新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

完全に真空な童貞。

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「30歳の保健体育」を買う。

生まれてこのかた女性との交際経験がない30代の男子たちに恋の手ほどきをしようという趣旨のハウツー本(笑。


「現実の恋愛やセックスはアダルトゲームや恋愛RPGとは全く違います」(「はじめに」)

「まず、女性経験の無い男性が勘違いを起こしやすい女性の行動のひとつとして、女性は好きではない男性ともデートをすることがあります」(「女性のデートに対する考え方」)

「しばらくキスをしたら、手で女性の肩を軽く押します。強く押す必要はありません。その段階では女性も倒されることがわかっているので、仕草だけでも倒れてくれます」(「はじめてのセックスー倒し方」)

「顔にぶっかけ 大半の女性は嫌がります」(「ゲームの常識は捨てよう」)


等々、ガイダンスは徹頭徹尾きわめて実際的かつ、読者(著者の想定する読者)に対する気配りに富んでおり、紙数の7割方を占めるセックス指南(「付き合ってからどれぐらいでするものか」から「マンネリにならないために」「彼女がしたがらないとき」まで)も女性の視点・感覚に重きをおいた、妥当というかmoderateな良書であることはまず間違いがない。

しかしそもそもセックスにまつわるトピックが7割を占めているというところに編集意図を読み取ると、それまでとは全く違った風景が見えてくるはずだ。

Amazonのレビューには「そもそもセックスまで行けないから俺たちは童貞なのであって、セックスについて長々と描かれても実際には役に立たない!」という怒りの声があがっていたりするわけで、こうした向きには本当にお気の毒としか云いようがないが、この本はもともと、あなたのために書かれたわけではないのである。


映画「惑星ソラリス」の原作である「ソラリスの陽のもとに」で有名なポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは「完全な真空」という異形の書物を残している。

これは「実在しない作品についての書評集」であり、そこには現実的に文学として存在しえない形式と構造をもった「作品」についての評が綿々とつづられている。

なぜレムはこんなことをしたのか。

古川日出男にはかつて「文学における唯一の価値はスピードだ」と考えていた時期があったそうだが、もしこの考え方を純化していくと文学はいずれ形式としての「ストーリー」や、果ては「言葉」までをも脱ぎ捨てて、純粋な概念としてのスピード、たとえば風みたいなものにならなければならない。

そしてこのように風見鶏でも立てなければ存在も確かめられないような姿へと変容した「文学」を、書いたり語ったりといった伝統的なスタイルで表現することは(当然だが)もはや不可能である。

でもこのときあはは、とみなさんは笑うだろう。そんなことありっこないよと。

文学は進化し続けるかもしれない。何か素晴らしいものへと洗練され続けるのかもしれない。

だけど文学がある日、文字や言葉に別れを告げて、ひらひらと手を振りながら本のページから陽の光のなかへ溶け出していくなんて、ありえないと。

しかし古川日出男のように、文学に向き合う者たちはそれでも純粋な価値へと接近するべく日夜戦いを続けているわけであるから、「もし本当にそんなことになっちゃったらどうしよう」なんて考えてみるのは罪のない空想だ。

そこでまれに見る才能をもつ作家であると同時に優れた研究者であり、そしておそらくは洗練された皮肉屋でもあったレムは、この「文学でなくなっちゃった文学」をあたかも普通の書物であるかのように書評してみせることで、この世に存在できない形へ行き着いちゃった状態の文学を我々の目の前へあぶり出すことに成功したのである。

もともと書評だけがあって、作品自体はありもしない虚構なのだから、そこから意味と価値を取り出してしまえば後に残るのは「完全な真空」だというわけだ。

ところで「30歳の保健体育」をひもとく我々が想像するのは、ついに初めてのセックスを間近に控え、はやる胸をときめかせながら「第二章はじめてのセックス」にかじりつく30過ぎの童貞だが、いみじくもAmazon子が指摘した通り、30歳の童貞はそもそも告白しても振られるから告白しないのだし、告白しても振られたから引きこもっているのであって、まず女性との交際が不能な彼らだとすれば、このような「いまにもセックスしかねない状況」にある30歳の童貞こそが実在しない架空の存在なのだということを理解しなければならない。

ここに至って我々は、ターゲット層が架空の存在であるにもかかわらずこうして本書が極めて完成度の高い「読者のためのガイドブック」としてここにあることの意味に気付くことになる。

「いまにもセックスしそうな30歳の童貞」が架空の存在であるにもかかわらず、「彼」に対してご丁寧にセックスの作法を説いた書物があり、しかも私が買ったということは、「彼」のナイーブな恋愛感情や性意識、引っ込み思案な性質が我々にとり、そうまでしてあぶり出さなければお目にかかることのできない極めて貴重な「純粋な価値」にイコールだからだということではあるまいか。

レムが架空の書評集によって、実在し得ないほど進化した文学作品の意味と価値を表現しようとしたように、本書は実在し得ないほど純化した何かの意味と価値を我々に差しだそうとしている。

もし仮に「いまにもセックスしそうな30歳の童貞」が実際にこの本を手にとることがあったとしたら、驚喜するまえに、自分がいつしか架空の存在になってしまったことを知るべきだし、その奇跡を損なうほどの価値がセックスにあるのかどうか、瞑目し、深く考えてほしいものだと思う。

30歳の保健体育

30歳の保健体育