新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

流血、マリファナ、明日の翼/歳をとるとひとは

かつてこの街に端を発した騒擾は、流血を経てひとつの国を興すに至る。
人類史上初めて国際社会に倫理を訴えた若き理想家のごときこの国は、二世紀あまり後のいま、振り上げた拳の降ろし方に戸惑う白髪交じりの壮年になった。

太平洋から始まった道程は、大西洋を望む「はじまりの場所」で折り返す。
アメリカとは何なのかをずっと考え続けているけれど、あまりに大き過ぎてよくわからないというのが正直な感想だ
しかしそれが案外、答えに近いのかもしれないという気がする。

エンド・オブ・ザ・ロード
ボストン到着。

二〇一二年八月八日 

f:id:boiled-pasta:20181229064312j:plain

筋を通すとか区切りを付けるとかいうことではなく、単にセンチメンタルなのであの日と同じホテルに泊まっている。「あの日」というのはまだボストンに暮らすとは思ってもいなかった夏、初めてこの街を訪れた日のことだ。部屋はあいかわらず広めだが窓からの眺めはあまりよくない。いずれにせよいまの僕にはもうめずらしくもない眺めだ。それがあのときとは違う。

四年も住めばこの街も、もっと見慣れたものになると思っていた。ところが帰国を二日後に控えたいまもこの街は、どこへ行けば何があると少し分かった程度でまったく親しみが感じられないままだ。ただ、どんな環境であれそこを去るときには感じるだろう寂しさが少しあるだけ。それは長い懲役を終えたひとがバスを待つあいだに感じる不安のようなものかもしれない。あるいは映画のセットやテーマパークのなかで数年間を過ごしたような気がしている。セリフはすべて台本に書かれていた、というような感じ。

この街で暮らした長い時間は東京へ帰ればすぐに断片的な思い出に変わってしまうだろう。

サイゴンを去るときの焦がれるような思いや、香港に匿われているときの安心感にあたるものはまるでない。ひとつだけ例外があるが、それについては触れない。

*     *     *     *     *

妻がFacebookで「譲ります」としていた家具が駐在員とおぼしき日本人のご家庭にもらわれていく。車でアパートまでいらっしゃったお子さん連れのご夫婦は丁寧で、しかし気さくな雰囲気をお持ちの方々で感じがよかった。世の中にはきっとこういうひとたちがたくさんいて、誰の事も傷付けることなく、ときに不幸な悲しみを受け止めながらそれを乗り越え生活をしている。一面、それが「生きる」ということなのだろう。

「高いものじゃないんですけど組み立てるのが大変なので、お父さんはラッキーですよ。捨てるには忍びなかったので引き取っていただけてよかったです」

僕は素面で二分間、完全に社交的になることができる。

小雨の中であわただしく車に家具を詰め込むその間は一分三〇秒、みじかい間ながらあちらも僕のことを好もしく思ってくれたことが分かった。

御礼にとちょっとしたお菓子の詰まった紙袋をいただき、ボストンでもこんなひとたちと仲良くなれたらまた違った日々を送れたかもしれない、とふと思った。

実際には酒を飲まねばひとと向き合うことができず、飲めばまずひとの悪口を云いはじめて、次に金の話をし、最後に猟奇的と云っていいレベルで相手の内面に立ち入ろうとする僕は所詮、ああしたひとたちの相手にはならない。「ボストンでも」というが、どこでだってそんなひとたちと仲良くなれたためしはないのだ。

僕はゴルフもガーデニングもやらないし、楽器もできない。家に「家庭の医学」はないし車も運転しない。晩飯は作っても一品か二品だし、年賀状を出さない。そもそも新卒でまともな就職をせず、有給申請の仕方も知らないし、厚生年金も積み立てていない。名刺は受け取った日にシュレッダーにかけている。

