新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

香港に関するノート/世界は所有されている

ジミーさんと僕は油麻地の裏通りにあるビルの入口から短い階段を上がったところで古いソファに腰を掛け、低い声でぽつり、ぽつりと言葉を交わしていた。

照明は落とされていて小さな部屋は隅の方がよく見えない。空気はクローゼットのなかに似ていて、僕たちが話す以外には通りを行く車の音がときたま聞こえてくるだけだった。

中国が来る、とジミーさんが話していた。

中国は香港欲しい、でもなかなか手を出せない、香港人みんな共産党嫌い、ビジネスできないですよ。だから出ていくひともいる。

外のざわめきがひときわ大きくなった、と思うとガラスのドアが開いて短い革のトップスを着た女がひとり、ゆっくり階段を上がってくるところだった。ロシアか東欧の女に見えた。うしろのデスクで書き物をしていた男がスタンドの下から広東語で何か怒鳴ると、女はくるりと踵を返し肩にかけた小さなバッグを揺らしながら階段を降りていった。

でも中国は来る、ジミーさんは云った。

何年も何年もかけて、ちょっとずつ、中国はもう香港に来てますよ。香港はいつか中国になる。一九九七年、海外へ逃げたひとはみんな戻ってきた。でもいまはまた香港から逃げるひとがいる。

僕がビールを煽ると、空き缶がテーブルで高い音を立てた。それを見たジミーさんが後ろへ身体を捻ってもうひとつビールを出せ、と云ってくれる。男がうめき声をあげながらビールケースからハイネケンを出してこちらへよこした。

アイスは要るか。

ノー・サンキュー。

ハイヒールが階段を打つ音がして、真っ赤なスーツの女が現れる。今度はジミーさんが何か云うと、女はやはり黙って階段を降りていった。男が電話をとって何かを怒鳴っている。

香港はいつも香港、でも香港は変わる。いまの香港はいましかない。ジミーさんが云う。いましかないですよ。

 

退勤はスターフェリーと決めていた。

おんぼろのフェリーがたった二ドルで中環からビクトリア湾を渡る。ほんの十分だからダイヤを気にするひとはいない。

クイーンズロードから埠頭までは、道を選べば雨の日も傘をささずに行くことができる。マニラ紙の封筒をさらに紙袋に突っ込んで、国際金融中心で買ったチョコレートを食べながら群がったひとのうしろに並んでいると、カオルンからの乗客を降ろした船がまたすぐに乗客を乗せ始めた。

この季節、晴れても香港の空気は重い。乗客はいつも争うように窓際を取り合うから、諦めて通路のそばへ腰掛けて、冷房を浴びながら向こうの窓から青みがかった波にたゆたうサンパンを見た。

「オールド・スポート!」

見上げると上背のある赤ら顔がいた。イギリス人。僕の肩を二度、三度たたくと隣に腰掛けて足を組んだ。

「ジェリー・ウェスタビー、香港に来たる」僕が云うと、イギリス人は嬉しそうに笑った。「これは戦争の前触れかな?」

「戦争は終わった。大英帝国もアジアを去った。俺たち新聞記者の稼業も変わった。だが変わらないものもある」

「たとえばイギリス人の女好き……ここでも女性と暮らしている?」

「ご想像の通り」

だがその表情は冴えなかった。

「女たちは保護を求めているのさ。俺にはそれが分かることがあってね。そうすると放ってはおけないんだな」

「まことに古いタイプのジェントルマン、でも彼女はもう香港の出身ではないんだろう?メインランドの、共産主義者の中国から来た英語もあやういみなしごでは?」

ビクトリア湾の下に地下鉄が開通したことを知らず、ジョン・ル・カレは「スクールボーイ閣下」を書いた。時代遅れに気付いた時には原稿はもう印刷所に回っていたという。大恥をかいたル・カレはそれ以来、小説の舞台になる土地へは必ず自分で足を運んだというが、いま手に入る版の「スクールボーイ閣下」ではこの箇所は修正されていて、件の痕跡を見つける事はできない。

だがジェリー・ウェスタビーは当時もいまも、しばしばフェリーでカオルンへ渡る。「習慣をつくらないこと」、それが大事なのだと彼は云った。

船がゆっくりと向きを変えて尖沙咀のフェリーポートへ近付くと、ジェリーは「豪儀」と大きな手をあわせて立ち上がり、一足先にフェリーを降りていってしまった。

皺だらけになったサッカー地のジャケットがゆったりと左右に揺れて香港人の頭のあいだに見えなくなったときには、僕の紙袋にあった封筒は消えてなくなっている。

気を付けるんだ、スクール・ボーイ。僕は心のなかで呼びかける。おまえのその気高さが、自分自身の主人であろうとするところが、いつかおまえを殺すことになる。

“サーカス”のあらゆる規定に逆らって、銃を一緒に持っていけ。

 

