ヒトラーは、どのようにして政権を手に入れたかについての典型的な誤りは、「熱狂的な大衆に支持され、普通選挙で勝利した」というものだ。
以下のエピソードが世界的に問題化したことも記憶に新しい。
二〇一三年七月、麻生太郎元首相が、ヒトラーは一九三三年一月に「選挙で選ばれた」結果首相になった、また共和国憲法は誰も気づかないうちにナチ憲法に取って代わったという趣旨の発言をした。
「独裁者は30日で生まれた ヒトラー政権誕生の真相」訳者あとがき
だが、実際にはそうではない。
ヒトラーの率いるナチ党は、反ユダヤ主義的綱領や、共和主義と憲法の破壊を宣言するヒトラーの「我が闘争」、野蛮で暴力的な半軍事組織である突撃隊などが左右を問わず多くのドイツ国民から嫌われており、危険視される存在であった。
また党自体も、あいつぐ国政選挙のために財政が逼迫、資金調達の途は絶たれ、組織は末端から崩壊の途上にあったという。
そのうえ、1932年11月におこなわれた国政選挙では、前回選挙での支持を失い、議席を全体の3分の1以下にまで減少させている。これはヒトラーが首相に就任する、わずか2ヶ月前である。
圧倒的な党勢のもとに政権を奪取し、憲法改正に突き進んだというのは歴史的事実に照らし、謝った認識だといわなければならない。
本年5冊目の読了は「独裁者は30日で生まれた ヒトラー政権誕生の真相」(H・A・ターナー・ジュニア/白水社)。
怪しいものではない。フルブライト奨学生としてアメリカからドイツへ留学し、プリンストン大学でPh.D.を取得、イェール大学で教鞭をとった現代ドイツ史家による1996年の論文だ。
ヒトラーとナチ党の台頭は、莫大な戦後賠償と非武装化を含む屈辱的なベルサイユ条約にくわえ、経済を襲ったハイパーインフレと大恐慌により民衆の不満と民族意識が高まったことによると一般的には解釈されている。
これらは必要条件ではあるが、十分条件ではないと筆者は説く。
このような決定論的解釈は、ともすれば「ヒトラーは歴史の必然であった」という結論を導くことになる。これはヒトラーを免罪することこそなくても、無能な政治家達による多くの失敗、ひいては国民の責任問題を覆い隠すことになる。
ヒトラーは決して避けがたい災厄であったわけではない。
当時のヨーロッパ、特にドイツに多くの選択肢があったわけでないのは確かだ。シュライヒャーのクーデターによる軍事政権の方が、まだ少なく悪だったという著者の主張にも簡単には頷けない。
しかし、それでも数名の政治家が政治的資質によりすぐれていれば、共和主義的政党が日和見に甘んじなければ、国民を含む彼らすべてが「我が闘争」にあからさまなヒトラーの世界観を理解していれば、彼と彼の政党を政権から遠ざけておくことは充分に可能であったことを、著者は記録と証言によって論証していく。
一九三三年一月一日、苦境に立たされていたドイツ・ヴァイマール共和国の擁護者たちから安堵と歓喜の合唱が起こった。この若い国家は三年のあいだ反民主主義諸勢力の激しい攻勢にさらされてきたが、とりわけ最大かつ最強の脅威となっていた勢力が、アドルフ・ヒトラーの民族社会主義ドイツ労働者党だった。しかし、その時流もいまや変化したように思われた。有力なフランクフルト新聞の社説は「民主的国家に対するナチ党の強烈な攻撃は撃退された」と宣言し、由緒あるベルリンの日刊紙、フォス新聞の主筆は「共和国は救われた」と謳い上げた。十四年前の共和国の成立にあたって重責を担った社会民主党の機関紙、前進は、その論説の見出しを「ヒトラーの台頭と没落」とした。ケルンで重きをなすカトリック系のケルン国民新聞は、一年前に同紙が予測した「ヒトラーが権力に達することは決してないだろう」という当時は大胆に思われた見解もいまでは陳腐なものになったと指摘した。自分の生きた時代について、将来の孫たちに何を語るべきか思いをめぐらせたある作家は、ベルリン日刊新聞にこう語った。「世界中どこでもある男の話でもちきりだった。その男の名前?そうアダルベルト・ヒトラーとかいったかな。で、その後その男はどうなったって?姿を消してしまったよ!」