夢は夢のままでいい。

*     *     *     *     *

クリスマスが過ぎるとボストンはゴーストタウンになる。

ゴーストタウンは云いすぎだとしてもクリスマス当日はまさに終日そんな感じで電車も二両で来るし、そのあと年末まではもうずっとガラガラだ。

つまるところボストンに実家のある生粋のボストニアンというのはそれほど多くないということなのだろう。そしてそうでもなければボストンはクリスマスを過ごすのに格好の街とは云えないのだ。同じシベリアでもニューヨークとは違う。

しかし年が明けてニューイングランドの悪名高い冬が本番になった頃、学生たちが街に帰ってくる。キッズたちが帰ってくるのだ。西海岸の陽に焼けたり、ママのコーンブレッドで高校生の頃のふっくらした顔立ちを取り戻したり、田舎の友達に都会の風を吹かせたあとでくじけそうだった心を少し立て直して帰ってくるのだ。

そしてアパートの廊下にはただちにマリファナの匂いが充満する。

アパートの規約にはずっと「館内での喫煙(smoking cigarettes)は全面的に禁止します」と書かれてあったが、マリファナはそもそも違法だから特に禁止されていなかった。それでキッズたちが街に帰ってくると即座に廊下はマリファナの匂いでいっぱいになった。たまに火災報知器が鳴って住人たちは厳寒の戸外へと叩き出されるが、鳴らした部屋だけは窓から外を見てゲラゲラ笑いながらパーティーを続けていた。

のちにトランプが大統領に選ばれたのと同じ投票でマリファナが合法化されると、アパートの規約は「館内ではそれが何であれ吸うことを禁止します」と書き換えられたが、もはや合法になったマリファナの吸引を止めることは誰にもできなかった。

「建国以来アメリカはひとつの投機であった」、つまりそれは、アメリカはアメリカという社会実験をやっているということに他ならない。偉大だが真に受けてはいけないということだ。

それから愛と平和を謳う連中は往々にしてルールを守らない。勉強もあまりできないし、やがて生まれてくる子どもはマリリン・マンソンを聴いたりするようになるだろう。

*     *     *     *     *

まだ寒さの忍び寄るには間のある九月の朝にアパートを出ると、歩道に出されたゴミ袋を避けながら公園の方へ、駅の方へと歩いていく。

どう見ても土地の者ではないプッシー・ライオットみたいな女が二人、ひどい夜を過ごした様子で道端の石段に腰を掛けタバコをふかしていた。

何を思ったのか汚い袋を背負ったホームレスが紙幣を一枚差し出してそれに近づいていくと、真っ赤な髪をしたプッシーが不機嫌そうに受け取ってポケットへねじ込み、ライオットが「どこかへ失せろ」としゃがれた声で怒鳴った。

年末には東京へ引き揚げると決まった夏の終わりに移り住んだこのあたりはボストンの繁華街(ダウンタウン)にあたる。繁華街と云っても錦糸町の五パーセントぐらいしか華やかさはない。

帰国も近いから家具付きのサービスアパートへ入ったのだが、サービスアパートといっても実際にはホテル同様に数泊程度の観光客や出張者ばかりがやってきて泊まっていく。そして特にサービスはない。短期滞在者が多いので勝手が分からず、火災報知器を鳴らす奴が毎週いる。昼も、夜もだ。「おいおい大丈夫かよ」という様子でエントランスに集まる人びとのなかで、我々だけが黙り込んでいる。毎週やっているのだから大丈夫なのだ。

*     *     *     *     *

冬のある夕暮れ、クリスマスの用意をしようとアパートを出ると、向かいに立ち並んだ古ぼけたビルの隙間に小さな抜け道が口を開けているのを見つけた。

抜け道はどうやら目指す店のちょうど前に通じていると見えたが、どうして突然開放されたのかは分からない。おそるおそる足を踏み入れるとそこは小さなトンネルになっていて、裸電球で照らされた壁と天井には一面に極彩色のペイントが施されてあった。

