新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

日記のフレームワーク、人生は科学だという件。

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さて東京でいえば青山通りをミニチュア化したようなと云われるニューベリー・ストリート、その西の外れ近くにたたずむ和食居酒屋・Itadaki Bostonがアニバーサリーを迎えようという日、私は通りの向かいにあるボロアパートで土曜日の朝を迎えている。

「ボストンで何してるんですか?」と飽かずに尋ねてくる人というのは結構いて、気持ちはわからんでもないがよくよく数えているともう既に3回は同じことを訊いている人もいるので僕の答えがよほど要領を得ないのであろうと腹立ちまぎれに反省することしきりである。

弊ブログはインターネットのとどく限りあまねく世界中のひとに対して開かれているが、残念ながら世界の多くはいまだ私にとって不可視だ。

したがってごく卑小な集団だということを認めざるを得ないが少なくともサイゴンの仲間たちにはイメージしやすくお伝えすると、ボストンにおける私の生活は「駐妻」のそれに似ている。

なお私は駐妻を保有する知人に恵まれず、また自身駐妻であるという者も周りにはいないため駐妻も結局のところイメージに過ぎないが、抽象概念を扱うことは高度に発達した言語を操る生命体の特権である。

※職業・性別に拠らず発言小町は医師に相談のうえ用量・用法をよく守って閲覧のこと。

 

ATOKで「サイゴン」と入力すると「≪地名変更『→ホーチミン』≫」と表示されるサイゴン

もう何年もの間、毎回出てくるこの「≪地名変更『→ホーチミン』≫」という指摘をみるたび、私がFacebookに何かポストしたら知人でもないのにどこからか湧いてきて、反対意見を述べて消えていくおっさんどものことを思い出して心が温かくなる。

あのおっさんども、幼い頃からこの先死ぬまで、ずっとモブとして生きていくことを運命づけられた人たちなのだろう。そろそろ次のアップデートで消えてもらいたい。きっと彼らの家族もそう望んでいる。

 

そのサイゴン(≪地名変更「→ホーチミン」≫)とボストンとの時差は夏時間で11時間。

わかりやすく昼夜が真反対、ラーメンに例えれば「天地返し」、食後なら「伏せ丼」といったところだ。

「時差ボケ」というが、米国の場合この時差ボケが日本人にとり一番厳しいのは西海岸だということでたいていの方とは意見が一致をみる。

ロサンゼルスあたりでぼーっと鮨みたいなゴミを食っていると、だいたい夕方の4時ぐらいに抗いがたい眠気がやってくる。

旅人の哀しいところで、「ちょっと休憩」とこのままホテルで寝てしまうわけだが、そうすると次に起きるのは夜中の2時を回った頃で、楽しみだった飲み会も私のいないまま既にバラシとなっている。そのくせ頭ははっきりと冴えているので次はまた夕方4時になるまで寝られない。

一方、アメリカ東部時間(ET)の時計はロサンゼルスからさらに3時間進んでいる。

だからロサンゼルスの夕方4時にボストンは夜の7時だ。

ピチカートファイブはこれからオシャレして遊びに行く時間だが、私の年齢だと、眠たければ寝ちゃっても仕方ない時間なのである。

粘って9時。起きると朝6時。

頭はすっきりと醒めている。

※ おシャレな人々の夜7時のイメージ。この時間、最近の私は風呂に入ってパジャマで歯を磨いている。

起きると私はまずアジアのマーケットがどうなったかをチェックしたあと、東京やホーチミンシティからきているいくつかの問い合わせに答え(なぜならこの時間ならまだどちらも動いている可能性があるから)、8時になると朝食の仕度を始める。

仕度ができると学校へ行かねばならぬ妻を起こし、食事を終えて彼女を送り出す。

これが9時。

そしてここからが重要なのだが、洗い物を済ませた私はそれから11時まで窓際のデスクに拡げたラップトップ(つまりデスクトップだが)を前にふたたび仕事をする。これはだいたい先ほどと同じ、東京やホーチミンシティへの応答だ。

11時になると部屋着を着替えて(あるいは寝間着にしているTシャツのまま。なんといってもここはアメリカだ。練馬的なところなのだ)歩いて5分のところにあるスポーツジムへジョギングに行く。

