、国内で良質な食料を生産・供給し、日本の食糧自給体制を支えるという「国家的目的」のために掛け替えのない重要な役割を担っていると仮定した場合に明らかとなる。
畜産農家をやるのは自由である。だが畜産農家を辞めるのも自由だとすると、口蹄疫の流行で痛手を負った畜産業からは労働力が流出していきかねない。
それではいずれ国民全体が困るのである。
だから政府は国民全体の利益のために、畜産業を営むリスクを軽減してやらなければならない。病気の発生は防げないから、発生後には金銭的な補償を行わなければならないのだ。
安全保障という観点から、特に第一次産業に対し政府はしばしばこのような保護を与える必要がある。
今回、宮崎の畜産農家に補償を行わなければならないとすれば、これが理由だ。彼らを救済するのは「気の毒だから」や「彼らのせいではないから」では断じてない。
しかし僕の知る限り、古舘伊知郎がこのように補償の必要性を訴えたことはないし、視聴者がそれを理解しているという様子もない。
畜産農家の救済を支持する論調には、いずれ仕事のなくなった土建屋や、ネットのあおりで潰れたAVメーカーの保護にまで発展しかねない不合理な同情論が潜在する。
つまり法治国家であるということは、国民の生活を法律が保護してくれるということではなく、その逆であり、口蹄疫の流行に伴う畜産農家の救済は、畜産業が国民生活全体に対して担う役割によって例外的に正当化されるということだ。
だがそれでも日本人はしばしば「日本は法治国家である」ことを根拠に、被害や不平等の回復を求めがちである。
そのうえ国民の間に醸成される同情論を背景に合理的な根拠もなくこれを聞き入れることはむしろ、「法のもと、責任とセットで自由は国民に対し保障される」という法治国家の原則を歪めている。
「法治国家」を口にして何かを主張する者に限って、「道徳」や「良心」といった法律外のテコで自分の凹ませた被害を埋め合わせてもらおうとしがちなのが現代の日本だ。
これは義務教育において国民の権利義務と法律についての一般教育が充分になされていないのが大きな理由だが、この状況が現実である以上、マスメディアにはかなりの程度、国民に対する教育的な役割を担ってもらわねばならない。
そうした「国家的目的」に力を割いてこそ初めて、メディアもまた現今の苦境に対し「電波使用料入札制度反対」「再販制度維持」といった保護を求める資格を獲得するのだということを忘れてはならない。