小雨のなかをオープントップの二階建バスが走る。

自分だけは屋根のある一階にいるガイドがマイクを握り、下手な日本語でいろいろと喋っているが、最大の問題は日本語ではなく十年以上前のアンチョコを今も使い続けていることだ。

「にほんノ~、ゆぅめいナかしゅハはまさきアユミサンデス、はまさきアユミサンが~ほんこんデハいちばんにんきデス」

嘘に決まっている。このガイドも本当はもっとマシな日本語が話せるのだが風情を出すためにこんな喋り方をしているのだろう。

「世界観が攻殻機動隊だ」

竹組みの足場で囲われた漢字のネオンを見上げながら高校生がつぶやいていた。

九十年代まではマフィアの巣窟とされた九龍も、いまは観光客のそぞろ歩くお洒落な街になっている。だが再開発をするわけにはいかないらしく、通りを一本入れば何十年も前のおそろしく古いアパートが隣の壁とぴったりくっついて立ち並んでいる。コンクリートに小さな窓と室外機がへばりついた様は電子基板の森のようだった。

バスが道端へ寄せて停まると、バチっと耳障りな音がしてマイクが入り、ガイドが過酷な住環境について説明をする。

「こういうアパートはだいたい四畳半しかなくて、トイレは外の公衆トイレ、シャワーはありません。寝るだけです。寝るだけしかできない部屋に毎月何十万円も払ってる。寝るだけしかできません」

こんなことを毎晩窓の外へきて云われたら僕なら気が狂うだろう。

しかし本当のことを云うなら、こんなところに住んでいる人間がいるなどという話を僕は信じていない。転貸に次ぐ転貸、住民票上の住所、登記上の本店、知っている客だけが訪ねてくる店舗、トバシの携帯、薬物、金融屋、大方はそんなところだろう。

新宿にもそんなことで有名なマンションがいくつもあった。シャワーがなければ風俗店には向かないが、木を隠すなら森とばかりにいかがわしい仕事はいかがわしい場所に集まってくる。

しゃしんヲとッテくだサイ!とガイドが叫んでいた。ココデしゃしんヲとッテくだサイ!

うるさい奴だ。

横丁をのぞいた高校生が今度は「Zガンダムみたいだな」とつぶやいた。

サブタイトルから察する限り、第十七話の舞台は「ホンコン・シティ」で、僕たちがいるのはカオルンサイドだが、まぁそれでいい。若者はまずそうやって自分を世界にアジャストしていくのだ。僕もそうだった。

ごフンていしゃイタシマスノデ、みなサンしゃしんヲとッテくだサイ!

ガイドが叫び続けている。

 

香港には三種類の人間がいる、と橘玲の小説でひとりの男が云っている。

金を受け取ってから働く奴と、金を受け取っても働かない奴。絶対に付き合ってはいけないのは、金は要らないから働きたいと言う奴。

「香港にカジノは要らない。金融市場がひとびとのカジノだ。税金はかからない、親の取り分はない。どんな商品でも頼めば手に入る。それが香港だ。誰でも金融商品を買っている」と、あるひとが教えてくれた。

世界最大の銀行グループであるHSBCは香港返還を前に持株会社をロンドンに作って逃げた。それ以来、その名もQueen's Roadの一番地に建つセントラル・メインビルディングはグループの本店ではなくなった。

だがこの銀行がイギリスのアジア支配においてもっとも重要な礎石であった歴史は変わらない。日本に唯一残ったHSBCのオフィスへいけば、日露戦争に先立って日本政府が発行した国債HSBCが引き受けたときの証文がロビーに飾られている。

世界は所有されている。その事実はここでは隠されてすらいない。

 

アンドリューは45歳になる。パートナーは26歳だという。

「さっきからパートナー、パートナーって云ってるけど要するに婚約者だろう」

「離婚をしてから俺は慎重になったんだ。分かるだろう。子どもがいなかったのはラッキーだった。今度結婚すればそうはいかない。俺の両親は孫の顔を見るのを心待ちにしている。後戻りするのはもう簡単じゃないんだ」

「孫が欲しいって願望を両親が伝えてくるのは香港ではよくあることなんだ」

「ふつうだ。ここはアメリカやカナダじゃない」

「日本でももうあまり歓迎されていないぞ、そういうプレッシャーは」

「分かるよ。そういう意味ではここは日本よりももう少しアジアだから」

本当はもう少し遊んでいたいのだというように見えた。辛い結婚生活でも、離婚はもっと辛かったとひとづてに聞いている。アンドリューは時間と、自分の年齢と戦っているのだ。誰にとってもタフな戦いだ。そして負けると決まっている戦い。

