新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

博士のまともな愛情、または私は如何にして心配するのをやめてベトナムを愛するようになったか。

過日、サイゴンにお住まいのさるやんごとなきお方によるFacebookのポストにおいてグレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」が紹介されていた。

おとなしいアメリカ人

おとなしいアメリカ人

 

日本人にとりグレアム・グリーンといえば何をさておきオーソン・ウェルズらのキャストによって映画化された「第三の男」の原作者ということになるが、小説家であったのは確かなことながら彼はその生涯において英国情報局に所属するスパイであり、ジャーナリストであって熱心なカトリック教徒であり、かつコミュニストでもあったことが知られる英国人だ(もっとも時期はかならずしも同時ではない)。

佐藤優は一般の読者がインテリジェンス活動(諜報活動)について知る際に適した本のひとつにグリーンの「ヒューマン・ファクター」を挙げているが、この作品をとっても単にスパイ小説というにはあまりに感情の描き出し方が見事であって、Wikipediaの「影響を与えたもの」にジョン・ル・カレの名が連なるのにも不思議はない。

 さてこの「おとなしいアメリカ人」、恥ずかしながら未読であって冒頭に触れたリコメンドに触発されkindleにて読んだ。

なおグレアム・グリーンの作品はハヤカワによりやたらとkindle化されており、ありがたい。

この夏は恒例の「ル・カレフェア」に代わりグレアム・グリーンと決め込みたいところだ。

やはりウイスキーとスパイ小説は英国産に限る。

 

ときは1950年代初頭のサイゴン

一人の無口でみずからの運命や幸せにはなんの関心も示さないかのような美しい「アンナン娘」のフォンを二人の異邦人が奪い合う。

一人は初老の域に達した、ベトナムに暮らすニヒルな英国の特派員、ファウラー。

サイゴンにやってきたばかりの若くて理想に燃える外交官は、アメリカ人のパイル。

ファウラーがそばに置くフォンに一目惚れしたパイルは、彼が不仲の妻をイギリスにもつ身でありながら若いフォンの身体をつかの間の慰みにしていると責め立てる。

自分なら真に愛のある生活をフォンに与えてやれる。彼女を幸せにしてやれるが、あなたにはそうする気もないではないかと。

だがベトナムに長く住む英国人のファウラーはこう答える。

俺は何ものにも捲き込まれるつもりはないし、フォンを捲き込もうとも、捲き込めるとも思わないと。

「でもフォンはあなたを愛してるじゃないの?」

「そういうのと違う。この国の人間には、もともとそれがないのだ。いまにきみにもわかるよ。彼らを子供と呼ぶのは陳腐な決まり文句だが、一つだけ、子供っぽいことがある。彼らは相手の親切や、生活の安定や、相手から貰った贈物の返礼に、相手を愛するんだー殴られたり、不正な目にあわされたりすると、相手を憎む。愛とはどういうものか、わからないのだーただある部屋へ入って行って、見ず知らずの人間を愛するということがね。年配の男には、これは非常に安心のゆくことだよ、パイルー彼女は幸福な家に住むかぎりは、家を逃げ出すことはない」

パイルはこの言葉を植民地主義者のエゴイズムが言わしめたものと受けとめ、フォンとベトナム人の未来は自由とデモクラシーが照らすべきだと熱っぽく語る。

ファウラーはこのアメリカ人の理想肌こそ彼らが招かれざる世界へ図々しくも踏み込んでいく動機であると見抜いており、苦々しく思うと同時にパイルの無礼なまでの無邪気さを憎みきれない。

フォンがパイルとの結婚を決めるまでは。

*     *     *     *     *

これはもちろん一遍のロマン小説ではあるが、お分かりの通りロマン小説を模した政治小説でもある。

長年にわたる植民地経営の結果として、西欧の価値観で世界を啓蒙することは不可能だという悟りの境地にいたり、ただそこにはプラグマティックな関係があればよいのであって相手の幸せなど想像するだに無意味なのだというニヒリズムにひたる老いた大英帝国のファウラー。

他方のパイルは第二次世界大戦勝利の立役者となり、自由とデモクラシーの旗印を掲げて国際社会へデビューしたての帝国・アメリカが世界中で強めていく関与・干渉的な外交政策を体現している。

