新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

秘密の記憶/女たち

女は秘密を愛している。

秘密をもった女は幸せそうだ。

女を輝かせたければ、ちいさな秘密を与えてやればいい。

 

女たちは秘密をもっていた。

はじめに気付いたのは妻だ。

バスで一緒になった女が近付いてきて、自分たちが秘密をもっていることを打ち明けたのだ。

「すごいだろう」と妻が知らせてきた。

「すごい」と僕は返事をした。

 

僕たちは多くの秘密を抱えすぎた。

秘密は子を産み、いたるところに居座ってやがて僕たちの背骨を圧するようになった。

何人もが理由を告げずに姿を消して、多くの金が使われた。

秘密は日常を覆い尽くし、僕たちの言葉を奪い、やがて僕たちは秘密に仕えるようになった。

僕たちは秘密をあらたな言葉として、もっと高度な秘密を発明し、秘密のために働いた。

秘密は産業となり、政治が生じ、秘密が法律となった。

これが男たちの秘密だった。

 

親戚の男が死んだ。自殺だった。親はもういなかった。

五十代だった男は離婚しており、再婚した妻とのあいだにまだ幼い子があった。

死のわずか前に、僕は男に会った。

僕の育った田舎の屋敷へ、男は法事に訪れたのだった。もう何十年かなかったことだった。

歓迎した僕たちに、男は破顔して冗舌になった。

その同じ部屋に昔、まだ三十になる前の彼が妻を伴ってやってきたときのことを僕は思い出していた。

この国は当時好景気に沸いており、男はその花形ともいえる証券会社で務めていた。明るく、話がうまくて成功したこの男のことを、親戚たちがみな感心した口ぶりで話していたのを覚えている。

いちどここでお目にかかったきりでしたね、と僕が云うと、そうだねと男は感に堪えない口調で云った。男の話はやはりうまく、僕たちはおおいに笑いあった。

駅まで車で送りましょう、法事が無事に調い日も暮れかけた頃に叔父が云うと、男はいやいやと固辞した。

「いませっかくここの家へ何十年ぶりかに来たんだ。子どもの頃から何度も通ったこのあたりを見て、歩いて駅まで行かせてくれ。いまそれがしたいんだ」

そのとき僕は男の死を予感した。

 

彼の心には小さな傷口があったのだ、男の死を知らせる父からの便りにはそうあった。

過去、家族、小さな嘘、思いがけない出来事。

そこで生まれた傷を彼はずっと抱えて生きていた。小さな、小さな傷口。その傷口から滲み出た水は長いあいだかけて彼の心に溜まっていき、やがて彼はそこで溺れて死んでしまった。

父は歳の近いこの従兄弟のことを僕よりも知っていた。父は何かを秘密にしているのだ。

だが僕はその秘密が何かをもう知っている。それが僕の秘密だ。

 

毎朝のように、今朝も女たちがいる。

僕が挨拶をして戸口を通ると、女たちはこちらを見ないで挨拶を返す。

だがいつもとは違う。

妻が自分たちの秘密を僕に打ち明けたことを、彼女たちは知っているからだ。

僕は女たちの秘密には立ち入れない。だから僕が彼女たちと秘密について言葉を交わすことはない。

だが僕が秘密を知っていることを、彼女たちは受けいれている。

僕がそこで聞いていることを許しながら、女たちはそっと僕を秘密から閉め出すのだ。

僕は目を伏せ、会釈してそこを通り過ぎる。秘密を誰にも喋らないという空気を背中いっぱいに出しながら、足早にそこを立ち去るのだ。

家に帰ると妻がスマートフォンの画面から目を上げて云う。

「すごいだろう」

「すごい」僕は答える。

野村證券第2事業法人部

野村證券第2事業法人部

 

 

香港に関するノート/世界は所有されている

ジミーさんと僕は油麻地の裏通りにあるビルの入口から短い階段を上がったところで古いソファに腰を掛け、低い声でぽつり、ぽつりと言葉を交わしていた。

照明は落とされていて小さな部屋は隅の方がよく見えない。空気はクローゼットのなかに似ていて、僕たちが話す以外には通りを行く車の音がときたま聞こえてくるだけだった。

中国が来る、とジミーさんが話していた。

中国は香港欲しい、でもなかなか手を出せない、香港人みんな共産党嫌い、ビジネスできないですよ。だから出ていくひともいる。

外のざわめきがひときわ大きくなった、と思うとガラスのドアが開いて短い革のトップスを着た女がひとり、ゆっくり階段を上がってくるところだった。ロシアか東欧の女に見えた。うしろのデスクで書き物をしていた男がスタンドの下から広東語で何か怒鳴ると、女はくるりと踵を返し肩にかけた小さなバッグを揺らしながら階段を降りていった。

でも中国は来る、ジミーさんは云った。

何年も何年もかけて、ちょっとずつ、中国はもう香港に来てますよ。香港はいつか中国になる。一九九七年、海外へ逃げたひとはみんな戻ってきた。でもいまはまた香港から逃げるひとがいる。

僕がビールを煽ると、空き缶がテーブルで高い音を立てた。それを見たジミーさんが後ろへ身体を捻ってもうひとつビールを出せ、と云ってくれる。男がうめき声をあげながらビールケースからハイネケンを出してこちらへよこした。

アイスは要るか。

ノー・サンキュー。

ハイヒールが階段を打つ音がして、真っ赤なスーツの女が現れる。今度はジミーさんが何か云うと、女はやはり黙って階段を降りていった。男が電話をとって何かを怒鳴っている。

香港はいつも香港、でも香港は変わる。いまの香港はいましかない。ジミーさんが云う。いましかないですよ。

 

退勤はスターフェリーと決めていた。

おんぼろのフェリーがたった二ドルで中環からビクトリア湾を渡る。ほんの十分だからダイヤを気にするひとはいない。

クイーンズロードから埠頭までは、道を選べば雨の日も傘をささずに行くことができる。マニラ紙の封筒をさらに紙袋に突っ込んで、国際金融中心で買ったチョコレートを食べながら群がったひとのうしろに並んでいると、カオルンからの乗客を降ろした船がまたすぐに乗客を乗せ始めた。

この季節、晴れても香港の空気は重い。乗客はいつも争うように窓際を取り合うから、諦めて通路のそばへ腰掛けて、冷房を浴びながら向こうの窓から青みがかった波にたゆたうサンパンを見た。

「オールド・スポート!」

見上げると上背のある赤ら顔がいた。イギリス人。僕の肩を二度、三度たたくと隣に腰掛けて足を組んだ。

「ジェリー・ウェスタビー、香港に来たる」僕が云うと、イギリス人は嬉しそうに笑った。「これは戦争の前触れかな?」

「戦争は終わった。大英帝国もアジアを去った。俺たち新聞記者の稼業も変わった。だが変わらないものもある」

「たとえばイギリス人の女好き……ここでも女性と暮らしている?」

「ご想像の通り」

だがその表情は冴えなかった。

「女たちは保護を求めているのさ。俺にはそれが分かることがあってね。そうすると放ってはおけないんだな」

「まことに古いタイプのジェントルマン、でも彼女はもう香港の出身ではないんだろう?メインランドの、共産主義者の中国から来た英語もあやういみなしごでは?」

ビクトリア湾の下に地下鉄が開通したことを知らず、ジョン・ル・カレは「スクールボーイ閣下」を書いた。時代遅れに気付いた時には原稿はもう印刷所に回っていたという。大恥をかいたル・カレはそれ以来、小説の舞台になる土地へは必ず自分で足を運んだというが、いま手に入る版の「スクールボーイ閣下」ではこの箇所は修正されていて、件の痕跡を見つける事はできない。

だがジェリー・ウェスタビーは当時もいまも、しばしばフェリーでカオルンへ渡る。「習慣をつくらないこと」、それが大事なのだと彼は云った。

船がゆっくりと向きを変えて尖沙咀のフェリーポートへ近付くと、ジェリーは「豪儀」と大きな手をあわせて立ち上がり、一足先にフェリーを降りていってしまった。

皺だらけになったサッカー地のジャケットがゆったりと左右に揺れて香港人の頭のあいだに見えなくなったときには、僕の紙袋にあった封筒は消えてなくなっている。

気を付けるんだ、スクール・ボーイ。僕は心のなかで呼びかける。おまえのその気高さが、自分自身の主人であろうとするところが、いつかおまえを殺すことになる。

“サーカス”のあらゆる規定に逆らって、銃を一緒に持っていけ。

 

小雨のなかをオープントップの二階建バスが走る。

自分だけは屋根のある一階にいるガイドがマイクを握り、下手な日本語でいろいろと喋っているが、最大の問題は日本語ではなく十年以上前のアンチョコを今も使い続けていることだ。

