新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

「彼のアクセントが私には理解できません」と彼女は云った。



新宿メロドラマ。-ノルシンディ


驚いたことにその村には学校があった。


しかし読み・書き・算盤のそのどれもが役に立ちそうもない村の広場の裏手には、三つの教室を備えたコンクリート製の小さな小学校が確かにあったのだ。


ただしコンクリートは四方を囲む壁だけで、屋根は半分飛ばされてなくなっており、サイクロンがくると残るのは壁だけ、そうするとまた屋根を葺いて使うのだと同行者の1人が説明してくれた。たしかに教室の壁をみると大人の膝の上ぐらいまでが黒く汚れており、洪水がくるとこの学校もまた全く機能しなくなることが伺えた。




「彼らにとってコンクリート製、二階建ての校舎が非常に重要です。まず木造だとサイクロンによって吹き飛ばされてしまうので、風に耐えるためにコンクリート製であるということ。次に洪水の季節に地域の住民たちが二階や屋上へ避難し、生活するためのシェルターとして役に立つよう、二階建てであることが必要なのです」Aさんが今朝のブリーフィングで教えてくれたことを思い出した。


贅沢を云えるような環境ではないにしろ、しかしこれでは青空教室も同じことだし、学校はこの村で唯一のインフラストラクチャだ。知的財産にせよ物資的財産にせよ、まず洪水によってリセットされないものをこのインフラのうえに築き始めないことには、この村は永遠に1年の命を繰り返すカゲロウであり続けるだろう。




壁に描かれた画や、英語の文章、なにより泥だらけの教室のなかでも綺麗に磨き上げられた生徒たちの長机を見ていると、ここで教鞭を執っている先生に会ってみたくなった。


この村の3人の先生は、一番奥の教室で待たされていた。


Nice to meet you. いずれも20代とおぼしき若い先生で、女性が二人に男性が一人。バングラデシュ人にしては綺麗な英語を話した。明らかな、高等教育の痕跡だった。




「この学校では日曜日から木曜日まで授業を行っていて、今日は土曜日なのでお休みです。教えているのはベンガル語、英語、数学、理科、社会、道徳、イスラムの七教科です」


女の子と云っていいぐらいの若い女性の教師が緊張した面持ちで説明をした。


彼女たちはこの村の出身ではないのだろう。形ばかりとはいえ学校が作られたとき、政府がこれを認定し、教師の派遣を決めたのに違いない。とてつもなく高度なカリキュラムに思えたが、この村ではそれは同時にとてつもなく浮世離れしたものに思われることだろう。


「生徒たちはどのくらい遠くから通ってきますか」


T氏が英語で尋ねるとAさんがベンガル語に通訳した。


「10kmぐらいです」ということはこの「村」は半径10kmの範囲に散らばる集落をもち、ここはそのひとつだということなのだろう。いずれも雨が降ったら消えてなくなる中州か浮島のような土地のうえだ。


「子供たちはなぜ学校に通ってくるのですか。子供たちの親はなぜ子供を学校に行かせようと思うのですか」


T氏が英語で直接尋ねると、彼女は怪訝な顔をしてAさんの方を向き、その整った英語で訴えた。




「私は英語は分かるのですが、彼のアクセントを理解できません」。




ダッカから議員を含む大勢の取り巻きを引き連れてやってきた日本人を前に、彼女はこう云ってのけたのだった。


動揺するでもなく、言い訳をするのでもなく、教育を担う者として自らの能力に欠如のないことをはっきりとことわった彼女の矜持に僕は感心した。


コメを育て、牛を屠ることができれば他には何も必要とされず、それが何百年も続いてきたこの村で、フルスペックの七教科教育を行っている自分と自分の政府を彼女は誇りにしていた。そしてその誇りを傷つけぬよう、彼女はT氏のアクセントが変則であることを指摘したのだ。