どちらの国にとっても圧倒的に異国であるベトナムの娘・フォンを挟み、二人が繰り返す議論の主題はつまるところinvolvementだと読み解きたい。

involvementはすなわち、後へ引けない関わりをもつことを指し、男女関係をも暗示する言葉だ。

ファウラーの「捲き込まれたくない」という言葉は原書では don't want to be involved だと推察する。

 

大英帝国は伝統的に、アジアはおろかそもそも欧州大陸にすら基本的には「捲き込まれない」ことを旨とする外交政策をとってきた。

島国である地の利を活かし、海峡を挟んで向かい合う大陸にみずからを脅かす圧倒的な勢力が生まれないようバランスをとることにだけ心を砕く冷徹なリアリズムが国際社会における英国を定義する。

うえに引いたセリフのなかでイギリス人のファウラーは、ベトナム人は「愛とはどういうものか、わからないのだ」と述べるが、そのイギリス人も国際社会では愛とはまったく無縁の存在だ。

だからこそ、自分はフォンの世界に干渉することなく、フォンもまたファウラーが幸せかどうかを気にすることなく、二人は一緒にいることができるのだとファウラーはいうのである。

 

一方、パイルはこうしたファウラーのニヒリズムに我慢がならない。

彼の眼に映るフォンの姿は、アジアの民族に人並みの自由と権利を認めない植民地主義者に従属するベトナムそのものだ。

だがフォンを愛し、フォンに愛されたいと願うパイルの「愛」も「幸福」も欧州生まれの価値であってアメリカ人はそれを借りてきて口にしているだけに過ぎないということにパイルは気付かない。

「愛というのは、西洋の言葉だ」おれは言った。「われわれはセンティメンタルな理由でか、あるいは一人の女に対する執着を粉飾するために、この言葉を使うんだよ。この国の人間はそういう執念には悩まされない。パイル、気をつけないと、きみもケガをするぜ」

本書は政治小説であるがゆえにまったく触れようとしないがベトナム人はもちろんベトナム人を愛することができる。

この愛は男女の間にとどまらず家族や共同体に及ぶ、深くて豊かな営みだというのが私個人の考えだ。

だがこの愛は、太陽が自分の周りを回っているという壮大な誤解のもと石造りの塔から世界を睥睨するキリスト教徒が発明した人類普遍の愛とはまったく異質の愛であり、そういう意味で「愛というのは、西洋の言葉だ」というファウラーの表現は自分たち西欧人を相対化することに成功している。

この広大な相対性の河を西欧の「愛」が乗り越えることはできない。

ただそこにはプラグマティックな応報の期待に基づく関係を結ぶことができるだけだというのが、かつて七つの海を支配した大英帝国に生まれたファウラーの深い諦観だ。

この河を挟んでは、どちらも「捲き込むことも、捲き込まれることもできない」のである。

その一方で自分がスーツケースに詰めてもってきたばかりの「愛」が、どの国へ行ってもあまねく人を幸せにすると信じる無邪気さが「おとなしいアメリカ人」と彼の国をベトナム戦争の泥沼へと引きずり込んでゆく。

 

グレアム・グリーンが「おとなしいアメリカ人」の筆を起こした当時のベトナムはまだフランスが絶望的なインドシナ戦争を戦っていた頃で、ジュネーブ条約を経てアメリカがベトナムへの介入を本格化させるのはまだまだ先のことである。

にもかかわらず動機からして誰にとっても決して幸せな結果を生むはずのないアメリカの介入を正確に見抜き、その結末を暗示するグレアム・グリーンは(この作品が脱稿するのには1956年まで待たなければならなかったということを割り引いても)やはり正しくジャーナリストであったといえるだろう。

もっとも子供のごとき純真さでフォンを愛そうと求めたパイルはそのはるか前に、同じ純真さでもって大勢の命を奪ったあげくにダカオへと渡る橋の下で死体になって見付かるのだが。

 

ちなみにパイルが象徴を演じたアメリカの対インドシナ政策は本書にも一度だけその名が登場する時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスによって声高に提唱された「ドミノ理論」によって武装していたが、この理論こそは「地政学」と呼ばれる似非科学が生んだ史上最も醜悪なプロパガンダであったことを忘れてはならない。

ドミノ理論とはすなわち、共産化した中国の影響が周辺諸国(これが地政学地政学と呼ばれる所以である)に波及し、東南アジアはドミノ倒し的に共産化していくことになるであろうという政治学的モデルである。

