JALやANAといった日系の航空会社ならいざしらず、米国系のエアラインで飛んでいるときに「和食」をチョイスする奴はいない。
従ってノースウエスト001便が弾道飛行で空港を発ち、私がホランドの真似をして「ハイアー・ザン・ザ・サーン!」と叫んでから1時間が経とうとした頃、食事を尋ねられた私は迷わずビーフを採る。
しかるに唯一日本人の乗務員が私の脇に跪いて許しを請うた。用意された食事の数が希望に沿わず、和食へ変更することを承諾してはくれまいかと。
おやおやこれはおかしいではないか。
メニューの但し書きに「和食のご用意には数に限りがあり、ご希望のお客様は次回から事前にご予約ください」とまであるからには、和食のユニットはむしろ不足するはずなのだ。
しかしものには理由があるのだろう。
いずれにせよノースウエスト/デルタ連合にこの日まで好意的であった私は不本意ながら、しかし極めて紳士的に和食へのコンバートを受諾した。
10分後、運ばれてきたトレイのうえには灰色のさやえんどうを紙粘土で固めたものと、橙色の麩だかハンペンだか(と云うかなんだ?)を衣で揚げて刻んだ(なぜ刻んだ?)ものの鉢に、竹の皮で包んだままたったいまレンチン(レンジでチン)したばかりの四角い白飯、サーモンの刺身と思しき皿に汁椀が並んでいた。
大変なものがきてしまったという感覚を、理性が拒絶した。
その間の抜けたビジュアルに涙を流してひとしきり笑い転げたあと、私は意を決して箸をとる。
紙粘土はちゃんと紙粘土の味がした。
サーモンはしょっぱかった(いいか、鮭は塩をしたら焼くのだ。刺身にしてはいけない)。
橙色のものは結局何かわからない。メニューをみたらカタカナ3文字の何かだったが、それでも何かわからなかった。
汁椀の底には溶け残った味噌のペーストがたむろしていた。「あさげ」だが「ゆうげ」だか、その手のものを急いで溶いたのだろう。
理性が判断を停止したとき、ひとの示す反応は笑いか怒りだと聞いたことがある。
一気呵成にここまで食い終わったとき、私は第2フェーズにいた。
この食事に、食事としての価値がないなどと云うつもりは毛頭ない。
しかしノースウエスト/デルタ連合にはこの日、立ち止まってよく理解しなければならないことがあった。
ビジネスクラスで提供される食事には、健康で文化的な最低限度の品質が期待されている。
この期待の対価として彼らはビジネスクラス料金を申し受け、もって経営を成り立たせては機材の健全性を維持している(旅客機のフライトはエコノミークラスが満席になっても黒字化しない)のだ。
すなわちビジネスクラスの品質への期待と信頼は彼らの経営におけるコア、存在の本質を占めている。
翻って鑑みるに、ロサンゼルス発成田行きのノースウエスト001便で提供される「和食」ユニットはビジネスクラスで供されるべきサービスの品質に達してないばかりか、彼らはおよそ日本中のどこへ行ってもお目に掛かることのできないような空想上の代物を「和食」と称して客の前へ並べている。
これはエアラインである自らのいわば本質を穢すも同然の行為であるし、また顧客に対しては「ビジネスクラス料金」についての新たな説明こそ必要になりかねない事態だ。
厚顔な彼らが手をゆるめることなく「豚肉のしょうが焼き」名義のメインコースを運んできたとき、私は
「That's enough !」 (もう、たくさんだ)
と云ってナプキンを投げ捨てた。
お仕着せの男はアメリカ人特有の間抜けさで
「Keep it for dessert..」 (ナプキンはデザートのときまでとっておいてください)
と応じた。
「No. I've finished. Take them away !」 ( 違う。もういい。皿を下げろ)
チョビひげの乗務員は「おなかが空いていないのかな?」ぐらいの無邪気さで皿を持ち去り、二度と帰ってこなかった。
* * * * *
折しもノースウエスト/デルタは合併後の日本発着便機内サービスの水準を模索しているらしく、成田空港でアンケート用紙が配られた。
私はこれが乗務員の責めに帰すべき問題でないことは無論のことであるから、この日の「和食」メニューについてノースウエスト社員と直接意見交換する機会をいただきたい旨を記し、匿名のアンケートにわざわざ名前と電話番号を書き添えて郵便ポストへ投函した。
航空会社である自分たちの職業意識と誇りにかけた真摯な回答と誠意ある対応を彼らから得られるその日まで、この連載は続く。