「にほんノ~、ゆぅめいナかしゅハはまさきアユミサンデス、はまさきアユミサンが~ほんこんデハいちばんにんきデス」

嘘に決まっている。このガイドも本当はもっとマシな日本語が話せるのだが風情を出すためにこんな喋り方をしているのだろう。

「世界観が攻殻機動隊だ」

竹組みの足場で囲われた漢字のネオンを見上げながら高校生がつぶやいていた。

九十年代まではマフィアの巣窟とされた九龍も、いまは観光客のそぞろ歩くお洒落な街になっている。だが再開発をするわけにはいかないらしく、通りを一本入れば何十年も前のおそろしく古いアパートが隣の壁とぴったりくっついて立ち並んでいる。コンクリートに小さな窓と室外機がへばりついた様は電子基板の森のようだった。

バスが道端へ寄せて停まると、バチっと耳障りな音がしてマイクが入り、ガイドが過酷な住環境について説明をする。

「こういうアパートはだいたい四畳半しかなくて、トイレは外の公衆トイレ、シャワーはありません。寝るだけです。寝るだけしかできない部屋に毎月何十万円も払ってる。寝るだけしかできません」

こんなことを毎晩窓の外へきて云われたら僕なら気が狂うだろう。

しかし本当のことを云うなら、こんなところに住んでいる人間がいるなどという話を僕は信じていない。転貸に次ぐ転貸、住民票上の住所、登記上の本店、知っている客だけが訪ねてくる店舗、トバシの携帯、薬物、金融屋、大方はそんなところだろう。

新宿にもそんなことで有名なマンションがいくつもあった。シャワーがなければ風俗店には向かないが、木を隠すなら森とばかりにいかがわしい仕事はいかがわしい場所に集まってくる。

しゃしんヲとッテくだサイ!とガイドが叫んでいた。ココデしゃしんヲとッテくだサイ!

うるさい奴だ。

横丁をのぞいた高校生が今度は「Zガンダムみたいだな」とつぶやいた。

サブタイトルから察する限り、第十七話の舞台は「ホンコン・シティ」で、僕たちがいるのはカオルンサイドだが、まぁそれでいい。若者はまずそうやって自分を世界にアジャストしていくのだ。僕もそうだった。

ごフンていしゃイタシマスノデ、みなサンしゃしんヲとッテくだサイ!

ガイドが叫び続けている。

 

香港には三種類の人間がいる、と橘玲の小説でひとりの男が云っている。

金を受け取ってから働く奴と、金を受け取っても働かない奴。絶対に付き合ってはいけないのは、金は要らないから働きたいと言う奴。

「香港にカジノは要らない。金融市場がひとびとのカジノだ。税金はかからない、親の取り分はない。どんな商品でも頼めば手に入る。それが香港だ。誰でも金融商品を買っている」と、あるひとが教えてくれた。

世界最大の銀行グループであるHSBCは香港返還を前に持株会社をロンドンに作って逃げた。それ以来、その名もQueen's Roadの一番地に建つセントラル・メインビルディングはグループの本店ではなくなった。

だがこの銀行がイギリスのアジア支配においてもっとも重要な礎石であった歴史は変わらない。日本に唯一残ったHSBCのオフィスへいけば、日露戦争に先立って日本政府が発行した国債HSBCが引き受けたときの証文がロビーに飾られている。

世界は所有されている。その事実はここでは隠されてすらいない。

 

アンドリューは45歳になる。パートナーは26歳だという。

「さっきからパートナー、パートナーって云ってるけど要するに婚約者だろう」

「離婚をしてから俺は慎重になったんだ。分かるだろう。子どもがいなかったのはラッキーだった。今度結婚すればそうはいかない。俺の両親は孫の顔を見るのを心待ちにしている。後戻りするのはもう簡単じゃないんだ」

「孫が欲しいって願望を両親が伝えてくるのは香港ではよくあることなんだ」

「ふつうだ。ここはアメリカやカナダじゃない」

「日本でももうあまり歓迎されていないぞ、そういうプレッシャーは」

「分かるよ。そういう意味ではここは日本よりももう少しアジアだから」

本当はもう少し遊んでいたいのだというように見えた。辛い結婚生活でも、離婚はもっと辛かったとひとづてに聞いている。アンドリューは時間と、自分の年齢と戦っているのだ。誰にとってもタフな戦いだ。そして負けると決まっている戦い。

春には東京へ行く。ひとりで旅行するのは初めてなんだ、とアンドリューは楽しそうに云った。誰と行くでもなく、仕事があるでもなしに旅行するってことがいままでになくてね。とても興奮してるよ。

楽しそうだ、連絡をくれと云うと、必ずと云ったあとでスマホを取り出し、セルフィーを撮ろうと云い出した。

「パートナーに送るエビデンスが欲しいんだろう。今夜は男と一緒だったというエビデンスが」

もちろんだ、とこともなげに云ったアンドリューが肩を組んでシャッターを切った。

タクシーがホテルへたどり着くころ、WeChatで届いた画像に写るふたりの男は意外なほどいい顔をしていた。

 

日本語ができる、とだけ書かれた張り紙の下でじっと客を待っていた占い師は、僕から聞き出した話を手元の紙へ書きつけると、そわそわと本のページをめくりながら話し始めた。

あなたは動物で云えば馬……広い世界を駆け回ることになるでしょう。青や黒が好き?でも避けなさい。なるべく明るい色の服を着て……土の色はあなたと相性がよくない。あなたのなかにある火を消してしまうから……。

とりたてて占いを信じるわけではない。だが僕たちはいつだって限られたリソースで戦わなければならないわけだから、筋立てや枠組みはあれば役に立つ。だからこの日以来、僕は極力明るい色を身につけるようにしてきた。

南西にあなたの未来は開けている。

今住んでいるところは東京?

南へ、それから西へ向かいなさい。

占い師が云っていた。

心配することはありません。大丈夫。

 

土地の値段が上がっている。ジミーさんが話していた。

中国人がどんどん香港へ来ている。みんな現金を持ってくる。アパートの値段は止まらない。新築の物件をひとつ紹介できるが値上がりは確実だ。

検討したいので資料を欲しい、と云うとジミーさんはいちど口をつぐんだ。

香港人ならいま買う。日本人は決断するのに時間かかる。香港人だったらいまもう買ってますよ。

また女がひとり、階段を上がってきてポーズをとった。白いファーを巻いたアジアの女だった。僕たちの背後に座っている男はもう怒鳴るのをやめて、何かを説明している。

僕は部屋の向こうへ目をやった。

暗い廊下の手前からふたつ、閉じられたドアは沈黙している。

女が帰っていく。

ジミーさんが云った。

お友だちはこれからどうしますか、お酒を飲みますか。

彼らはあまり酒を飲みません。僕は答えてテーブルで汗をかくハイネケンに手を伸ばした。終わればホテルへ帰ります。

それからこれを、と僕は云ってジミーさんの手の中へ丸めた紙幣を押し込んだ。今日の御礼です。

ありがとうございます、とジミーさんは云っていつも斜めにかけているポーチのなかへ大事そうにしまった。傍らには先ほど飯を食った店から持ち帰った残りもののポリ袋が並んでいる。

これはビールの分だ、と云って男の事務机にもいくらか置くと、男は無邪気な笑顔でサンキュー、サンキューと応えた。今度はおまえひとりで来い。

ドアがガタンと音を立てて開くと、女がひとり、部屋から出てきて階段を降りていった。男がまた電話をとって何か話している。

明日は私が必要ですか、とジミーさんが訊く。いえ、今晩だけで充分です。あとはこちらでやりますから。

またドアが開いて、別の女が出てきた。デスクの男といくらか言葉を投げつけあったあと、ゴトゴトとヒールの音をさせながら階段を降りて姿を消す。

僕は灰皿で煙草を消した。吸殻はもう小さな山になっていた。

またお会いしましょう。もう少しご相談したいこともあって。

メールをください、とジミーさんは云った。日程をご相談します。

それから、と客を迎えるために立ち上がりながら最後に僕は云った。物件の資料、お待ちしています。

分かりました。ジミーさんが気のない様子で答えた。

今度はひとりで来い、男がまた云った。

客を連れて階段を降りると果てることのない夜毎の祝祭に路上は沸騰していた。

いつでも香港に来たときはご連絡ください。ジミーさんが云った。それからご飯をありがとうございます。

ポリ袋を提げたジミーさんの背中はすぐに消えて見えなくなった。

香港は夜の九時を回ったところ。

しばらくのあいだ自分がどこにいるのか分からなくて、僕はそのままそこに立ちつくしていた。

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

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HCM Marathon 2019反省会/引退会見に代えて

ちょうど三年前に、「HCM RUN」というイベントでハーフマラソンを走ったときのことを書いた。

どれだけのひとの役に立ったのかは分からないが、いま読み返してみると結構おもしろいし、よく書けているので走らないひとも読んでみてほしい。

ところでこの、ネットミーム的な画像をトップに設置するのはもうやめた。これをやるとFacebookユーザーがたくさん「いいね!」するのだが、アクセスカウンターで張り込んでいても「いいね!」するだけで読まないひとがほとんどだからだ。