今となってはこれがまるっきりの誤りであったことを我々の誰もが知っているが、当時のアメリカ政府はこの理論を信奉した。

独立戦争を戦うホーチミン中国共産党の後ろ楯を得て勢いを増し、ついにディエンビエンフーでフランス軍を降伏させるにいたり、ワシントンの怖れは確信に変わる。

ホーチミン共産主義者であり中国の手先であって、ベトナムホーチミンの手に落ちれば「西側」はインドシナから、そして東南アジアから駆逐され、地球の半分をコミュニストに支配されるというパラノイアに彼らは陥ったのである。

「彼らは、言われた通りのことを信じろと強制されるだろう。自分で物を考えることは許されなくなるんだ」 

民族には自決の権利がある。だがコミュニストになる権利はないというわけだ。

ベトナム人に自由を与えるといいながら、結局は自分たちの価値観を地上に敷衍させるという理想に資する限りにおいてそうするのだという、自家撞着というにも悪質に過ぎる独りよがりを、アメリカは7万余名の兵士の命をもって贖うことになる。

ここまでに命を失ったベトナム人は300万人ともいわれている。

しかし結果としてベトナムはどうなったかといえば、共産化はしたもののアメリカを追放したあとは中国との関係を悪化させ、ソ連に接近したかと思えば1986年にはソ連や中国に先駆けて共産主義の理想を大きく転換し、改革開放路線によって国家経済の発展を目指す「ドイモイ政策」を採択している。

ともすればイデオロギーに拘泥する西側(または東側)からすれば一見無節操にも思われるこうした移り変わりこそは、豊かで安定した人生を約束してくれる者が伴侶であればそれがいいのだと受け容れるフォンの冷然たるリアリズムに通底する。

つまるところホーチミンと彼の取り巻きはベトナムの独立と統一を願う民族主義者だったのであって、コミュニズム植民地主義者と戦うために選ばれた旗色に過ぎなかったと考えれば、何かを与えられている限りにおいてそこにいるというファウラーの「ベトナム人」像は正しくこのリアリズムを指摘しており、そこにはそもそも「愛」は無関係だったというだけの話である。

*     *     *     *     *

中国が欧米主導の「戦後レジーム」を打ち破るハシゴに手をかけたと世を騒がせているAIIB問題。

いまや無邪気さが大義名分に過ぎないことが白日の下にさらされて久しいアメリカは、それでもまた中国の悪意をもってAIIB憎しと叫び、あっさり敗れた。

ファウラーの英国はといえば中国に対してなんの脅威も感じていないものだから、血族ともいうべきアメリカを裏切り先進国では真っ先にAIIBへの参加を表明している。

英国は根本的に、中国が公正か、その意図が正義か否かについては興味がないのだ。

外交コンプレックスの強い日本ではこれが「敗北か、否か」というメンツの話がいまだに盛んだが、日本はアメリカの「自由と民主主義」の金看板に帰依しているのだからそもそも選択肢は「参加拒否」しかありえない。

ではフォンのベトナムはといえば、これはもう「おとなしいアメリカ人」を読んだあとなら目をつぶっていても分かる通り、ベトナムは中国とは領土紛争を抱えながらもAIIB創設メンバーとしての参加である。

だがアメリカと二人、新しい世界で孤立するのではないかとか、せっかく関係構築を進めていた東南アジアからもこれで阻害されるのではないかとか、日本が恐れおののく必要はない。

そもそも初めからそこに愛はないのであって、与える者と与えられる者があっただけなのだと考えれば気は楽になるだろう。

「心配なさらない方がいいわ。何とかなるわ。どんなときでも、きっと何か方法があるものよ」彼女は言った。「姉が言っていたわ、生命保険に入る方法もあるって」それを聞いて、金銭の重要性を過少に見ず、大げさな、後でひっこみのつかない愛の告白をしようとしない現実主義(リアリズム)に、おれは感心した。 

我々「おとなしい日本人」が愛への幻想から目覚め、リアリズムに生きる日はくるのだろうか。

あるいは理想がときにリアリズムよりも危険であるということを、我々が顔をあわせて頷きあい、理解できる日はくるのだろうか。

 

週刊ダイヤモンドが横面を張り飛ばしてやりたくなるような特集を組んだ。

地政学で読み解く覇権争いの衝撃」。

地政学は誰とどのように戦争をするかに関する似非科学であって、戦争に勝つための教則ではない。

日本人が目覚めるべきはリアリズムなのだ。

それも「愛は世界を救わない」という程度の、ちょっとしたそれでいいのだが。