T氏がどう思ったかは知らない。ただ彼はAさんに「ベンガル語で伝えてくれ」とだけ云った。


AさんがT氏の質問を伝えると、彼女は堰を切ったように話し始めた。


それはAさんの(すでに公平な口述者としては脛に傷を持つAさんの)通訳によればこういうことだった。




親が子供を学校へやるのは、教育によって生活が向上すると考えるからだ。


教育を受けることで子供は親とは異なる職を得ることができる。それによって賃金を得ることができるようになるのだ。


ここの生徒たちの親にとって、子供を学校にやるのはそれが理由だ。しかしそれでも多くの親はまだ教育が生活を変えるということ、向上するということを理解できないでいる。


教育が暮らしをよくするのだという「希望」を持つことができれば、子供を学校に行かせることも多くなるだろうし、様々なことがうまくいくようになるだろう。


だが実際にはこのあたりでは教育の前に考えなければならないことが多すぎる。


まず「食べるもの」がないこと、そして「医者がいないこと」だ。


そうした問題に対して教育がどのような役に立つのか、彼らには理解できない。


だから教育の話をする前に、まず食べるもの、次に医者だろうという話になるのだ。




さもありなんと僕は思った。


教育が生活を向上させるという現象の大前提は「産業」だ。


教育を受けた子供たちは産業社会に送り込まれ、「歯車」として稼働し、利潤を生む。


その利潤が労働力である彼ら自身にも分配され、彼らの生活は向上する。


このように近代的な教育は子供を産業社会のプレイヤーとして育てるために存在するのであって、彼女が提供する七教科教育というのはまさに近代的な教育カリキュラムそのものなのだから、その後彼女の生徒たちは産業社会にデビューしていかなければならないのだが、いかんせんこの村は「都市」から離れすぎている。




「教育が生活を向上」するのだという彼女の教条は、そもそも都市や産業といったトピック自体が「ぶっ飛んだ」話であるこの村において、おそらく空文化している。仮に子供が都市に出たって、その子供がどんな生活をしているものやら、それが果たして「向上」なのかどうなのか判断するのは、この村の住民にとってひとかたではない。




おそらく今のところと、僕は推測した。親が子供を学校に行かせる理由の最たるものは、どうやら国が支給しているらしい胴衣のような制服と、七教科に含まれている「イスラム教」、この二つだろう。


給食があれば三つ目の理由になるかもしれないが、この村の学校に給食はない。


だがそういう意味で「給食」というのは政策として悪くない。




礼を云って教室を出ると昼食の用意ができたと知らされた。


外食は命がけになるので我々の食事はAさんの仲間の手でダッカから運ばれてきていると聞いて驚く。


昼食のテーブルで僕はバックパックをひっくり返すと、なかから伊勢丹の紙袋をふたつ取り出してAさんに託した。


「これはわずかですが子供たちへの贈り物です。あなたから先生方へ渡してください」


Aさんが慌てて僕に耳打ちした。


「野良パスタさん、我々は明日も別の小学校を訪問する予定です。ここでふたつともあげてしまっていいのですか」


僕はうなずいた。「どうぞ、あげてしまってください」


若い先生たちが日々この状況に向き合い続けていることを思えば、こんなものいずれにせよたかが僅かな文房具だ。それをふたつに分けたからと云って、二度も礼を云われるようなわけにはいかない。ここへ全部置いていこうと思った。




あきれたことにAさんは気を利かせて割り箸まで用意してきていた。


有り難くこれを使ってピラフを食べていると、逆に食べにくそうで見かねたらしく、「野良パスタさん、どうぞフォークで食べてください」とささやいてきた。


"It's OK."(いや、いいんですよ) 僕は答えた。"I'm trying to show them I'm Japanese."(僕が日本人だってことみんなに気付いて欲しいんで)

村人からの差し入れだと云って、何かの鉢がテーブルに置かれた。Aさんの顔を見ると、Aさんは悲しそうに首を振った。"It's not safe."

村人の心づくしも我々の胃袋には合わないだろうという。誠に心苦しかったが、まだ旅は長い。気概をみせてダウンするわけにはいかない。