あなたのことですよ。

その点、ツイッターユーザーは教養と民度がちがうので常に変わらぬ支持をくださっている。読者に対する私のロイヤルティというようなものがあるとすれば、それはツイッターユーザーの皆さんに捧げられる。Facebookユーザーは、ただついてこい。性根をたたき直してやる。

*     *     *     *     *

「実際走るとランナーズ・ハイっていう、すげぇ楽になってくるタイミングがあるんで、ハーフマラソンなんかは気合いで余裕っすよ」

HCMC RUN 2016反省会。 - 新宿メロドラマ

Gさんのこの「アドバイス」が端的にガセだったことは先のエントリーに詳しいが、当時このひとはまた

「マラソンを走るときは両の乳首にバンドエイドを貼らないとウェアに擦れて腫れる」

と真偽不明の情報を流していた。

これは彼が結婚前に付き合っていた彼女*1に乳首を開発されすぎただけだったという説が濃厚だ。

ともあれ、起業も受験も子育てもフルマラソンも、自分が一回しか経験していない(N=1)ことから法則や秘訣を導き出そうとするのは原理的に不可能なので非常に危険だ。やりたい気持ちは分かるが、それをやらないのが大人というものだろう。子育てに関しては親のいうことだって聞かない方がいい。そこにいる「起業の先輩」なんかもはっきり云えば生存バイアスがオフィスカジュアルでマックを開いてるだけだからすぐに逃げろ。

しかしそれにもかかわらずちょっと検索すれば何に関しても世の中はこの手のブログでいっぱいのようだが、即刻やめたまえ。これ以上インターネット・デブリを増やすんじゃない。なんだその「旅行記」は?ご丁寧にレストランの連絡先まで載せてあるのに、いつの記事か日付がないじゃないか。途上国の電話番号なんかすぐ変わるんだよ!!いつの情報なんだよ!読者を愚弄すんなよ!

しかも金をとって発信しはじめたりすると、それはもう結構黄信号だ。おまえの情報が有益なはずがないだろう。だから我々に許されているのは極力ひとの役に立たない無害な情報を垂れ流すことばかりなんだ。モンベルのこととかを書けばいいんだよ!

 

まぁそんなことで、僕は今日までにハーフマラソン一回、フルマラソン一回しか走ったことのない素人だからマラソンやランについて書くのは今回も避ける。だが今後もHCM Marathonへの参加を検討する日本人の方々のため、客観的な情報にしぼり、あくまでも資料としてここにメモを残しておくことにした。

このブログにこういう回はあまりないから走らないひとも読んでください。

総論:HCM Marathon 2019

いいイベントだ(客観)。

前回の「反省会」でも運営のクオリティはベトナム離れしているとお伝えしているが、あれから三年経って、よくなったところもあれば、いい意味で変わらないところもある。いずれにせよ大会は非常に高いレベルでオーガナイズされているし、誘導などスタッフの対応もこなれていて参加してみれば不安はあまり感じない。

もちろん不足に思うところもあるが、そもそも僕は他の大会に出たことがないので、それが本当に不足といえるものなのかどうかも分からない。

気候

暑い(客観)。

1月とはいえホーチミンシティは昼間になれば摂氏三〇度を超える「夏」だから、日が昇れば暑くて走っていられなくなる。

だが、前回のエントリーでは「午前六時」と記録されている出走時間が、今回は二時間早められて四時になっていた。つまり日の出まで二時間の猶予が与えられるようになったということだ。やはり日の出スタートではフルマラソン組のゴールがお昼前後になって危ないとなったのだろう。実際危ないと思う。

前回は日の出とともにスタートしたため、とにかく陽射しが強かったことだけを覚えており今回は度付きのサングラスをしていったのだが、スタートが早まっていたため日の出までは逆に暗すぎて危なかった。住宅地を走るので、路上に車を減速させるためのバンプがあるのだ。このあたりの判断は難しい。

日の出までの気温は二五度〜とまだ低いが、なにせ湿度が高いので汗ばむどころの騒ぎではない。

補給

フルマラソンを無補給はありえないということで結構神経質になっていたが、実際には運営頼みでも問題がなかった。

フルマラソンで七ヶ所か八ヶ所ぐらいの給水/給食所が設けられおり、しかもコースは折り返したり二周したりして同じところを通るので、都合一五回ぐらいの補給を受ける機会があった。僕は貧乏性で給水所にくるたびにひとくち飲まずにいられないから、これはちょっと多すぎだと感じたが、本来は悪いことではないのだろう。*2ただしハーフマラソンと重複したルートが終わる終盤には少し補給所のあいだが空くようになるので注意した方がいい。

提供されたのは、持って走れるペットボトル入りの水/その場で飲める紙コップの水/スポドリ/バナナ(スイカ)で、スポドリが謎に微炭酸(乳酸飲料?)だったことをのぞけば、本当によくやってもらっているという感じだった。*3

僕は燃料を持参していったのでバナナもスイカも食べていない。想像だが、ベトナムなので結構うまいのではないか。

ゴミはガンガンポイ捨てで、ベトナムの朝の路上によくいるノンラーにつなぎを着たおばちゃんが黙々と片付けてくれている。完全に日常の光景だ。

交通規制・誘導

交通規制については、フーミー橋から降りてくる十キロあたりまでは結構しっかりできている。

しかしエリアのほとんどが住宅地の中であったりするため夜が明けてくると生活道路の規制はとてもできない。ベトナムの朝は早いから、休日といえども七時ごろからはどうしても車を通さなければならず、誘導待ちで止められるシーンも何度か見られた。

ルートの誘導はちゃんとついている。曲がり角には五〇メートル前に看板が出ているし、フルマラソンハーフマラソンでルートが分岐するところではスタッフがゼッケンを確認して方向を指示してくれたりする。二周するところではリストバンドが配られていて、これがトークンになって二周目にはループ抜け処理に入ることができる。

これもハーフマラソンが終わったあと、終盤の二十五キロぐらいからあとでは看板の数が減って、ちょっときわどい道路横断なんかがあったが、スタッフに助けを求めると「渡ってあっちへ行け」と教えてくれた。正直、これは少し改善した方がいいと思う。

コース

これについては前回のエントリーとあまり変わらない。

つまりフーミー橋がきつい、ということだ。ただしたかだか七キロポイントあたりまでなので、フルマラソンの場合にはまだまだ序盤。これ以降本当にキツい登りはない。僕がフルマラソンへのチャレンジにHCMを選んだのはそれも理由のひとつだ。

フーミー橋は一番高いところまで行ってUターンして戻ってくるというルートで、橋のたもとに補給所がある。

ギャラリー

スタートが早くなったことが関係しているのかもしれないが、一般のギャラリーはあまりいなかった。

ただし大勢のスタッフたちが補給や誘導をやるかたわら、声援をあげたりハイタッチをしてくれたりする。前にも書いたが、こういうときのベトナム人ほど気持ちのいいひとたちはなかなかいない。

ボランティアのベトナム人女性、いわゆるRUNねぇちゃんたちも非常にかわいく見えるが立ち止まるわけにはいかないので実際にかわいいかどうかまではわからない。だがそれがいい

ゴール地点

フルマラソンの完走者休憩所は狭くて話にならなかった。前回ハーフマラソンのときにはもう少し余裕があったと記憶しているのだが、もしかしたら参加者が増えて追いつかないのかもしれない。ポカリスエットやバナナの取り放題もなくなっていて厳しかったので、すぐ近くだったホテルへ帰ってきてしまった。ちょっと長居するのは意味がないかなという印象。

メダルはフィニッシュラインを越えたらRUNねぇちゃんが首にかけてくれるシステム。他には特にやることがないので、動けるようになったひとから帰ってよし。会場付近には大量のビナサンタクシーがスタンバっているので帰路の心配はなさそう。

 

以上だ。

 

ところで、ある日突然思いついて走り始めてから六年、「いつかフルマラソンが走れるようになったらいいな」と思っていた、その望みは今回の挑戦で果たされた。

僕はもう四十歳を越えているし、そうなるとなかなかできることでもないようなので誇らしい気持ちもあって欲も出るが、この夢はこれでおしまいということにしておこうと思う。

ラソンは役に立たない

四十二キロを走れる身体を作っても、フルマラソンを走ること以外に使い道がない。つまり無為だ。マラソンは「ためにする運動」に他ならず、虚しい(ただし精神力は鍛えられて、虚しさに強い人間になる)。

