新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

税を語れ候補者

日本の民主主義がその根本から歪んでいることを示すひとつの例は、「税理士」という職能の存在である。

wikiを引いても、日本で云うところの税理士が存在する国は世界でもいくつかしかない。

米国などでは税務申告は資格がなくても業としてこれを行うことができ、しばしば有料でこれを行うのは会計全般の知識をもつ会計士や、法律全体に幅広い見識を有する弁護士である。

では日本ではなぜ会計士や弁護士が税務を執り行わないのか。

それは日本の税法があまりにも複雑かつ「曖昧」で、法律の専門家である弁護士にすら満足にそれを把握することが叶わないほどだからである。


「租税法律主義」とは、法律に定められていない限り我々は税金を課されたり、徴収されたりすることがないという原則で、「法治国家」を支える重要な柱のひとつだ。

政府は国家を維持していくために、我々から税金を徴収することができる。これは強制力であって、我々の権利を制限することが可能である。

たとえばあなたがレンタルビデオ屋で1ヶ月働き、150,000円のお給料をもらうという約束をしたとしよう。

約束通りに働けば、あなたには150,000円の所得を得る権利が発生する。

その権利を超えて、政府はあなたから15,000円の所得「税」を徴収する。これは強制力なので、あなたには抵抗できない。15,000円分についてはあなたも権利を主張できないのである。

だがあなたも大人なので、給料から税金が天引きされることぐらいは承知のうえである。

しかしこの税額が100,000円にものぼるとしたらどうだろうか。

1ヶ月の手取りが50,000円ではやっていけない。66%を税金として徴収されても生活していけるよう、そもそもの働き口を変え、もっと給料を稼がなければならないということになるだろう。

このように税金を支払うこと自体には合意したとしても、その税金が何にどのぐらいかかるのかがあらかじめ明確でないと、我々は安心して生活を送ることができない。

前項で述べたように、政府は国民に対し、自由とセットで責任を課す。

責任を責任として引き受けるためには、国民は自由でなければならないし、「自由である」とは単に選択肢が存在するだけでは不十分で、そこに存在するリスクを予測することができなければ、国民は安心して自由を行使できない。

自分の権利がどの程度政府によって制限され、いくらの税金を徴収されるのかは、国民にとり大きな「リスク」要因である。

だから政府は国民が「税金リスク」を事前に予測できるよう、なににどういった税金がいくらかかるのかをあらかじめ法律に明記しておかなければならない。

これも前項で述べたとおり、この法律を変えるためには国会で長い審議が必要になるから、国民は法律を理解している限り突然「法外」な税金を課されるリスクを負わずに済むのである。


ところが日本の税法とその体系は、国民による「予測可能性」という点で重大な欠陥を抱えている。

まず国会での審議と決議を経ずに発令される国税庁長官の「通達」によって、日本の税法には毎年多くの点で変更が加えられる。

それが繰り返されることにより、数百にのぼる通達が積み重なって、これらの織りなす体系は、おおもとの税法それ自体を理解するだけでは何の役にもたたないほど複雑化してしまった。

これに加えて税務調査で行われる通達の運用・課税の恣意性・曖昧性から、税務はもっぱらそれを追求する税理士にしか手に負えない実務になり果てているのである。


しかし「租税法律主義」とは先に述べたとおり、そもそも民主主義の根幹を成す考え方のひとつだ。

米国の独立戦争は「代表なくして課税なし」というスローガンによって戦われたが、これはつまり「税金は法律に従って課されるが、それは納税者が法律の制定にかかわることができるからこそ正当なのだ」という考え方から出た言葉である。

議会はもともと、政府がどのように税金を課し、それをどのように使うべきかを議論するため国民の代表者が集まって討議した場なのである。

税金は強制的に徴収されるが、その代わりに納税者はその税金の使い道について口を挟む権利をもつ。これが選挙権・被選挙権だというわけだ。

この伝で行くと選挙権も被選挙権もない者に税金を課し、徴収する権利を政府はもたない。

つまり今我々が知る民主主義は、議会が法律を定め、政府がそれに基づいて税金を課し、その限りにおいて国民が納税に応えるという仕組みに端を発する体系なのだということだ。

ところがこの国において、租税法の体系を定めるということ即ち課税権は少なくともその一部を国税庁の長官という一機関が握っており、議会の手を放れている。

もちろん国税庁の長官は、国会が指名する総理大臣によって指名された財務大臣によって指名されるので、間接的には議会からの委任を受けて職務を遂行しているが、彼の決定をいちいち議会は承認したりしないどころか実務的には関知すらしないため、「代表なくして」課税が行われているという指摘を簡単には免れ得ぬ状況が生まれているのだ。


この主張には少し云いすぎのきらいこそあれど、国民あるいは納税者たる企業にとって、何がどのように課税されるのかという「課税の予測可能性」が著しく低下しており、その経済活動による自由の行使が難しくなっていることは紛れもない事実である。

特に税法そのものが異なる諸外国との間をまたいで複雑な経済活動を行おうとするとき、当局の課税基準が多分に曖昧であるという問題がこの時代、日本企業の「自由」を制限しているという状況は、民主主義の基本原則にまで立ち返ってでも考え直す必要があるだろう。

税法を明確に国民のコントロール下におくこと、国民による税法にまつわる理解と判断を、我が国の民主的なコントロールの根幹に改めて据えることはまた、逼迫する財政状況に取り組む上でも重要な課題だ。


参院選はいよいよ今日、投票日を迎えた。

与党と最大野党の両方が消費税の増税を是として戦ったこの選挙戦を、僕は悪いと思わない。

それはつまり、消費増税による税収増自体はすでに論点ではなくなったことを意味するだけで、我が国の財政状態に鑑みればそれは不思議もない。

大切なのは、消費増税の先にどのような配分政策・分配政策をおくかであり、国民はそこまで分け入らなければ政権を選択できない高度な状況にようやく巡り合わせたということだ。

そもそも議会に代表を送るというのはそういうことであり、選ばれようという代表がそこに至るビジョンを持っているかどうかということなのだと、我々はぼちぼち理解しなければならない。