世界の様々な民族というか国民を比べてみると、日本人というのはあまり図々しい方ではないと思う。
だがその「世界」から見ると「図々しくない」というのは「自由の使い方を知らない」ということでもあって、それは、イコール、「ナイーブ」つまり馬鹿だと云われ始めたのが80年代だったのだろう。
その頃に育った我々は「ガイジン」に対して固く閉ざした心を「ガイアツ」によってこじ開けられたあげく、土足で入ってきた彼らに「ナイーブ」だとののしられた日本人の記憶を抱いている。
我々の親の世代はいったい何をアメリカ人にあそこまで怒られているのか。
うなだれた親たちはよく云った。
「アメリカは自由の国だ」。
それでも彼らは我々を慎ましい日本人に育てようとする。
「もはや戦後ではない」と云われて30年近くが経っていた。
けれども僕には戦後でない何かはまだ始まってもおらず、アメリカに対する果てしない戦後がこれからも続いていくように思われてならなかった。
ANAが新しい機内サービスを開始した、それが初日だったと思う。
私は成田-サンフランシスコ便の、つまり008便の機上の人となった。
「ビーフ・オア・チキン?」という質問に備えんとメニューをためつすがめつする乗客(まぁ実際にはANAなのだから問答は日本語で行われる)は早くから困惑気味であった。
離陸後しばらくすると客室乗務員が必死の形相で新サービスの説明を開始する。
要点は次の通りである。
・食事はいつでも乗客の希望するときに供される。
・和食、洋食といったコースの別なく、各要素(皿)はいわば「アラカルトに」選ぶことができる。
・それどころか各要素を統合する構造はもはや過去のものとなり、「和食のメインを前菜に」「ビーフのメインをメインに」「シメの前にチキンのメインを」採るといったポスト・モダンな願いすら叶う。
私が数少ない読者のために2回分のエントリーを費やして説いてきた仕組みだ。
「ビーフ・オア・チキン?」が海外旅行の常識であることはいかに飛び慣れたビジネスマンであっても何ら変わることがなく、この「機上の脱構造主義」を予備知識なく飲み込めた乗客は私の見るところ、ほぼいなかった。
担当の乗務員が私のところへやってきて跪き、説明を始めると私はこれを制して「存じています」と告げた。
「あ、さようでございますか、ありがとうございます」とほっとしたように笑顔を浮かべる彼女に、しかし私は確認しなければならないことがあった。
「メインをふたつオーダーしてもいいというのは、これは正気ですか」
「ええ、ご注文いただいて結構でございますよ」彼女の笑顔が大きくなったが、やはりそれは引きつっているように見えなくもなかった。
繰り返すが私は自分を図々しい方だとは思わない。
いわんや国際線の機上においてをやだ。
しかし90年代に加速したグローバリゼーションは私を日本人にしては充分に自由を行使する大人に育てたし、幼い頃からの難問であった「自由と責任」という問題にも私なりの答えを携えながら10年以上も酒を飲んできた。
ANAは、厳しいというか無謀な道を選んだなとそのとき私は思った。
ライバルのJALは放っておいても自壊寸前であったが、そもそもJALは「敵ではない」からこそ、ここにおよんでこのような冒険に出なければ更なる未来は拓けないということであったのだろうか、私はANAの覚悟をそれとして受けとめた。
「では和食の前菜を。それに『鶏すき』とチキンのグリル、鶏南蛮うどんをください。デザートは要りません」
もうおわかりであろう。機内食のポスト・モダンを象徴する「メインの和洋重複オーダー」、かぶせるように「サイドメニュー」からANA自慢のうどんを付けたのである。
云われたことを整理するための一瞬の間があった。
そのあと彼女は少し唇を噛み「鶏がお好きなんですね」と嫌みを云った。
「ええ、好きですね」
それはそうだ。鶏すき、チキンのグリル、鶏南蛮うどんという鶏づくしの飯を食おうというのだから。
だがこれは私の身勝手というよりは、ANAがこれから提供せんとするサービスを客の側からみたときの、その理想の姿を示したものとも云えた。
ANAがしようとしているのは、こうしたオーダーを「身勝手」と片付けずに取り合おうという試みなのだから。
私を担当した乗務員の彼女はwell-trainedであった。
おそらくテレビでみた鬼教官が様々なシチュエーションに向けた多様な対応をシミュレートさせ、たたき込んだのだろう。
手元のメモに何事か書き込みながら(おそらくは「嫌なヤツ」とでも書き付けていたのだろう)彼女はこう云った。要請は承った、しかしながらいまは繁忙期なので対応しきれないため、うどんのみ、少しあとでお届けするということでよろしいかと。
もちろん私は快諾した。
慣れぬシステムに混乱する現場を眺めて楽しみたいというわけではない。ただできるだけ多くの機会を捉えて鶏を食べたいというだけだ。
しかしもし叶うことなら「この新システムは機内サービスが無視することのできないいくつかの制約を無視しており、原理的に無理がある」という声を客の立場からANAのしかるべき立場の者へ届けるのがよかろうという思いはあった。
そしてそれは「翼の王国」(ANAの機内誌)にある「お客様の声コーナー」への投稿ではなく、ほかならぬ身内、現場の声として伝わって初めて私のひいきのエアラインに翻意を促すきっかけになってくれようというものだった。
数ヶ月の後、同じ国際便のメニューに「コース」の概念が復活した。
正確には、5月に強く押し出された「アラカルト」(お好きなものを、お好きなだけ)という物騒な考え方が大きく後退し、「コース以外の楽しみ方もできます」という打ち出しに変わったのだ。
機内食のポスト・モダンは反動的に隠蔽されたのである。
現在もメインだけを4種オーダーすることは理論上(そしておそらく実際上も)可能なのだと思う。
だがそれを是非試して欲しいという貪欲なサービス精神を現在のメニューからは感じ取ることはできない。
それどころかANAは「My Choice」と称し、「希望すれば国内線のエコノミークラスでビジネスクラスと同等のサービスを別料金で提供する」としている。
我々に直接関係する現象としては、エコノミークラスで水以外のドリンクが有料になったということぐらいだ。
ANAは傘下に格安航空会社(LCC)を起ちあげようとしているから、決して本体がLCC化しようとしているわけではないだろう。
だがごくおおざっぱに云って、希望しない客からはサービスを取り上げて、チケットを安く売るというのが今後の航空会社の基本戦略であるべきなのだ。
5月の過激なサービス改革からわずか半年そこそこで、行き過ぎを引き戻し、他方まったく逆の改革までを進めてしまうこのスピードと柔軟性をこそ、私は高く評価したい。
ところで鶏すきとチキンのグリル(かどうかは正直忘れたが、とにかくチキンだったということでご容赦願いたい)は申し分のない味わいだった。
他方、うどんについては結局サンフランシスコに到着するまで届けられることがなかった。
いっそもう一度オーダーしようかとも思ったが、疲弊した客室乗務員にわざわざミスを思い出させるようなので、やめた。
自由を行使することにはためらわないが、それでも私は自分のことを図々しい人間だとは考えない。了。