仮に帰宅困難者になったところで自宅まで走って帰る必要はない。歩けばいい。

水泳は違う。生死を分けることがある。僕には沖合の漁船でいきなり水が入ってきて死にかけたという知人がいるし、アメリカでは二歳ぐらいから子どもに水泳をやらせる、なぜなら自宅で「プールパーティ」をやるお友だちがたまにいて、もちろん監視員なんかいないから何かあれば命にかかわるからだという話を聞いたこともある。水泳は大事だ。マラソンにはそれがない。

これ以上は鍛えられない

ハーフマラソンからの三年はよくやった。

だが二日に一度というペースで十キロずつ走るのは、まともな社会人のトレーニングとしてはかなりのコストになっている。僕はまともな社会人ではないが、家庭人としての顔もあるのでこれ以上の時間は割けないと思っている。

してみると、これほどにやってきてまでしてあのラスト七キロの地獄のような苦しさ、これをトレーニングで乗り越えることは不可能だと考えざるを得ない。僕はこれ以上は強くなれないのだ。

骨と皮みたいなじじいやアオザイ姿の小さな女性がバンバンゴールしていくところを見るにつけ、これはもう自分の限界なのだと思うに至った。体力、筋肉量と体重つまり身体の組成、そして僕はもともと歩き方がおかしいので膝に負担のかかりやすい骨格をしている可能性も高い。これ以上マラソンにおいて高みを目指すことは無駄であるばかりか危険であると思う。

ラソンは身体に悪い

だいぶん常識として広まってきたようだが、体力勝負と云われる医者も一般にはマラソンをやらないと聞く。人間の心筋は心拍数にリミットがセットされており、それを越えると死ぬと考えられているからだ。つまり心拍数のあがる運動は寿命を切り売りしているに他ならない。

ラソンは関節にもよくない。一歩ごとに片足にかかる負荷は体重の五倍とかなんとかいうからとんでもない話だ。

それでも僕が得意とする運動はこの世に中・長距離走しかなくて、とりもなおさずそれは運動神経というよりも精神力で介入が可能な種目だったからなのだが、よって僕はこれらを承知でフルマラソンの目標を追いかけてきたのだ。

ラソン大会のノリにあわない

これはハーフマラソンのときにも思ったのだが、長距離走に慣れたひとたちは楽しみのためか、あるいはタイム以上にエクストリームなゴールを設定するためか、へんなコスプレで走るようになる。これが僕にはあわない。

今回もフルマラソンを全身動物の着ぐるみで走ったり、セーラー服で走ったり、悟空のコスプレをしたりしている参加者がいた。着ぐるみのひとりはさすがに三十分ぐらいしたところで道端に止まって脱いでいたが、あの着ぐるみをそのあとどうするのだろう。セーラー服、アオザイもひとりやふたりではなかったし、悟空も三人はいた。いちいち道端のギャラリーやRUNねぇちゃんと写真に収まりながら走っている老人までいたのだ。しかも僕より先にゴールしている。

僕は本質的に真面目なつまらない男でルサンチマンも強いので、自分には到達できないところでなめプをやっているひとを見ているのには耐えられない。ひとのことなんか放っておけ、というところなのだが、「楽しみたいなら家でエースコンバットでもやっていろ。走り足りないんだったらウルトラマラソンにでも行け」という思いを拭い去ることができない。僕にとってマラソンとはもっと孤独で殺伐としたものであるべきだったのだ。

 

これが、僕がマラソンをもう走らない理由だ。

 

いつかフルマラソンを完走してゴールラインを越えるとき、拳を空へ突き上げたいと思っていた。僕みたいな人間にそんなカッコいいことが許されるシーンはめったにないからだ。

だが最後の角を曲がってようやく見えたゴールへたったひとりジリジリと近付きながらRUNねぇちゃんたちの声援を受けているうちに、今日もやっぱりそんなことはできないと思った。脚はこわばり、ただ歩いてはいないというだけの状態で、めざしていたタイムにも遅れ、のろのろと進む僕はいつも通りカッコ悪かったからだ。「ロバが旅に出たからといって、馬になって帰ってくるわけじゃない」。本当にその通りだと思った。

ただ、ゲートをくぐってどこかにあるレコーダーが「ピッ」と小さな音を立て、タッチを求めるスタッフに応えてふたりの掌が触れたとき、僕はその手を握りしめ、「サンキュー」と云った。自分がそんなことをするとはそのときまで思いもしなかった。


とまれこうして僕のバケツリストから、ひとつの夢が消えた。

小さい頃から我慢の子だった僕にとって、六年のあとでたった一日だけ自分のことを褒めてやることができたのなら充分だ。

僕たちはこれからだってまだまだいろんなことができるのだから。

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

 

*1:現在もFANZAの「痴女」カテゴリでこの女性の作品が見られる

*2:悪い補給の例としては某ピザ店の社長が走ったというボルドー・マラソンの「補給はチーズとワインだけ」が挙げられる。

*3:昨夜、ベトナムで何度か大会に参加しているひとに聞いたらやはりベトナムの大会ではスポドリに微炭酸が効いていることが多いということだった。なんでだよ!

流血、マリファナ、明日の翼/歳をとるとひとは

かつてこの街に端を発した騒擾は、流血を経てひとつの国を興すに至る。
人類史上初めて国際社会に倫理を訴えた若き理想家のごときこの国は、二世紀あまり後のいま、振り上げた拳の降ろし方に戸惑う白髪交じりの壮年になった。

太平洋から始まった道程は、大西洋を望む「はじまりの場所」で折り返す。
アメリカとは何なのかをずっと考え続けているけれど、あまりに大き過ぎてよくわからないというのが正直な感想だ
しかしそれが案外、答えに近いのかもしれないという気がする。

エンド・オブ・ザ・ロード
ボストン到着。

二〇一二年八月八日 

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筋を通すとか区切りを付けるとかいうことではなく、単にセンチメンタルなのであの日と同じホテルに泊まっている。「あの日」というのはまだボストンに暮らすとは思ってもいなかった夏、初めてこの街を訪れた日のことだ。部屋はあいかわらず広めだが窓からの眺めはあまりよくない。いずれにせよいまの僕にはもうめずらしくもない眺めだ。それがあのときとは違う。

四年も住めばこの街も、もっと見慣れたものになると思っていた。ところが帰国を二日後に控えたいまもこの街は、どこへ行けば何があると少し分かった程度でまったく親しみが感じられないままだ。ただ、どんな環境であれそこを去るときには感じるだろう寂しさが少しあるだけ。それは長い懲役を終えたひとがバスを待つあいだに感じる不安のようなものかもしれない。あるいは映画のセットやテーマパークのなかで数年間を過ごしたような気がしている。セリフはすべて台本に書かれていた、というような感じ。

この街で暮らした長い時間は東京へ帰ればすぐに断片的な思い出に変わってしまうだろう。

サイゴンを去るときの焦がれるような思いや、香港に匿われているときの安心感にあたるものはまるでない。ひとつだけ例外があるが、それについては触れない。

*     *     *     *     *

妻がFacebookで「譲ります」としていた家具が駐在員とおぼしき日本人のご家庭にもらわれていく。車でアパートまでいらっしゃったお子さん連れのご夫婦は丁寧で、しかし気さくな雰囲気をお持ちの方々で感じがよかった。世の中にはきっとこういうひとたちがたくさんいて、誰の事も傷付けることなく、ときに不幸な悲しみを受け止めながらそれを乗り越え生活をしている。一面、それが「生きる」ということなのだろう。

「高いものじゃないんですけど組み立てるのが大変なので、お父さんはラッキーですよ。捨てるには忍びなかったので引き取っていただけてよかったです」

僕は素面で二分間、完全に社交的になることができる。

小雨の中であわただしく車に家具を詰め込むその間は一分三〇秒、みじかい間ながらあちらも僕のことを好もしく思ってくれたことが分かった。

御礼にとちょっとしたお菓子の詰まった紙袋をいただき、ボストンでもこんなひとたちと仲良くなれたらまた違った日々を送れたかもしれない、とふと思った。

実際には酒を飲まねばひとと向き合うことができず、飲めばまずひとの悪口を云いはじめて、次に金の話をし、最後に猟奇的と云っていいレベルで相手の内面に立ち入ろうとする僕は所詮、ああしたひとたちの相手にはならない。「ボストンでも」というが、どこでだってそんなひとたちと仲良くなれたためしはないのだ。

僕はゴルフもガーデニングもやらないし、楽器もできない。家に「家庭の医学」はないし車も運転しない。晩飯は作っても一品か二品だし、年賀状を出さない。そもそも新卒でまともな就職をせず、有給申請の仕方も知らないし、厚生年金も積み立てていない。名刺は受け取った日にシュレッダーにかけている。

夢は夢のままでいい。

*     *     *     *     *

クリスマスが過ぎるとボストンはゴーストタウンになる。

ゴーストタウンは云いすぎだとしてもクリスマス当日はまさに終日そんな感じで電車も二両で来るし、そのあと年末まではもうずっとガラガラだ。

つまるところボストンに実家のある生粋のボストニアンというのはそれほど多くないということなのだろう。そしてそうでもなければボストンはクリスマスを過ごすのに格好の街とは云えないのだ。同じシベリアでもニューヨークとは違う。

