新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

ブッダ・セイブズ・クイーン。

比叡山高校という高等学校の面接で「尊敬する人物は?」と尋ねられ「織田信長です」と答えた猛者がいたのだが、彼は落ちた。変な因縁やTPOのセンスをとがめられた末というよりは単に勉強不足というか知的センスに見込みなしとの判断をされたのだと思う。そもそも織田信長のどこが尊敬に値する人物なのかという国民的議論もいまだ残されたままだ。

*     *     *     *     *

とある弁護士に梅田のバーへ連れて行ってもらいダラダラとモヒートをすすりながら結論、仏教はイケてるということになった。

自転車は押して歩けば歩行者扱いなので道路交通法には抵触しないんですと云う弁護士は道路交通法以外の法律に抵触しそうなレベルで泥酔し、それでも自転車に支えられながら歩道を激しく蛇行して夜の闇へ消えた。

翌日は昼前より伯父である人が施主となっての法要である。

ちょっと見付からなかったが、どこかで「葬式はスキンヘッドの坊主がパーカッションを叩きながら『この世は終わってる』みたいなことを叫び続けるワンマンライブだ」というような指摘があった。まさに仏教というのは根本的にパンクであって、最近では海外でも仏教徒を名乗ることになんら矛盾を感じなくなった。あとはもう少し教義について学ばなければならない。

 

有名なミュージシャンのライブへ行くと客がボーカルと一緒になって歌うという現象が最高に邪魔だと愚痴るBと一緒に行ったシンディ・ローパーのライブでは客は歌うどころか最後列から「おい、グーニーズやれよ、グーニーズ!」などと甲子園球場みたいな野次を飛ばしており悪質であった。

法事と冠された本日のライブでも一定の齢を重ねたような方々は般若心経のイントロに入るや「ここぞ」とばかりに居ずまいを正して住職とハモるべくそろっと声を出すのだが、ああいうのは割と宗派や寺・体調などによってシンコペーションが変わってくるため基本参列者は飛び出したり遅れたりするうえさらに住職は自分のタイミングで息継ぎをするので今日も最後まで一度もユニゾンせずに終わった。

一方私が好きなのは4文字熟語みたいな漢字の羅列が延々続くのを1拍子の木魚にあわせて朗々と詠み上げるサイケデリックなタイプのナンバー。体調が悪い日などは特によい。

しかしいずれにせよ、葬儀を含み法事の類は雰囲気も厳かだし、ふだん顔を合わせることのない家族親戚との絆が否応なしに確かめられ、それをありがたく思う気持ちが湧いてきたりするので私は好きだ。キリスト教の赦しの体系というのも強烈だし勉強してみたいと思っているものの7回忌とか13回忌とかいう法事の習慣がないなら私にとり宗旨替えはノー、NGである。

*     *     *     *     *

たしかパーカッショニストの実家が東北の寺で「僕はブッダ押しです」とライブ(これは法事ではなくバンド活動としてのライブ)で話していたコロリダス。「チャチャチャは素晴らしい」では般若心経をフルコーラスで聴かせてくれたのが素晴らしかった。

 

チャチャチャは素晴らしい

チャチャチャは素晴らしい

  • コロリダス
  • J-Pop
  • ¥150

 

最近では般若心経の現代語訳を「若者言葉」(これやめてほしい)に「翻訳」してくれた人がいて未だに大反響だが、こういうのはもっとやった方がいい。キリスト教が教典をバンバン日本語へ翻訳しているのは真似しないといけない。「三宝を敬え」というのも、僧を敬うというのはもう社会の政治的安定性には関係がないので単に流行らないだろう。一般にわからないものを唱えられる人ではなくみんな知ってるスタンダードナンバーをやってくれるミュージシャンとして日常生活に広く受け容れられていくべきだ。寺に入らないか、寺に戻るまで一般の社会人として生活している若い方々にこうした役割を強く期待している。

現に法要が終わった食事の席では「意味はわからなくても経本を追っていると身につまされるところがあって、何をいっているのかちゃんと勉強しておかないといけないという心境になる、そういう歳になってきた」と伯父がしんみり話していたが、若輩ながら私も強く首肯するところである。

 


『般若心経 現代語訳』が超カッコイイ!!心の奥まで突き刺さる!!! | BuzzNews(バズニュース)

 

他方、私の実家の菩提寺に巣くう坊主は葬式仏教の権化みたいな男でミュージシャンの風上にもおけない。

たまに一杯気分で経を読みにきて四行ぐらい飛ばしたりしている。

先代もやばくて三年に一回ぐらい「永代供養」の更新を迫るというウイルスバスターみたいな人物だったが十年ぐらい前にアンインストールされた。

当代はそもそも説法が下手で、ひどいときは去年こちらが教えてやったことをしたり顔で垂れたりする恥ずかしいやつである。キリスト教の牧師が毎週信徒を前に聖書の一節を取り出して説法するのに比べると年に二回ぐらいしかこないやつらの怠慢ぶりは言語道断というほかない。

檀家は客ではないのだが、演者とオーディエンスとの間にはしかるべき信頼と緊張感というものがある。

墓のクラウド化まで秒読みに入ったいま、親族の反対を押し切ってこのへんの問題を問い直してみたい考えである。