怖いもの見たさというのは非常にシンプルで、本能的な欲求だ。
そこここの闇や障害物が落とす死角に囲まれた原始人の世界。我々にとって死角すなわち「そこに何があるか分からないこと」は常に恐怖であった。
物陰には大蛇がとぐろを巻いて隙をうかがっているかもしれず、闇の向こうからは夜行性の獣が獰猛な目付きで今日の前菜を選んでいるかもしれない。
この「かもしれない」を放置して油断した隙に丸呑みされたり寝込みを襲われたりするぐらいでであれば、むしろ万全の備えをもって闇を暴き、「危険」を打ち払う方がよほど気楽で安全だったに違いない。
我々が「これは怖い話かもしれない・・・」と感じたとき耳をふさがず敢えて「詳細kwsk」とか云ってしまうのはその名残りである。
恐怖はディテールからではなく、ディテールが判明しないことからより強く生じる。
よって恐怖を得物とする者はしばしば自らのディテールを秘したがるものである。
「ノウイング」という映画をわざわざDVDで観た。
「人類を見舞う悲劇を予知する超越的存在」という題材は「プロフェシー」という映画でも扱っていて、これも結論とてもいい話、ハートウォーミングと云ってもおかしくないぐらいの作品であったにもかかわらず、強い恐怖でいまも私のトラウマになっている。
よってトレイラーを観て「これはプロフェシーの恐怖ふたたび」と悟った以上、私はこれに向き合わなければならないという本能の叫びに突き動かされ、「ノウイング」を手に取ったのである。
人類が啓示によって悲劇を予知してしまうといった事態の、そこはかとない恐ろしさをどうか味わって欲しい。
なおどちらも普通に考えると映画としてはクソだ。
我々はインターネットの描く地平の向こうに夢を描くのに必死であって、若きアムンゼンたちは少しでも早くその地平線を踏破せんと必死の戦いを繰り広げているが、それらはすべて間違いだ。
インターネットの夜明けからはや20年。
世界規模の「ネットワーク」に個人が接続されることで、なにが実現するかを我々は学び、それが人類の未来であることを認めた。
だがインターネットは、たかがプロトタイプに過ぎない。
元々は軍事用の、つまり冗長だがあくまでも閉鎖されたネットワークとして基本設計されたインターネットは、根本的な仕様変更の機会を得られないまま世界規模の開かれたネットワークになってしまった。
もはやバージョンアップは不可能だ。
ここに至ってインターネットの限界はバージョンアップではなく、インターネットそのものの放棄と、新しい「なんとかネット」への移行によってしか解決できないものになるだろう。
「地デジへの移行」の、もっと大規模な、革命的なヴァリエーションを想像して頂きたい。
インターネットに接続するノードの数が「基本設計」の想定を遙かに上回る時代に入り、背番号であるIPアドレスの数が足りなくなりそうだと大々的に報じられたのは00年代の中頃。
解決するためには単純にケタを増やしてIPv6という仕組みへ移行しなければならない。
こうした見通しは、これを特需と受けとめた機器メーカー、ベンダーの煽りもあって盛んに取り上げられた(「地デジ化」を前に鼻息の荒い家電量販店の姿を思い浮かべてもいい)。
しかしIPv6への移行はなかなか進まない。
インターネットはあまりに広大であり、この「バージョンアップ」に対応しなければならない機器の数もまた我々の想像を上回って多いからだ。
IPv6への移行問題(というかIPアドレスの枯渇問題)は、インターネットが抱えるもうひとつの深刻な限界を示唆している。
それは膨大な数の人、ノードをネットワークするのに必要なコストである。
IPv4で世界に振ることのできるIPアドレスの総数は、約43億個。
IPv6になるとこれが約340澗(かん)個になり、これは地表の1平方cmあたり約6,670京個のIPアドレスを振ることができる数だという。ここは笑うところだ。
(IT Solutions - Professa http://isol.pro-s.co.jp/news/2008/12/07/ipv6/ )
このバカバカしいたとえにシビれて身動きがとれなくなりそうだが、つまりこれにて問題は「永久に解決」だと云う人によってこの仕組みを考案・提唱して採用されたわけである。
60億人の地球人が600億人に増えることもまずはささそうだから、この数のIPアドレスが「永遠に枯渇しない」という考え方を私は否定しない。
しかしそもそもいつか「キャパオーバーがくる」仕組みのまま、インターネットが拡大してしまったことには注意が必要だ。
ネットワークはこれからも進化しなければならないし、進化していく。
フェース・トゥー・フェースのコミュニケーションよりも、ネットワーク越しのコミュニケーションの方が「リアル」に感じる世代が登場したとき、現実は「攻殻機動隊」の世界を超えていくだろう。
これはいまある「現実世界」はすべてネットワーク上へと移植されることを意味する。
たとえば母親が姑とそりが合わず、娘がおばあちゃんと「会う」のはSkypeで済ませたとする。
物心つく頃には、娘にとってのおばあちゃんはモニタの中の存在であり、においも手触りも、温度も厚みもない「二次元の人」として固定する。
「俺の彼女がモニタから出てこないんだが・・・」というあのギャグも、むしろ当たり前の日常になってくるだろう(精液は郵送)。
そうして現実世界が見えないくらいに地球上をネットワークが覆い尽くした世界で、そのネットワークは果たして「インターネット」なのだろうか?