しかし年が明けてニューイングランドの悪名高い冬が本番になった頃、学生たちが街に帰ってくる。キッズたちが帰ってくるのだ。西海岸の陽に焼けたり、ママのコーンブレッドで高校生の頃のふっくらした顔立ちを取り戻したり、田舎の友達に都会の風を吹かせたあとでくじけそうだった心を少し立て直して帰ってくるのだ。

そしてアパートの廊下にはただちにマリファナの匂いが充満する。

アパートの規約にはずっと「館内での喫煙(smoking cigarettes)は全面的に禁止します」と書かれてあったが、マリファナはそもそも違法だから特に禁止されていなかった。それでキッズたちが街に帰ってくると即座に廊下はマリファナの匂いでいっぱいになった。たまに火災報知器が鳴って住人たちは厳寒の戸外へと叩き出されるが、鳴らした部屋だけは窓から外を見てゲラゲラ笑いながらパーティーを続けていた。

のちにトランプが大統領に選ばれたのと同じ投票でマリファナが合法化されると、アパートの規約は「館内ではそれが何であれ吸うことを禁止します」と書き換えられたが、もはや合法になったマリファナの吸引を止めることは誰にもできなかった。

「建国以来アメリカはひとつの投機であった」、つまりそれは、アメリカはアメリカという社会実験をやっているということに他ならない。偉大だが真に受けてはいけないということだ。

それから愛と平和を謳う連中は往々にしてルールを守らない。勉強もあまりできないし、やがて生まれてくる子どもはマリリン・マンソンを聴いたりするようになるだろう。

*     *     *     *     *

まだ寒さの忍び寄るには間のある九月の朝にアパートを出ると、歩道に出されたゴミ袋を避けながら公園の方へ、駅の方へと歩いていく。

どう見ても土地の者ではないプッシー・ライオットみたいな女が二人、ひどい夜を過ごした様子で道端の石段に腰を掛けタバコをふかしていた。

何を思ったのか汚い袋を背負ったホームレスが紙幣を一枚差し出してそれに近づいていくと、真っ赤な髪をしたプッシーが不機嫌そうに受け取ってポケットへねじ込み、ライオットが「どこかへ失せろ」としゃがれた声で怒鳴った。

年末には東京へ引き揚げると決まった夏の終わりに移り住んだこのあたりはボストンの繁華街(ダウンタウン)にあたる。繁華街と云っても錦糸町の五パーセントぐらいしか華やかさはない。

帰国も近いから家具付きのサービスアパートへ入ったのだが、サービスアパートといっても実際にはホテル同様に数泊程度の観光客や出張者ばかりがやってきて泊まっていく。そして特にサービスはない。短期滞在者が多いので勝手が分からず、火災報知器を鳴らす奴が毎週いる。昼も、夜もだ。「おいおい大丈夫かよ」という様子でエントランスに集まる人びとのなかで、我々だけが黙り込んでいる。毎週やっているのだから大丈夫なのだ。

*     *     *     *     *

冬のある夕暮れ、クリスマスの用意をしようとアパートを出ると、向かいに立ち並んだ古ぼけたビルの隙間に小さな抜け道が口を開けているのを見つけた。

抜け道はどうやら目指す店のちょうど前に通じていると見えたが、どうして突然開放されたのかは分からない。おそるおそる足を踏み入れるとそこは小さなトンネルになっていて、裸電球で照らされた壁と天井には一面に極彩色のペイントが施されてあった。

子どもだったらこのトンネルを抜けるころ世界が一変していると想像してもおかしくない、そんな意匠はまさに子どもたちへの街からのクリスマスプレゼントなのだと理解したころ、開かれた鉄扉から向こう側へ抜けるとそこでは黒人が何かを売っており、いまではたまに買った方の奴が這いつくばって自分の唾液を眺めていることもある。当然デコ助がそのどちらかを手荒く締め上げているのを見ることもできる。

統計的にいえば、ボストンで堅気の人間が暴力に遭遇することは滅多にない。

だがアメリカでもっとも古い街のひとつであるボストンには、人類発祥の名残ともいえる暴力の痕跡がやはり残されている。

香港映画の名作「インファナル・アフェア」をスコセッシとディカプリオがめちゃくちゃにした「ディパーテッド」はボストンが舞台だが、みんな気付かないだけだ。それから僕がこのブログで何度薦めても一冊も売れない警察小説の隠れた名作「」もボストンが舞台。サウスボストンの貧しい地域ではアイルランド系の子どもとイタリア系の子どもが同じ学校に通っていて、アイルランド系が警官になり、イタリア系がマフィアになるという話が出てくる。ダウンタウンのすぐ南はチャイナタウンだが、三十年も前なら潮州からきたチャイナマフィアとベトナムマフィアが衝突するから警官が常に張っていた、とある日本人が教えてくれた。

昨年はそのダウンタウンとバックベイで、一週間に三人が射殺された。

停めた車の中で死んでいた、とかいう話もあるからとうてい強盗だとは思えない。

*     *     *     *     *

「歴史が古い」ということと「それがゆえに観光都市である」ということをもって日本の京都みたいな街だと話すひとの多いボストンだが、このたとえはまだピントがぼけていると感じる。

ボストンは建国以来、おそらく第一次大戦あたりまでは「ザ・ハブ」つまり世界の中心を名乗っており、このあたりは「メタフィジカル・クラブ――米国100年の精神史」という本を読むとよく分かる。*1その歴史はたしかに京都のそれを少し思わせるが、それ以外にふたつの街に共通することはない。

「京都にもボストン同様に大学が多い」というひともいるが思い上がりだ。京都には大学以外に何もないだけで、学生も先生も東京の方が多い。それから京都の大学で世界のトップ百位に入っている大学はおそらくひとつしかないが、ボストンにはもっとある。つまり京都にたくさんある大学がボストンにたくさんあるのと同じ「大学」かどうかという点を検証する必要がある。

全米有数の金融都市であるらしく、またいまや毎年のように優勝を飾るプロスポーツチームをふたつ*2も擁するボストンは、しかしそれでも世界中から優秀な頭脳を引きつける学研都市であるにふさわしく、やはり厚い埃をかぶったような街だ。それは結局ボストン観光のメッカであるこのダウンタウンへ来てもなお変わることがなく、自分はいま田舎町に暮らしているのだと感じながら日々を過ごしていた。

彼らは寿司が流行ったといえばずっと寿司を食っているし、ラーメンが来たといったらおそらくもう七、八年はラーメンを食っている。「流行」ということをまったく理解していない。それどころか田舎から遊びに来たアメリカ人が全員Forever21の袋を提げて街を歩いていたりする世界だ。

多くの人間は根が田舎者だということもあるだろうが、この街のひとにとってボストンは通過点であり、みんなはそれぞれに帰るところや目指すゴールがあって頭がいっぱいなのだろう。数少ない日本の知人たちも、みんながみんな判で押したようにロサンゼルスかニューヨークへと引っ越してしまった。これが日本人の略歴でよく見る「その後、ニューヨークへ拠点を移す」というやつなのだろう。

もちろんそれもいい。逆にいえばそれは、ボストンがひとの人生においてそういう大事なステップになりうる街だということだ。

だがこういう街にはバイブスがない。

たとえばネットを見ていて東京では「チーズタッカルビ」が流行っていると知った。馬鹿じゃねぇのか、とか思いながら出張で帰国すると本当に流行っている。どこもかしこもチーズタッカルビをやっているらしい。だが誰が食っているのかは分からない。ネットですら「今日チーズタッカルビおいしかった」とか云っているやつはひとりもいない。「飯何します?」と訊いても、「チーズタッカルビ行きましょうよ、いまハマってんすよ」とかいうひともいない。いったいどうなってるんだと思いながらボストンへ戻るのだが、二ヶ月後にまた東京へ出張したときにはもうチーズタッカルビは街から綺麗に消え去っている。

これこそが都会のバイブスだ、と思う。

ロクなもんじゃない。何の意味もない。だが愉快で眩しくて、胸が躍る。あぶく銭があぶく銭を呼び、弾けた奴から背景へ沈むか退場していく。それが遅れてはいけない、ひとときも目を離してはいけないという気持ちをかき立て、人々を加速していく。そうやって無駄なものが生まれ、環境が破壊され、人格がゆがめられて人類は進化していく。その原動力は都会のバイブスだ。

「それは豊かさではない」と云うひともいる。多くは僕のような年寄りだ。

だがこれが豊かさでなければ、豊かさにどんな意味があるだろう。

*     *     *     *     *

口さがない人々がお前を悪し様に云う。

だが彼らが恐れているのはお前ではなく未来であり、変化そのものだと覚えておくといい。

お前は昨日や今日の飛行機ではない。

お前は未来のために生まれてきた飛行機で、その翼が飛ぶのは明日の空なのだ。

 