それから一ヶ月もしないうちに、ヒトラーが合法的にドイツ首相に就任したということを考えれば、これら共和主義者たちの楽観的な見解は、いまから振り返ると集団妄想のように思われる。しかし、それ以前の出来事を検証して見ると、ナチズムの敵対者たちの期待が、当時は決して根拠のないものではなかったことが判明するのだ。
本書はタイトルの通り、1933年1月のたった30日間にごく限られた数名の政治家達によって繰り広げられた、極めて政治的な、つまり純然たる権力闘争のプロセスを描き出し、そのなかでひとりだけ完全に非妥協的な「一か八かの戦術」に頼ったヒトラーが、1月30日、ついに首相の座に就いたメカニズムを明らかにしている。
そもそもは、社会状況を反映して多数派を形成できなくなった議会が大統領の専横を許したという、ワイマール憲法上の欠陥にことの発端があったというべきなのだろうと思う。
だがそれにしても、自分を首相の座から追い落とした友人に復讐し、ふたたび権力を手にしようと執念を燃やすフランツ・フォン・パーペンの節操のなさには愕然とさせられる。
かつてこのパーペンが首相に就任した際の反応を、フランス大使アンドレ・フランソワ=ポンセは以下のように回想録につづったという。
「誰も信じようとはしなかった。ニュースが事実であると確認されると、誰もが大笑いするかこっそり笑った」。直接パーペンを知る大使は彼のことを印象的に描いている。「特徴的なのは、彼は敵からも見方からも、その言動が全く真面目に受け取られることがないということである。彼の顔は、自分では決して拭い去れない、骨の髄まで染み込んだ軽薄さを示している。その他の点に関しては、彼は第一級の人格者ではない。・・・・・・見かけ倒しで、人の仲をさき、裏切りやすく、野心的で虚栄心が強くて、ずる賢く、ややもすれば陰謀にふけりがちな人物と考えられている。誰もが認める資質ー本人は気づいていないーは図々しさと厚かましさ、それも愛すべき厚かましさである。彼は、敢えて危険な事業を企ててはならない人間のひとりである。というのも、そうした人間はあらゆる挑戦を受けて立ち、賭に出るからである。成功すれば歓喜の涙を流し、失敗すればくるりと背を向けて逃げ出す」。
これがのちに人類最大の悲劇へと発展するヒトラー政権誕生にあたり、助産師の役割を果たしたと本書で一貫して述べられる人物の姿である。
狡猾なだけで一切の大局観をもたないこの小人物は、その狡猾さゆえ、利用しようとしたヒトラーにより逆に要求を徐々にのまされ、最終的には自身の保護者であったヒンデンブルク大統領をも欺き、憲法違反の疑いが濃い手続きのもとにヒトラーを首相に就任させたのだ。
また、パーペンの口車にのり、入閣と引き替えに自党によるヒトラー政権支持を約束したアルフレード・フーゲンベルクは、その
わずか一日後、友人にこう語ったと言われる。「私は昨日、人生最大の愚行を犯してしまった。史上最大の扇動家と同盟を結んでしまった」
このように、悪趣味なコメディの登場人物のように滑稽で愚かしい政治家達が、社会にとってもっとも大きな危険は何かを顧みることなく、虚言と駆け引きによる権力闘争を続けるうちに、いつしかヒトラーがもっとも優位なポジションに立っていたというのが本書の筋立てだ。
ではおそらくそうだとして、国民の立場から何を考えていくべきかということを読後感として挙げれば、
「行政と立法(と、司法)のチェック・アンド・バランスが正しく機能していることを確認し、機能していないときには声をあげ、行動を起こすこと」
「言論の自由に対する制限を、全面的に退けること」(選挙妨害を通じた権力の独占に繋がるため)
「非常大権のように、国民の権利を全面的に制限する条項が憲法に盛りこまれるのを妨げること」
と、結局は「原理主義的民主主義」の正道を守っていくことしかない。
ただ、選挙民として政治家をみるとき、その本質を見抜く目を養うために、本書を通してヒトラー政権誕生の歴史を振り返ることの意義は大きいかもしれない。