この順番は重要だ。

なぜなら食事した直後の1時間ほどは血糖値があがっており、運動したとしても消費されるのはこの血中の糖分であって、溜め込んだ脂肪はビタイチ燃焼しないと聞いたからだ。

だから私は朝食後2時間を仕事に充て、昼食までの1時間半を運動に充てる。

トレッドミルの上で不毛な無限軌道SSXを走りながら私はCNNを見る。

これが私の学習時間だ。

*     *     *     *     *

普段周囲の人をうまく欺いてはいるが、実際のところ私は英語があまりできない。

西暦2000年に初めて受験したTOEICのスコアが965だったというのは本当だ。

だがそれは英語力ではなくマークテストスキルの勝利にすぎない。

これは誇張ではなく、リスニングなど音声を聴かずにマークしても7割くらい得点できただろうと思う。

設問にかかわらず、回答者を貶めようという出題者の歪んだ意図を反映した選択肢ははっきりと「臭う」のだ。

受験戦争の勝者が手にするものは軽度の鬱とこの手のスキルだけだと警告させてもらう。

*     *     *     *     *

ところで唐突だが、人生は科学だ(ただし次のエントリではまた違うことを云う予定)。

脳はロジカルにしか働かず、身体はフィジカルやケミカルの影響を受けて変化するが、それらはすべて「AならばB」といった論理的結合の連鎖であって、初めてピアノに座った瞬間からモーツァルトを弾きこなす奴も、歳を重ねるごとに髪が濃くなってくる奴もこの世には存在しない。

たしかに感情は神秘だ。だがそれは我々には自分で感情を働かせることも、コントロールすることもできないことを意味する。

だから、脳のチューリング完全性を保ち、シンプルな計算を無数に積み上げてすべての問題を(いつかは)解決できる状態を保つことと、身体のフィジカルな強度(筋力と骨密度)、ケミカルな健全性(食事と新陳代謝)を維持すること以外に、我々が自分の人生をコントロールする手段はない。

感情はその結果として生まれてきて人生のすべてを決するが、我々はそれを直接支配することができないのだ。

だから言語としての英語を扱うときチューリング完全に機能しない私が米国のそこここで繰り返される凄惨な日常を英語で聴くことに慣れながら同時に身体を鍛える時間は私の人生にとって最大限に前進的ななひとときだと云える(ただしトレッドミル上の私は物理的には前進していないか、せいぜい速度0の等速直線運動下にあるにすぎない)。

ジムを出た私は帰り道に2軒ある意識の高い小さな食料品店で買い物をして帰宅する。

政治家の遵法意識ほどにも浅いバスタブに湯を張りながら部屋にクイックルワイパー的なものをひとかけし、風呂に入ったら昼飯を作って食べ、それからここが非常に重要なのだが、14時頃のこのときから4時間ばかり私は仕事をする。

この頃日本ではTwitterも静まり返る深夜だから、いきおい私の仕事は少しまとまった馬力と集中力を要するものか、または東京やホーチミンシティに対する私からの発信になる。

ひと段落つけると18時。

炊飯器のスイッチを入れ、夕食の支度をしていると妻が帰ってくる(リハやレコーディングの手伝いで帰ってこないこともある)。

ボストンは夜の7時。

食事を終えると洗い物は妻に任せて、布団に入ると夢を見ない深い眠りに就く。

なぜなら私は時差ボケだからだ。

ここまで話して、まだ「ボストンで何してるんですか?」と尋ねてくるひとがいたら、私はきっと自分を抑えることができないと思う。

*     *     *     *     *

人生は科学だ。

何から手をつけてよいのかわからない人に、アドバイスとしてこれを伝えたかっただけだ。

初めに意味があるわけじゃない。

やる気があるわけでもない。

ひとつひとつ、Yes/No、Yes/No......という計算を根気よく積み重ね、毎日決まった運動を繰り返す。

そのうち習慣がやがてやる気や根気だと(自分にさえ)誤解され、意味が生まれてやっと何らかの結果がもたらされるのだ。

あまり自分を高尚な存在だと思い込まないことだと、迷える人にはそう云っておく。

キミも私も、無数の変数が作用しあう場に生じる現象に過ぎないのだ。

人生を変えたいなら、何も考えずに変数をひとつずつインクリメントしていけ。

「i++、i++.....」と毎日毎日繰り返せ。

それ以外にいまある日常を変える道はない。それを否定するのは何百年にもわたる細胞生物学の歴史を愚弄しているというものだ。

そしてもし、自分を励ます必要に駆られたら、実験ノートをつけろ。

それがいつの日か、キミが過去の自分を乗り越えた証拠になるだろう。

捏造の科学者 STAP細胞事件 (文春e-book)

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