春には東京へ行く。ひとりで旅行するのは初めてなんだ、とアンドリューは楽しそうに云った。誰と行くでもなく、仕事があるでもなしに旅行するってことがいままでになくてね。とても興奮してるよ。

楽しそうだ、連絡をくれと云うと、必ずと云ったあとでスマホを取り出し、セルフィーを撮ろうと云い出した。

「パートナーに送るエビデンスが欲しいんだろう。今夜は男と一緒だったというエビデンスが」

もちろんだ、とこともなげに云ったアンドリューが肩を組んでシャッターを切った。

タクシーがホテルへたどり着くころ、WeChatで届いた画像に写るふたりの男は意外なほどいい顔をしていた。

 

日本語ができる、とだけ書かれた張り紙の下でじっと客を待っていた占い師は、僕から聞き出した話を手元の紙へ書きつけると、そわそわと本のページをめくりながら話し始めた。

あなたは動物で云えば馬……広い世界を駆け回ることになるでしょう。青や黒が好き?でも避けなさい。なるべく明るい色の服を着て……土の色はあなたと相性がよくない。あなたのなかにある火を消してしまうから……。

とりたてて占いを信じるわけではない。だが僕たちはいつだって限られたリソースで戦わなければならないわけだから、筋立てや枠組みはあれば役に立つ。だからこの日以来、僕は極力明るい色を身につけるようにしてきた。

南西にあなたの未来は開けている。

今住んでいるところは東京?

南へ、それから西へ向かいなさい。

占い師が云っていた。

心配することはありません。大丈夫。

 

土地の値段が上がっている。ジミーさんが話していた。

中国人がどんどん香港へ来ている。みんな現金を持ってくる。アパートの値段は止まらない。新築の物件をひとつ紹介できるが値上がりは確実だ。

検討したいので資料を欲しい、と云うとジミーさんはいちど口をつぐんだ。

香港人ならいま買う。日本人は決断するのに時間かかる。香港人だったらいまもう買ってますよ。

また女がひとり、階段を上がってきてポーズをとった。白いファーを巻いたアジアの女だった。僕たちの背後に座っている男はもう怒鳴るのをやめて、何かを説明している。

僕は部屋の向こうへ目をやった。

暗い廊下の手前からふたつ、閉じられたドアは沈黙している。

女が帰っていく。

ジミーさんが云った。

お友だちはこれからどうしますか、お酒を飲みますか。

彼らはあまり酒を飲みません。僕は答えてテーブルで汗をかくハイネケンに手を伸ばした。終わればホテルへ帰ります。

それからこれを、と僕は云ってジミーさんの手の中へ丸めた紙幣を押し込んだ。今日の御礼です。

ありがとうございます、とジミーさんは云っていつも斜めにかけているポーチのなかへ大事そうにしまった。傍らには先ほど飯を食った店から持ち帰った残りもののポリ袋が並んでいる。

これはビールの分だ、と云って男の事務机にもいくらか置くと、男は無邪気な笑顔でサンキュー、サンキューと応えた。今度はおまえひとりで来い。

ドアがガタンと音を立てて開くと、女がひとり、部屋から出てきて階段を降りていった。男がまた電話をとって何か話している。

明日は私が必要ですか、とジミーさんが訊く。いえ、今晩だけで充分です。あとはこちらでやりますから。

またドアが開いて、別の女が出てきた。デスクの男といくらか言葉を投げつけあったあと、ゴトゴトとヒールの音をさせながら階段を降りて姿を消す。

僕は灰皿で煙草を消した。吸殻はもう小さな山になっていた。

またお会いしましょう。もう少しご相談したいこともあって。

メールをください、とジミーさんは云った。日程をご相談します。

それから、と客を迎えるために立ち上がりながら最後に僕は云った。物件の資料、お待ちしています。

分かりました。ジミーさんが気のない様子で答えた。

今度はひとりで来い、男がまた云った。

客を連れて階段を降りると果てることのない夜毎の祝祭に路上は沸騰していた。

いつでも香港に来たときはご連絡ください。ジミーさんが云った。それからご飯をありがとうございます。

ポリ袋を提げたジミーさんの背中はすぐに消えて見えなくなった。

香港は夜の九時を回ったところ。

しばらくのあいだ自分がどこにいるのか分からなくて、僕はそのままそこに立ちつくしていた。

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

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