未来を恐れるようになった人間はいくつであれ老人だ。

それは明日がくるのを恐れてひそひそと陰口をたたく連中だ。

飛ぶな、787

今はそんな奴らに何を示す必要もない。

お前の時代は約束されているのだから。

そしてそれこそが若いということなのだから。

オレハマッテルゼ。

二〇一三年二月二十五日

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ボーイング787は飛んだ。

その翼でいまも世界の空を飛び回っている。それがつまり、我々があの日の未来を生きているという証だ。

*     *     *     *     *

ほんとに走った。

同じ軌道のうえを1時間も。

何が変わったわけでもないけど、始めることと続けること、このふたつで人生ができているのも事実。

 

夢をみようぜベイベー

世界中どこでも空は青いはず

きっとうまくいくさ

二〇一三年一月十三日

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六年前のある日、香港のホテルにあったジムで僕は突然ランニングをはじめた。

そのとき手がけていた仕事は二年や三年ではかたちにならないはずで、自分がいま長い長い道を歩きはじめたのだと意識したとき、いくつになっても人生は「いまも続けていること」だけでできていると気付いたからだ。

そしていまも続けていることというのはすべて、過去のある日に始めたことにほかならない。

もしかしたらもう二十年ぶりぐらいだったのかもしれないが、そのころ僕はふたたび未来のことを考えはじめ、当然の結果としていまは未来を怖れるようになった。

*     *     *     *     *

もうまもなくすると日本航空の七便が僕を乗せて永遠(for good)にボストンを発つ。この四年間、機材はずっとボーイングの787だった。それでなければここまでやってはこられなかっただろう。

新年は十三日に、旧暦ではまだ年末にあたるベトナムで生涯にたった一度のフルマラソンを走ろうと思う。

新しいお話は、それからだ。

プレスファクトリー

プレスファクトリー

 

 

*1:ちなみに「スタートアップ・バブル 愚かな投資家と幼稚な起業家」という本でボコクソに書かれているハブスポットというCRMベンチャーは広義のボストンにあたるケンブリッジで創業されており、ハブスポットの「ハブ」は知らないひとには分からないようにボストンのヒストリックなシンボルを表している。

*2:ボストン・レッドソックスと、ニューイングランド・ペイトリオッツ。他にもあればご指摘に応じて付け加えるつもりだ。

ミューテッド/ベースが止まると音楽は

歌舞伎町のアンド・ケーで書籍版「新宿メロドラマ」の頒布会をやったとき、若いひとたちをつかまえて滑りまくっていたNさんというひとがいたと思うが、このひとは酒癖は少しアレだが本当にいいひとで、昔から名前はよく聞いていたものの昨年から一緒に仕事をしたりしなかったりしてよく酒を飲むようになった。声をかけてきてくれたのは彼の方なのだが、いいご縁をいただいたと思って感謝している。

こないだはそのNさんと会って話がしたかったのだが僕の日程に余裕がなく、これはもう日曜の昼から飲むしかありませんということになり「ヒカリエ待ち合わせ」としたが、エスカレーターを上がればそれは三連休の中日であって、レストランフロアは店内への案内を待つ中高年の女性グループで文字通り溢れかえるような有様であった。

「こうなるともうババアどもの予算を超えていくしかありませんね」とどちらかが云って我々はそこにあったなかでいちばん高いうなぎ屋ののれんをくぐるのだが、するとそこは案の定、驚くほどの静謐で満たされており、昼時なのに客は我々をのぞきただの一人もいなかった。

「昼時に商業ビルで待ち合わせして、どこも混んでいるときにはいちばん高い店を探せ。必ず空席がある」と教えてくれたのはかつての同僚だ。

昼から酒を飲むということに関してはいろいろと意見があると思う。

欧米人ならランチにビールかワインを多少はやってもさほど怒られないようだが、それはせいぜい社交上の潤滑油といった程度のスカしたものにすぎない。ところが我々ぐらいになると気が付けば潤滑油の池を泳ぎ回っているからその日はもうヌルヌルで一日まるで仕事にならない。強いていえば夜またひとと酒を飲むぐらいがやっとだが、この日は僕がまさにそうだった。

「つまみを考えるのが面倒」という理由でコースを取ってからデザートを断るまでの三時間半、Nさんと飲んだのはいろいろと大変楽しかったわけだが、昼から酒を入れてガンガン盛り上がる四十代の男性二名というヒカリエがまったく想定しないし歓迎もしていないレイヤーの客に文句のひとつも垂れないばかりか、「当店、もともと夜はお酒を飲みにいらっしゃるお客さまも多く」などと我々のスタイルを受け入れてくれたこの店はまったき名店というほかなく、近々再訪しようということをNさんとは昨夜も話していた*1

やはり迷惑な客は一度目で断らないといけない。でないとまた来る。

しかしそれにしてもこの日、三時間半のあいだに来たのはほとんどが完全に仕上がったアラフォー女性のひとり客ばかりで、おのおのがガンギまりの眼で昼間から生ビールを飲みながらうな重を食っていた。いったい何を考えているのだろうか*2


昼からひとと酒を飲むと思い出すのはもう何年も前のちょうど今頃の季節だ。

その頃、「ひとり営業部長」とあるひとに呼ばれたこともあった僕は要するに取引先と節目に一席設ける係であった。

その年の忘年会シーズンは最初から「これは生涯のピークになるな」と分かるペースで予定が入っており、忘年会は十一月の下旬から入り始めると十二月の平日を三十日まで埋め尽くしたあと週末に入り始め、クリスマス・イブに入り、ついにある会社の誘いを断ると「お忙しいでしょうから、うちは昼でいいですよ」とか云い出して、昼の一時から新宿プリンスのレストラン*3で忘年会をやる*4というレベルまでいった。

そして十二月も中旬にさしかかったある晩、忘れもしない歌舞伎町のしゃぶしゃぶ屋で取引先だった某JASDAQ上場企業の役員と飲んでいたさなか、僕はいきなり右の耳が聴こえなくなり、この症状は一ヶ月ぐらい続くことになる。つまり年内には収まりきらなかった忘年会が「新年会」の名で年明けにずれ込んだ、それがようやく片付く頃まで治らなかったということだ。

この晩一緒だった役員とはそこそこ長い付き合いだったが、この日はさすがに「大丈夫ですか」などと心配しつつ、大丈夫だと答えると「次へ行きましょう」と云い出して、次、つまりキャバクラへ入る前に立ち寄ったバッティングセンターで「打率の悪かった方が次の店を全部払うことにしよう」と僕が云うと豹変し、高校野球で問題になった当てるだけのバッティングで打率十割を決めて僕にキャバクラを全部払わせた*5

この役員はともかく、自分はバットも握らずに腹を抱えて笑いながら見ていた役員の部下*6についてはなかなか赦しがたいものがあったが、後日アンド・ケーのカウンターで「おまえは一度痛い目にあった方がいい」と僕に云われて八万円のワインを開けさせられており、制裁は済んでいるのでいまはもうどうとも思わない。

なお翌朝それを聞いた当の役員が「そのワイン代は経費で巻き取る」とオファーしたらしいが、彼は「いえ、これは僕のケジメなので結構です」と断り自分の腹で受け止めていたそうだ。これはゆくゆく偉くなるだろうと思っていたら最近出向先から役員で戻ったというから、やはり筋というのは大切にしなければいけない。このエントリーは最後まで読んでもあまり意味がないが、教訓があるとすればこれが唯一の教訓だ。正直あんなワインどうでも良かったので彼とはもっと仲良くしておけばよかった。


月末に本帰国を控えた最後の日本出張を終え、ボストンへ帰る機内でこのエントリーを書いている。もしかしたら、ボストン便に乗るのもこれが生涯最後かもしれない。

いろいろなひとに会いたいと思えば一週間や二週間の日程ではとても足らず、新規蒔き直しはやはり帰国してからとなりそうだ。ネットには助けられたというものの、四年半のこの隔絶は、いろいろな意味で確かに厳しかった。

しかしあの忘年会しかやっていなかった十二月を思い出すと、僕がボストンへいちど隠遁しようと決めた理由がはっきり分かる気もする。

「カネなんか持ってても幸せになんかなれない。稼いでも稼いでも、俺の欲しかった幸せは手の届かないまま、一生そのままだ」と昨夜Nさんが云っていた。こういうことは本当に稼いできたひとが云うと聞いているだけでもかなりこたえる。

あちこちから毎日のように「会いたい」と云われて忙しくしても、彼らの多くは僕ではなく僕の象徴するものと繋がっていたかっただけだ。ある時期からそんなことは分かっていたし、際限なく忘年会を繰り返したところでそれがどう変わるわけがないとも分かっていた。断ることだってできたのだろう。