子どもだったらこのトンネルを抜けるころ世界が一変していると想像してもおかしくない、そんな意匠はまさに子どもたちへの街からのクリスマスプレゼントなのだと理解したころ、開かれた鉄扉から向こう側へ抜けるとそこでは黒人が何かを売っており、いまではたまに買った方の奴が這いつくばって自分の唾液を眺めていることもある。当然デコ助がそのどちらかを手荒く締め上げているのを見ることもできる。

統計的にいえば、ボストンで堅気の人間が暴力に遭遇することは滅多にない。

だがアメリカでもっとも古い街のひとつであるボストンには、人類発祥の名残ともいえる暴力の痕跡がやはり残されている。

香港映画の名作「インファナル・アフェア」をスコセッシとディカプリオがめちゃくちゃにした「ディパーテッド」はボストンが舞台だが、みんな気付かないだけだ。それから僕がこのブログで何度薦めても一冊も売れない警察小説の隠れた名作「」もボストンが舞台。サウスボストンの貧しい地域ではアイルランド系の子どもとイタリア系の子どもが同じ学校に通っていて、アイルランド系が警官になり、イタリア系がマフィアになるという話が出てくる。ダウンタウンのすぐ南はチャイナタウンだが、三十年も前なら潮州からきたチャイナマフィアとベトナムマフィアが衝突するから警官が常に張っていた、とある日本人が教えてくれた。

昨年はそのダウンタウンとバックベイで、一週間に三人が射殺された。

停めた車の中で死んでいた、とかいう話もあるからとうてい強盗だとは思えない。

*     *     *     *     *

「歴史が古い」ということと「それがゆえに観光都市である」ということをもって日本の京都みたいな街だと話すひとの多いボストンだが、このたとえはまだピントがぼけていると感じる。

ボストンは建国以来、おそらく第一次大戦あたりまでは「ザ・ハブ」つまり世界の中心を名乗っており、このあたりは「メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史」という本を読むとよく分かる。*1その歴史はたしかに京都のそれを少し思わせるが、それ以外にふたつの街に共通することはない。

「京都にもボストン同様に大学が多い」というひともいるが思い上がりだ。京都には大学以外に何もないだけで、学生も先生も東京の方が多い。それから京都の大学で世界のトップ百位に入っている大学はおそらくひとつしかないが、ボストンにはもっとある。つまり京都にたくさんある大学がボストンにたくさんあるのと同じ「大学」かどうかという点を検証する必要がある。

全米有数の金融都市であるらしく、またいまや毎年のように優勝を飾るプロスポーツチームをふたつ*2も擁するボストンは、しかしそれでも世界中から優秀な頭脳を引きつける学研都市であるにふさわしく、やはり厚い埃をかぶったような街だ。それは結局ボストン観光のメッカであるこのダウンタウンへ来てもなお変わることがなく、自分はいま田舎町に暮らしているのだと感じながら日々を過ごしていた。

彼らは寿司が流行ったといえばずっと寿司を食っているし、ラーメンが来たといったらおそらくもう七、八年はラーメンを食っている。「流行」ということをまったく理解していない。それどころか田舎から遊びに来たアメリカ人が全員Forever21の袋を提げて街を歩いていたりする世界だ。

多くの人間は根が田舎者だということもあるだろうが、この街のひとにとってボストンは通過点であり、みんなはそれぞれに帰るところや目指すゴールがあって頭がいっぱいなのだろう。数少ない日本の知人たちも、みんながみんな判で押したようにロサンゼルスかニューヨークへと引っ越してしまった。これが日本人の略歴でよく見る「その後、ニューヨークへ拠点を移す」というやつなのだろう。