IPアドレスの数は間に合うであろう。
しかしインターネットの拡張と維持にかかるコストを誰に負担できるのだろう。
さよう、人類のネットワークへの希求をインターネットでは満たし続けることができないと、我々は認めなければならない。
従ってインターネットに代わる新しいネットワーク、基本的な設計思想がまったく異なるシステムが20年以内に提唱されることになるだろう。
そして40年後にはおっさんになった今の若者が新入社員に「あれ、部長のパソコン、インターネットっすかーッ!?渋いっすねー!」みたいに云われる時代がくる。
これはたとえて云えば、最近までニフティサーブでBBSを楽しんでいたり、こっそりカナ入力をしていたおじさま方とまったく相似形の経験だ。
ではこのネットワークがインターネットと根本的に異なる点は何かと云えば、それは一言で「一意性の放棄」と表すことができる。
IPアドレスやDNSといったマクロな仕組みから、データベースの考え方のようなミクロな問題にいたるまで、インターネットは世界中のある一点を、厳密に、正確に指摘するための無数の機構が隙間なく連結して作られている。
たとえばあなたのメールアドレスは世界にふたつとない、あなただけのメールアドレスだ。
そしてあなたがいまネットに接続しているその場所を、世界でたったひとつ、厳密に割り出すための仕組みとしてIPアドレスが存在する(だからネットで犯罪予告をすると、それが匿名掲示板であったとしても、いずれあなたは逮捕される)。
当たり前のように思っているこの仕組みが、いかに贅沢なことか考えてみて欲しい。
あなたの名前がどれほど奇抜なものか私は知らないが、しかしこの世にふたつとないほど珍しいものだと云いきることができるだろうか?
もっと云えば、あなたのその顔でさえ、うりふたつの顔がこの世界中のどこにもないなどとは云い切れまい。
この国で1億以上、世界には60億の人、つまり「ノード」が存在しているのだから、名前も顔も、一意にあなたがあなたであることを証明するには足りないのが当たり前だ。
しかし他方インターネット上では、おそらく地球上の人口を遙かに上回る数のノードが接続しているはず(会社のPC、家のPC、携帯、スマホなど、あなた1人あたりが動員しているノードの数を数えてみてほしい)なのに、メールアドレスはあんなに短い文字列でもってあなたのPCを、世界中にあまたあるほかのPCから区別しているわけだ。
「インターネットってすごーい!」ではない。
すごくない。
かかっているカネがハンパではない割りに、この「一意性」というオプションはオーバースペックなのだ。
ではチュニジア人のメールアドレスとあなたのメールアドレスがたまたまカブっていて、チュニジアの彼宛のメールがあなたにも届いたとしよう。
現実問題として、あなたは何か困るだろうか?