だがそれでも止められないことというのがある。誰もがみんな、これは行き着く先には何もない「バニシング・ポイント」だと分かっていても、止めるわけにはいかないことというのがあるのだ。

あるミュージシャンが云っていた。

「ドラムが止まっても音楽は止まらない。でもベースが止まれば音楽は止まってしまう」

あの頃、何をやっても僕たちのベースラインは走り続け、音楽は鳴り止むことがなかった。

耳を塞いで叫び声をあげても、ボリュームを下げることすらできなかったのだ。

それがバブルということだ。

いまから十二時間が経って僕がボストンの街に降り立ったとき、クリスマスでごったがえすダウンタウンには裏返したバケツを並べて賑やかなビートを響かせるストリート・ミュージシャンたちがいるだろう。

僕はポケットの紙幣を探しながら、少し立ち止まってそれを眺めることがあるかもしれない。

それでもベースは聴こえてこない。あの頃鳴り響いていた音楽が帰ってくることはもう、二度とない。

あなたはいい、あなたは幸せなんだとNさんは云った。きっとそうなのだ。思っていたより長生きしそうだし、こうして文章を書こうという人間にもなった。ボストンで過ごした四年半は、充分に長かったというべきだろう。

しかしそれでも昨日、御苑前で信号が変わるのを辛抱強く待ちながら、僕は新宿の静けさに驚いていた。

音楽の止まった東京に戻るのだと、実感したのはそのときだ。

いまも東京のどこかで音楽は流れていて、踊り続けているひとがいる。だがその音は僕には聴こえないし、聴きたくもない。第一それは、僕たちをドライブしていたあの音楽とはまったく別のものだ。

 

東京を出てボストンで暮らし始めたとき、僕はまだ二十代のつづきを生きていたのだと思う。

ところが今回東京で帰国の準備をしているとき、突然僕は二十代も三十代もすでに終わっていることに気付いたのだ。

多くのひとにとってその後のキャリアを形づくる大切な三十代をどうやらスキップしてしまった僕がこれからどうなるのか、正直に云って少し途方に暮れている。

 

「叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえに多くの涙が流される」*7

僕の書き始めた小説は、この言葉で終わるはずだ。

叶えられた祈り (新潮文庫)

叶えられた祈り (新潮文庫)

 

*1:つまり昨夜、僕はNさんと一緒だった。

*2:繰り返しになるが、この日は三連休の中日であった。

*3:ふつうのランチタイムだった

*4:夜もまた別の忘年会がある。

*5:ちなみに「取引先」とはいうが、弊社は彼らの客だった。

*6:こいつもタダで飲んだ。

*7:テレサトルーマン・カポーティは未完の小説「叶えられた祈り」をこの言葉で書き始めた。

敗者のための一ページ/不埒な河原でバッドラックとダンスを

米国とは建国以来一つの投機であった

バブルの正しい防ぎ方」ロバート・シラー

アメリカというのはそのそもそもの初めからベンチャーであり、成功したベンチャーであり、いまや年老いたベンチャーである。

ベンチャーは生まれながらにして不埒であり、その不埒であることが人を引きつけ、うまくすれば利益の源泉となるわけだが、お気付きの通り年老いてなお不埒でありつづけることはことのほか難しく、アメリカも結構ギリギリのところにきているような気がする。

だがそれでも日本に比べればアメリカはまだ充分うまくやっており、日本社会はルールとマナーの区別が下手であるというのもあって、とかく不埒なことを嫌うものだからuberAirbnbも仮想通貨もダメになってしまった。そのうえまだ成長戦略だといってイノベーションを持って来いと叫んでいる偉い奴らがいるが、この数年おまえらが禁止したものが全部イノベーションなんだがという思いに関してはここでは語るに尽くせぬものがある。

その点、民主的な選挙を通してここ半世紀で最高に不埒な男を大統領に据えるイノベーションで社会のつまりをどうにかしようというのは考えてみれば非常にアメリカンだし、これぞベンチャーと膝を打つようなところもあろうが、もちろんうまくいくかどうかは分からない。不埒なうえに儲からず、失敗するベンチャーがほとんどであるからこそベンチャーベンチャーなのだ。これ以上は涙でかすんで書き続けることができない。

 

なんだかんだで僕はベトナムには月の半分以上滞在したことがなかったので、一歳半で母に抱かれてアリゾナから引き揚げて以来、本当の「海外暮らし」を経験したのはボストンが初めてだった。

最初はそれでも日本やベトナムを行き来していたのが、三年目からはほとんどボストンへ住み着くようになり、全部で四年半ほどになる。

しかしそれにしてもスーパーの店内で焼いているという自慢のマフィンが一個で八百七十キロカロリーをいきなり注射してくる国に四年も住んでほとんど太らずに帰るということについてはもっと評価されていいと思う。

ハゲたことにアメリカは関係ない。この原因はネットでは書けない。この話をするとだいたい同じ薬を薦められるが、俺はその薬は飲まないことに決めている。その理由も書けない。

ところで「今年は厄年だったんですけど、まぁほんとにひどい目にあって」などと云うおっさんが世の中には結構いるのだが、こういうくだらない枕で話を始める人間というのを私は従来、徹底的に軽蔑してきた。おまえは毎年ひどい目に遭っていて、それは本質的におまえ自身に問題があるのにかかわらず、今年にかぎってそれを厄年のせいにしているだけだろうということで。

しかしそんななかで自身が本厄を迎えた今年、私も果たして史上空前の記録的損失を出すことに成功してギリ致命傷で厄を祓うにおよんだわけである。それも相場やカジノではなくではなく事業の方で。まさにこれがベンチャーでなければいったい何だ、というぐらいの、それはまぁ悪い意味でベンチャーであった。

「ヘルメットがなければ即死だった」と呟いた私はおもむろに額の傷を拭うと大学を出たばかりの妻に向かって、「こんなわけであなたもそろそろ仕事を探してほしい」と持ちかけ、おかげで彼女は時給五ドルの不法就労でウェイトレスのアルバイトへ出ることになって、このように学歴を下回った就職を英語ではunder-employmentというらしいが、それを思うと私は我と我が身の不甲斐のなさにいたたまれず、泣きぬれてカフェで昼に十三ドルのサラダを食べ、しかもセルフの店で鷹揚にチップをつけたりしながら、それなりにこなれたアメリカンライフを続行中である。

これまで天国へ行くため毎日こそっと内緒でいいこともしてきたが、結局私もまた既婚男性の行く地獄へ行くのだろう。妻には天国へ行ってほしい。

 

ベンチャー供養というのをもっとしっかりやってはどうかと思う。

社会は多くの失敗によって支えられたひとにぎりの成功によってようやっと成り立っているわけだ。失敗がなければ成功は生まれない。これは失敗をしたことのないひとにはなかなか理解しくいのだが、本当にそうなんだ。だから失敗に厳しいという日本社会の悪いところは、結構悪い。

だからたった半年の短命に終わり、いままさに賽の河原で石を積む私の小さなベンチャーもきっといつかは報われて、あなたにいずれ訪れる遠い未来のある日ふとした物陰にその影を見ることがあるかもしれない。振り返ったときそこにはもう何もなかったとしても、数瞬ほど手を合わせてやっていただければ、昨日までベンチャー起業家だった私こそはもって瞑すべしというところだ。

 

ところで年始早々に新しい事業を始める用意が整ったのでご期待いただきたい。

今度のターゲットはあなた方だ。

Show must go on.

