ご質問をいただいている。
ネットというところは甘くない。
こんな質問に答えてしまったら、それこそはまさに私の「柔らかい脇腹」ともいうべき自分の文章への自信とこだわり、羞恥と欲求がまるで露わになってしまい、日夜職場と家庭の板挟みになってストレスを抱えたり、あるいはそのどちらもないことでストレスを抱えたりしている各方面のアカウントによって曝され、嘲笑の的になってしまう。
だがそもそも何年も前、アメブロという恐ろしいところでこのブログを始めてからずっと、そんなことは覚悟していたはずだ。
嗤われて書けなくなったなら、それはそれでグッドバイだ。大人ブロイラーへ行こう。
そういう気持ちでお答えすることにした。
なおリンクはすべてアフィリエイトだ。押して構わない。
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いつもネットでは大変お世話になっております。
いくら文章をうまく書けても作家にはなれないと気付いたのは大学一年生のときで、このときまで僕にとり自分がやがて作家になることは自明でした。
しかし文章を書けるだけでは作家になるのに十分とはいえず、さらにはどうみても文章が書けないにもかかわらず作家をやっている者までいるに及んでは、もはや文章を書けることとと作家になることとは無関係であると認めざるを得ず、物心ついて以来の夢が幻であったことを知った僕は親を恨み、身を儚んで大学を休んで就職活動に失敗し、気がつくとサーバールームでマシンのメンテにあたっていました。
その話については以下のエントリーをご確認ください。
ところで作家になるとはどういうことなのでしょうか。
実はこの問いはひっかけ問題で、本来答えるべきは「僕は何のために作家になりたいか」に他なりません。
幼い日に物書きを夢見たとき、僕にとり作家とはそれを仕事にして食っていく職業でした。
しかし、そうはなれないと悟ったとき僕の手をすり抜けていった作家の肖像は「語るべき物語のあるひと」でした。
つまり僕にはそれがなかった。自分のどこをどうひねっても、人の心を動かすような物語は生まれてこなかったのです。
本だけはひと一倍読んできたという僕のプライドは、自分の書いた叙情詩のような散文を「悪くない」と自賛して慰めることすら許しませんでした。
自分の心が物語を返してこないという問題につき、いったん絶望を経験した僕はそれから迂遠な手に出ることになります。
物語が生まれてくるまで、人とは違う道を行き、人とは違うものを見る。そうしてやがて語るべき物語が自然と口をついて出てくるときまで待とうと僕は決めたのです。
ところが結果からいえば、これはうまく実を結びませんでした。
おかげで良くも悪くも稀有な道を歩んできたとは思いますし、いまだに人生が退屈だとか先が見えたとか思ったことはありません。
わざわざ「何か起こりそうな方、起こりそうな方」を選びつづけて生きてきた結果、「何か起こりそうな状態」に妙に鼻が利くようになってしまい、これが案外カネになるという余禄も少しはありました。しかしそれでも僕のなかから物語があふれ出すということだけは今日までついになかったのです。
いまでも僕が何かを語るとき、それは常に誰かの権利をささやかに侵害しながら明かされる昔話にすぎません。
それがどんなに痛快なエピソードだとしても、たとえば大自然の作り出した光景を素人が写真に収めたようなもので、僕の手がキャンバスに描き出す作品とはまったく異質のものです。
つまり僕は、同じ夢に二度敗れたというべきなのでしょう。
三度目に敗れた話はまだできません。
いまやっているところだからです。
いまや僕にとっての作家は「文章で人の心を動かすひと」というところまでシェイプアップされました。
物語を通して、僕は自分の文章が人の心を動かすところが見たかった、結局はそのパワーにずっと憧れてきたのだというのが内省の行き着いた先でした。
これはジェダイかシスかでいえばシスなのですが、ハリウッド映画と違い、人生において正義はやや多面的です。あまり上品でも優雅でもありませんが、そんなことをやっている間に世はまさにインターネット時代。こうしてブログを更新すれば多くの人の目に触れるチャンスを得られるようになりました。
得物がなければ素手しかない。
カネになんかならなくたっていい。物語がなくてもいい。本当だって嘘だって、これでしか手に入らないものがあるのだから。
「汚れた血」を撮ったレオス・カラックスは「あなたにとって良い映画とは」とインタビュアーに問われ、こう答えたといいます。
「終わったあとで、もう少し観ていたかったと思うようなそれ」
僕にとって、人の心を動かすというのはこういうことです。
ご質問にお答えします。
中学生、高校生という多感な年齢を通して村上春樹の影響を受けたことをまず告白しなければなりません。
地下鉄サリン事件を境に村上春樹の書くものが僕の心に触れることはなくなりましたが、「平易な文章にできること」に目を開かされた恩は簡単に返せるものではありません。
僕はふだんあまり関西弁を使いませんが、怒りや悲しみや愛情を本心から相手に伝えようというとき(いわば自分の心臓を差し出そうというとき)、関西弁でなければうまくできないことに比較的最近になって気付きました。
以来文章を書くときには、言葉遣いが標準語であっても関西弁で読むべきリズムで書くことがしばしばあります。もしかしたら関西の方にはお気付きいただくことがあるのかもしれません。
「関西弁を標準語で書く」という書き方は、中島らもと町田康の作品から学びました。
関西弁の音楽的な表現力は、文字からは読み取れませんが声に出すことで立ち上がるという呪術的な要素をもっていて、恫喝などにも適しているといわれています。
映画に対する不遜な振る舞いを取り締まる自称映画狂人・蓮實重彦ほど文章に対して不遜な人間はいません。
余りに傲岸な態度、読むことを拒絶するような長文、辛辣というには直截にすぎる諧謔、そしてペダンチズムの悪癖。そのすべてが文章のもつ陰湿な凶暴性を、バロウズやピンチョンとは異なる方向へ示しており、彼の文章を原文で読めることは日本に生まれたちょっとした特典のひとつではないかと思います。
この人は学者でも批評家でもなく作家ですし、それ以外ではあってはいけないというのが僕の考えです。
最後にどうしてもお伝えしておかなければならないのは、翻訳文学に対する僕の偏愛です。
日本は世界中の作品を自国の言葉で読むことのできる稀有な国です。
この翻訳文化のおかげか、この国では作家よりも遥かに文章のうまい翻訳者が無数に存在します。
文章が書けなくても作家になれるとしたら、文章が書けなくてはなれないのが翻訳者でしょうから、これは当然といえるのかもしれません。
とまれ、幼い頃から翻訳者の手になる海外の作品に触れてきた僕は、いまも日本人の書いた小説をあまり読みません。
けれども翻訳者というのは奥ゆかしい存在で、心に残る名訳を果たしながら、その栄誉は作者にそっと譲ってあとがきとともに消えていくものです。
そこで名前はなかなか出てこないものなのですが、僕の大好きなジョン・ル・カレの作品を多数日本へ紹介している村上博基の名前を挙げておきたいと思います。
「餌」はル・カレの作品ではありませんが、だからこそ、ル・カレ作品に通じる地を這うような暗い筆致が村上訳に多くを負っていることに気付かされる貴重な資料です。
ご覧の通り、僕自身にとり大切なテーマでしたので長くなりました。
本来もっと時間をかけて考えてみたいところですが、回答があまり遅くなってもいけませんので、いったんこちらをもってお答えとさせていただきます。
ご質問ありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いを申し上げます。
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こうして私はリハビリをしている。
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