もちろんそれもいい。逆にいえばそれは、ボストンがひとの人生においてそういう大事なステップになりうる街だということだ。

だがこういう街にはバイブスがない。

たとえばネットを見ていて東京では「チーズタッカルビ」が流行っていると知った。馬鹿じゃねぇのか、とか思いながら出張で帰国すると本当に流行っている。どこもかしこもチーズタッカルビをやっているらしい。だが誰が食っているのかは分からない。ネットですら「今日チーズタッカルビおいしかった」とか云っているやつはひとりもいない。「飯何します?」と訊いても、「チーズタッカルビ行きましょうよ、いまハマってんすよ」とかいうひともいない。いったいどうなってるんだと思いながらボストンへ戻るのだが、二ヶ月後にまた東京へ出張したときにはもうチーズタッカルビは街から綺麗に消え去っている。

これこそが都会のバイブスだ、と思う。

ロクなもんじゃない。何の意味もない。だが愉快で眩しくて、胸が躍る。あぶく銭があぶく銭を呼び、弾けた奴から背景へ沈むか退場していく。それが遅れてはいけない、ひとときも目を離してはいけないという気持ちをかき立て、人々を加速していく。そうやって無駄なものが生まれ、環境が破壊され、人格がゆがめられて人類は進化していく。その原動力は都会のバイブスだ。

「それは豊かさではない」と云うひともいる。多くは僕のような年寄りだ。

だがこれが豊かさでなければ、豊かさにどんな意味があるだろう。

*     *     *     *     *

口さがない人々がお前を悪し様に云う。

だが彼らが恐れているのはお前ではなく未来であり、変化そのものだと覚えておくといい。

お前は昨日や今日の飛行機ではない。

お前は未来のために生まれてきた飛行機で、その翼が飛ぶのは明日の空なのだ。

 

未来を恐れるようになった人間はいくつであれ老人だ。

それは明日がくるのを恐れてひそひそと陰口をたたく連中だ。

飛ぶな、787

今はそんな奴らに何を示す必要もない。

お前の時代は約束されているのだから。

そしてそれこそが若いということなのだから。

オレハマッテルゼ。

二〇一三年二月二十五日

f:id:boiled-pasta:20181229100144j:plain

ボーイング787は飛んだ。

その翼でいまも世界の空を飛び回っている。それがつまり、我々があの日の未来を生きているという証だ。

*     *     *     *     *

ほんとに走った。

同じ軌道のうえを1時間も。

何が変わったわけでもないけど、始めることと続けること、このふたつで人生ができているのも事実。

 

夢をみようぜベイベー

世界中どこでも空は青いはず

きっとうまくいくさ

二〇一三年一月十三日

f:id:boiled-pasta:20181229105451j:plain

六年前のある日、香港のホテルにあったジムで僕は突然ランニングをはじめた。

そのとき手がけていた仕事は二年や三年ではかたちにならないはずで、自分がいま長い長い道を歩きはじめたのだと意識したとき、いくつになっても人生は「いまも続けていること」だけでできていると気付いたからだ。

そしていまも続けていることというのはすべて、過去のある日に始めたことにほかならない。

もしかしたらもう二十年ぶりぐらいだったのかもしれないが、そのころ僕はふたたび未来のことを考えはじめ、当然の結果としていまは未来を怖れるようになった。

*     *     *     *     *

もうまもなくすると日本航空の七便が僕を乗せて永遠(for good)にボストンを発つ。この四年間、機材はずっとボーイングの787だった。それでなければここまでやってはこられなかっただろう。

新年は十三日に、旧暦ではまだ年末にあたるベトナムで生涯にたった一度のフルマラソンを走ろうと思う。

新しいお話は、それからだ。

プレスファクトリー

プレスファクトリー

 

 

*1:ちなみに「スタートアップ・バブル 愚かな投資家と幼稚な起業家」という本でボコクソに書かれているハブスポットというCRMベンチャーは広義のボストンにあたるケンブリッジで創業されており、ハブスポットの「ハブ」は知らないひとには分からないようにボストンのヒストリックなシンボルを表している。

*2:ボストン・レッドソックスと、ニューイングランド・ペイトリオッツ。他にもあればご指摘に応じて付け加えるつもりだ。