アフタヌーン新書 006 ジオン軍の失敗

アフタヌーン新書 006 ジオン軍の失敗

 

 

 

深夜を過ぎて三十分/終わってしまった戦いのあと

本当はこんなブログを書くのではなく大見得を切って予告したとおり長編小説を書かなければならないのだが、この一ヶ月ですでに三回挫折しており、これは少々方法論について落ち着いて考えなければならないぞということになったため、その間はブログに時間を投じることにした。

なお、ここしばらくは夜中に自宅で深酒をすることが多く、いろいろと実生活に不具合も生じているのだが、この原因は「小説が書けないストレス」だ。

こういうことを云うと「肩肘張らずにとにかく書け」と云われることも多いのだが、僕には書きたいものがあって、そうはならないのなら別に書けなくてもいいのでこういうチャレンジだけはこれからも孤独に続けていこうと思う。

では僕がどんなものを書きたいのかということについてはコナン・ドイルが「恐怖の谷」でシャーロック・ホームズにこんなことを云わせている。

「モリアーティはちっぽけなクルミひとつを割るのに巨大なハンマーを使う男だ。それはとてつもないエネルギーの無駄なのだが、クルミは確実に割れる」

モリアーティが僕、あなたがクルミで、僕の書きたい小説は「巨大なハンマー」です。

ちなみに僕はこんなブログにすら、毎回四、五時間もかけて書き上げているのです。

*     *     *     *     *

ボストン発の成田行きは一日に一便しかない日本航空の〇〇七便だ。冬はドカ雪が降れば遅れるが、どのみちクリスマスを過ぎれば春が来るまでボストンはオフシーズンだから満席ということはあまりなく、乗客も初めから何かいろいろと諦めている様子がある。

理由は忘れたのだが、その日僕はビジネスクラスを予約していた。たしか知人の結婚式に招かれて帰る二月はじめのことだったと思う。

窓際から二列並んだ通路側に腰掛けて機内誌を読み飛ばしていると、ちょっと失礼、とつぶやいて日本人が隣のシートへ入ってきた。

機内で隣にひとがいて得をすることはまずないから心中で舌打ちしていると、せわしく靴をスリッパに履き替えた男はこちらに顔を寄せて、「日本人ですよね?」と訊いた。

そうでないフリもできたが、のちのち客室乗務員相手に下手な英語で演技するハメになるのも嫌だ。仕方なく「そうです」と答えると、男は

「では成田までの十三時間四十五分、ひとつよろしくお願いします」

と不吉なことを云った。

僕は特に人好きのするタイプではないが礼儀正しい振る舞いは身につけているので、「よろしくお願いします」と会釈してみせたのがよくなかったのだろう。

男の話は、まだ食事も出ないうちから始まった。

ボストンへはお仕事ですかと尋ねるので、こちらに住まわっているので一時帰国だと応じると、そうですか自分はこれこれという用事でと男は全然噛み合わない導入をやり、そのうえでもう一度こちらの仕事を尋ねてきた。

それほどおかしな様子の人間でもないので相手をしていると、どうやら男は市井の教育者ともいうべき生業を営む経営者らしく、ボストンに何の用事があったのかはいまいち要領を得ないが、どうやら誰かに招待されてひとに会いに来ていた帰りということのようだった。

ビジネスクラスは、あなたはこれマイルで乗ってるんでしょ?」

そうです、と嘘をつくと、そうだよなと納得したような顔で頷いているので手を上げようとしたとき、客室乗務員がやってきて食事の前のアルコールを勧めた。

「赤ワイン」

乗務員がグラスを取り出すと、男はボトルを見て伸ばしかけた手を引っ込め、「テイスティング」と云った。

突然のことに戸惑いながら見ていると、男は受け取ったグラスから立ちのぼるアロマを嗅ぎ、うんいいね、オーケーと云った。

付き合ってやろう、と腹をくくったのはそのときだったと思う。

当時はまだ派手だったJAL機内食へ嬉しそうに文句を付けながら、男はよくしゃべった。

僕は僕で酒も入れたし、ひとと食事をするのは何より嫌いだとはいえ機内のことで差し向かいでもない。耳だけは相手の方へ向けながら、いい頃合いでウィットに富んだ合いの手を入れる僕は、実は昔から「親父キラー」で鳴らした接待上手であった。

男と僕は十年ほど違う大学の同窓だと分かり、そのとき僕がたまたま手を出していた教育関連の事業について知っていることを話すと、男は一気に天井まで吹き上がった。

彼の長広舌から伝わる教育理念と経営方針にはわざわざ賛成しないけれども、それなりにリーズナブルなものだとは感じた。ただ、男が本当のことを云っているのかどうかが分からない。大きすぎるスモールトークの問題はこういうところだ。

やがて男は自分自身の人生を振り返り始め、父親との確執に触れた。男と僕とのもうひとつの共通点がそこにあった。

男の老いた父親と僕の父親は同じ大学で教鞭をとっていたことのある研究者で、父子のすれ違いが思春期で片付かなかったのもまったく同じだった。僕が少し自分のことを話したら、男は嬉しそうに頷きながら聞いた。

「あの大学に親がいて、本人はこちらの大学へ行くというタイプの親子がそうなるというのは分かる気がするんだよなぁ」何杯目かで白ワインに変えていた男は云った。

「それでもう、きみも疲れちゃったでしょう。人生のエネルギーを昔から父親との戦いに吸い取られて、自由になったときにはもうヘトヘトになっちゃって戦えない。僕もまったく一緒」

思いがけず、それはその通りだった。

その日を遡ること数年前、ひとり実家へ戻り、「どんなにダメな子でもおまえは俺の息子だ、心配するなといちどでいいから云って欲しかった」と伝えて和解を申し入れたとき、三十二歳にもなって僕は父親の前でむせび泣いていた。

僕は父親の手を逃れるために道を選び、道を外れ、本当に大変な思いをして生きてきて、そのときにはもう疲れ果てていたからだ。大学院をドロップアウトして、就職した先を辞めて、めちゃくちゃに働いてひとを傷付け、自分も傷付けて取り返しの付かないことをして、大金を稼いで大金を使って、僕は幼い頃から自分を否定してきた父親の人生を、圧倒的な力で否定し返そうしていたのだ。

そうしてその先に、僕がもういちど結婚をすると決めたその結婚式に、父は来ないと返事をよこした。これだけ長いあいだ戦ってきて、父からはやはり否定しか引き出せないのだと知って、僕の心は折れた。

「そうやってたったひとりの息子を無き者のようにして、生意気だから結婚式も断ってやったと云いながら、そうしてこの先ずっと生きていって、あなたは幸せに死ねるのか。幸せな人生だったと云えるのか」

泣きながら、喉の奥から絞り出す言葉に父は何も云わなかった。

 

おまえのお父さんから手紙をもらったぞ、と当時の社長が云ったことがあった。

それはさらに四、五年も前のことで、僕の初めの結婚式で社長が主賓の挨拶を務めてくれたあとだった。

あいつは余計なことにばかりきっちりしていますから、と応えると、社長はまぁそういうなよと笑っていた。

なんて書いてありました?と訊くと、社長は「教えない」と云ってまた笑った。

「ただなぁ、こんなことは書いてあったぞ。

 息子は作家になりたかったんだけど、親がそれを理解しなかったので家を飛び出して知らないところで暮らすようになってしまった……。

 なんだおまえ、家を出奔して行方知れずになってたのか?」

すべてが的外れだ、と思った。

そのうえそれを俺ではなく、社長のところへ勝手に手紙でよこしている。

だが、僕が作家になりたくて二十代で親を捨てたのだという結論を父が導き出していたことはその時知った。

*     *     *     *     *

散々に食い散らかしてデザートにチーズの盛り合わせまで取り寄せた男は、機内が減光するとさっと毛布をかぶって寝てしまった。成田に着く直前にようやく眼を覚ますのだが、その後は終始言葉少なで、ろくに挨拶もしないまま別れることになる。

翌日、受け取った名刺にあるメールアドレスへメールを送ったが、二年経っても返事はない。

*     *     *     *     *

僕が涙を流して懇願したあと、父は披露宴への出席を承諾し、当日は関西から東京へ日帰りした。

それからいまも、僕と父は関係修復の途上にある。

だが僕たちにはそもそも何を修復すればいいのかが分からず、それは想像上の動物を完成させようという作業に似ている。それでももうふたりには時間がなく、失敗はできない。

最近、どんな話の流れだったかは忘れてしまったが、キッチンのテーブルで酒を飲んでいるときに、夜半も近い電灯の下で父が自分の子育ては間違いだったと認めるようなことを云った。

子どもは子どもらしく育てばいい。学者の親は人生を答えのない探求の旅だと教え、終わることのない試練へ幼い子どもを追い立てようとする。そんなことをする必要はない。子どもは親のもとで安心して育てばそれでいいのに。

どうやらいくつものうまくいかなかった家庭があり、父はこの十年にいくつかの不幸な死をすら見てきたらしかった。

そして僕に関しては詫びはなく、ただ「おまえは俺の失敗した子育ての結果だ」と伝えられただけだ。

だが僕にはそれが、自分が何十年も必死になって追いかけてきた勝利なのだと分かった。

達成感も高揚感もなく、ただひたすらに虚しいだけの勝利だった。でももうその先に目指すものは何もなくて、いままでずっと僕を駆動しつづけてきた巨大な歯車がぐるっとゆっくり一周したあと、静かに停止した。あとにはもう動くものは何もなかった。

ゼロ・ダーク・サーティ」のラストシーンで女性分析官がただひとりC130に乗り込み、「どこへでも行きたいところへ連れていく」と云われているのに、行くべきところが見付からず、朝陽を浴びて静かに涙を流すところを思い出した。

ビン・ラディンの死んだ世界にまた日が昇り、僕たちは新たな一日を始めなければならない。

物語はもう終わっているのに。

*     *     *     *     *

僕は長い時間をかけて、自分の人生を一個の目標をもった巨大なマシンに作り上げてしまった。

いまは失われた目標のあと、小説を書くこと以外にこのマシンを救ってやる方法はないと感じている。