あるいは日本語を解さないMr.チュニジアがあなた宛のメールを受信してしまって、何か困ることがあるだろうか。
リアルの世界ではこうしたことが日常的に発生している。
困ったときには「下の名前」を確認したり、身分証明書で住所まで確認したり、誕生日を訊いたり、たとえば郵便の場合にはそのまま本人には届かないまま開封され、捨てられてすらいるが、それはそれとして世界は回っているのである。
指紋だってときにはカブると云われるような世の中だ。誰も自分のことを世界で一意に定義できないし、しなければ生きていけないとは考えていない。
にもかかわらずインターネットは「今夜、東高円寺で飲まない?」とか「愛してる」とかいった程度のどうでもいいメールすら、「絶対に、間違った相手に届かないように」するための仕組みが用意され、日夜メンテナンスされ、さらにはそのために世界中のインターネット機器をIPv6に対応させようという無謀な試みまでが行われている。
これは恐ろしい無駄であるし、ネットワークがここからさらに角度のついたカーブを描いて拡大していくとしたら、そんな「ネット世界」を維持し続けることなど、どだい無理な相談というものだろう。
だからインターネットはやがて、「非常に正確だが、あまりにもコストのかかるシステム」として放棄される運命にある。
それに代わるのは、「そこまで正確ではないが、人間がそのなかで生活していく分にはさして不自由のないレベル」で世界を整理する新たなネットワーク・スキームだ。
つまり「Aさん宛のメッセージはAさん以外の人にも届く可能性があるが、少なくともAさんには届く」といったレベルの正確性と守秘性しかもたない、ゆるい情報インフラ(お気づきのように、これはeメールというよりはtwitterに近い。その意味でtwitterの有用性を巡る議論は興味深いものである)。
またデータベースひとつをとっても、同期性はクリティカルな問題ではない(そもそも物事は人によって見方が違うし、メールだってすぐ届いても一晩見ない人がいる)。
冗長性にも神経質になる必要はない。人間は忘れる生き物だし、だから人間社会はもともとそれを前提にいろいろちゃんとできているのだ。
いずれもないと困るという主張はあがりそうだが、少なくとも世界レベルで標準化されたシステムが、世界中の人々全員にそれを担保する必要はない。コストが見合わない。
守秘性だってヒステリックに要求する人はいるだろうが、そういう人に限って遺産分割の相談や別れ話を喫茶店で持ち出したりしているものであって、要するに冷静になって考えれば「知らない人に聞かれたくない話」というのはえてして「知らない人には聞かれても別に構わない話」とイコールなのである。
そんな程度の「内緒話」の守秘性を守るために莫大なコストをかけてインターネット全体のバージョンアップを繰り返していく必要など、さらさらない。
その昔、後輩のOが歌舞伎町の真ん中で寝込んでしまい、朝目覚めると何者かにバッグを丸々持ち去られていた。
財布も通帳も印鑑も保険証も、一夜にしてなにもかも失ったOは慌てて銀行の窓口に飛び込んで、口座の停止を依頼した。
行員はこう応じたという。
「ご本人を証明する書類を何もお持ちでない以上、あなたがあなたであることを確認できません」
結局何もできないまま悄然として帰ってきたOはひどく酒を飲み、こう云った。
「のりまき博士が手ぶらで歩いていても、道行く人がそれと分かって『のりまき先生、こんにちは』と声を掛けられる世界、自分が自分であることを証明する必要などない僕の『ペンギン村的な世界』が今日、崩れ去ったわけです」
これを聞いた私は感心した。
つまりOは酔いどれながらも「情報化社会」が人間に対し「一意に自分であること」を求める社会であると見抜いていたのである。
そんなことは不可能だし、人類が始まって以来そんなことが求められたことはただの一度もなかったのに、だ。
あの日Oを打ちのめした情報化社会は過剰に律儀なインターネットを時代の寵児に祭り上げた。
理論上それは誠に都合のいいシステムだったからだ。
しかし皮肉にも、世界中にあまねく広まったことそれ自体が、膨大なコストとなってインターネットと情報化社会そのものの首を絞め始めている。
解法は論理的に、ただひとつしかない。
人が文字列によって一意に定義される時代から脱けだすこと。
自分宛のメッセージとそうでないメッセージを自らよりわけることで、自律的に「自分であること」を定義し、確認するようになることである。
もしかしたら人違いかも知れないが、「まず間違いないだろう」という程度の正確さで「のりまき先生、こんにちは」と人が声を掛けあう世界を理想として、ネットワークの設計をやり直すことだ。
まだ誰も気付いていないインターネットの破綻と、その後にやってくる世界を私はここに「ペンギン村的な世界への回帰」として予言しておきたいと思う。
それから司法試験に数限りなく落ち続け、精神を病んでひきニートと化したOが、地上にふたたび現れた彼の「ペンギン村的な世界」で元気に野を駆ける姿を、強く願う。