新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

カトマンズの夢。


新宿メロドラマ。-ノルシンディ・見送り日が傾いていた。
川下りにかかる時間とあの渋滞を考えると少し長居しすぎたようだった。
兵士が露払いをしたあとの道をそそくさと歩み、村を後にする。みぞおちのあたりが砂袋でも?んだかのように重く感じた。
僕はいったい何を見たのだろうか。
村に入ったそのときから、かりそめにも自分自身の世界観を書き割りがごとく相対化されてしまったものだから、考えがまとまり始めるのに時間がかかった。
正直に、僕はT氏にそれを伝える。
「国際開発や国際支援について考えるとき、僕にはひとつのポリシーがあるんです。それは『入口において情緒的に、実施においては合理的に』ってことです」
それは私も同じですとT氏は応じた。入口で考え始めると、何が正しくて何が正しくないのか、わからなくなってしまって「何もやらないこと」だけが少なくとも「悪ではない」ということになってしまう。
そう、それはニヒリズム・・・・・・ニヒリズムだと思うんです。
僕は唐突に10年近く前のある夜を思い出している。

*     *     *     *     *

「国際開発ってのはつまり、環境破壊、文化破壊と裏腹ってことか。世界中の都市をひとつのタイムラインに載せちまって、同じ方法論で開発していこうって話じゃないのか」
厳しいな、お前はと幼なじみの男は云ってウイスキーに口をつけた。
彼はもともと理屈っぽい性質で、そういう意味では僕らは水と水、油と油に近かったが、それがよかったのか中学生の頃から気は合って、大学に入ってからはたまに会う度どちらからというでもなく喧嘩まがいの議論をふっかけ、一晩中重箱の隅をつつきながら酒を飲んだ。
「国際開発」という学問領域があると知ったのは、彼が国立大学のそうした学部に進学したときが初めてで、折に触れ話を聞くことでようやく理解したのは、「国際開発」が発展途上国を経済的にテイクオフさせるために必要な支援を政策的に行うことを指し、学問としての「国際開発」は国連その他の国際機関や、専業コンサル・商社に人材を送り込むための重要な土壌になっているということだった。

井戸を掘って水を確保し、食料の自給を果たし、教育を行って知的エリートを育てる。
その国に適した産業を設計し、教育を終えた人材を送り込み、貿易によって国際経済への接続を果たす。
インフラを整備して国際競争力を高め、国富を蓄え国民の福祉を向上する。

おそらくすべての発展途上国はこれらのステージのどこかに位置づけられており、それを次のステージに進めるために必要な設計や助言を行うことが、どうやら彼の目指す職業らしかった。

「ネパールの山んなかに電気が通ったってCMあったけど、ありゃ例えば国際開発のひとつの象徴というか心象風景だろ」
僕がからむと、まぁそうだと彼は認めた。
「けど、どうよ。電気がきたらそりゃ明るくなるし便利になるかもしれんわな。けど便利になれば人がたくさんくるようになって環境・風土、これはまず変わっちゃうだろ。それからテレビが観られるようになって価値観が均質化されるな。伝統は弱まっていくよ。代わりに採用されるようになるお仕着せの自由主義な、これが今度は国民性を破壊するぞ。こうなってお前、電気通したことを、あれは俺がやったんだなんつって誇れんのか」
彼は僕が議論をふっかけると決まって僕のタバコを吸った。ぷかーっと煙を吐くと、彼はいつになく静かな口調で話し始めた。

おまえの云うことはよくわかるよ。よくわかるし、そう云って国際開発というアイデア自体を白い目で見る人が少なくないのも事実だ。
だけどそういった議論は物事をマクロに考えすぎている。物事を引いて見過ぎているんだ。
ネパールに、ヒマラヤの山麓にある村に電気が通るだろ。そうするとまず何が起こる。出産時にいままでなら諦めなくちゃならなかった妊婦を手術することができるようになるんだぜ。
この世に響かなかったはずの産声が、あがるようになる。失われた子供の命を嘆く母親の悲しみがひとつ、この世から消えるんだろ。それはどうなんだ。そのことひとつをとってみろ。それは善か、悪か。その後に社会がひずみを生じるから、国民性が変容するから、じゃあその手術は、その命が救われることは悪なのか。母親の悲しみは諦めることが善なのか。
考えなければならないことはたくさんあるだろう。でも俺はそこで命が救われているという事実の善性をまず信じる。
どんな理由や理屈をもってしてもひっくり返すことのできない、このシンプルな善。それが俺の立場だ。

こう聞かされて僕は、自分がリアリズムを語っているつもりが、実はニヒリズム、行動しない者の論理を語っていたことに気付く。
リアリズム(現実主義)もアイデアリズム(理想主義)も主義であることに代わりはない。主義は態度を決めるけれども、行動を担保してくれはしない。
行動する者は行動するために、何か別のものが必要なのだということを、そしてどうやらこいつはそれを見付けたらしいことを僕は知った。

*     *     *     *     *

三年後、また僕が話している。
友人があの晩語った「行動する理由」について。それがあまりにもシンプルで、僕にはそれ以上何も云い返す事ができなかったということについて。結局のところ、行動しているのが彼であって、行動していないのが僕であるということに過ぎないのだと思い知った夜について。

僕たちは引っ越したばかりで、新しい部屋にはまだ照明も届いていなかった。
もう日はすっかり暮れていたがカーテンのない窓からは周辺のビルが照らす灯りが差し込んでいて、首都高の向こうで看板が輝くたびに部屋は深いブルーに染まった。
彼女は酒を飲まなかった。ただ広い窓を背にしたソファに腰掛け、荷ほどきを終えたばかりのリビングで缶ビールを飲みながらそんな話を始めた僕をじっと見て、タバコを吸っていた。

「野良パスタくん、それは違うわ」僕が話し終えると彼女は静かに云った。「あなたのお友達は間違っている」
僕は少し驚いて聞き返す。じゃあ君は、その母親の悲しみを捨ておけって云うのか。だが彼女はそれには返事をせずに続ける。
「大勢の子供が死ぬところには、母親の悲しみを癒すための儀式があるのよ。電気なんかがなくたって、昔から母親の悲しみはそうやって癒されてきたの。お友達はそれを知らないで、自分が悲しみを救ったと思っているだけ」

二ヶ月後、彼女は炊飯器と掃除機と電子レンジを持ってその部屋を去っていった。
僕が悲しんだのは、彼女が持っていったものがすべて彼女が自分で買ったものばかりだったことだ。
僕は会社に連絡をいれることもせずに、二日間歩き続けた。
夜になるとホテルの最上階へ登り、ひとりでウイスキーを飲んで泣いた。
へべれけに酔うと下の階に部屋を取り、朝まで寝るとまた歩いた。
3日目の朝、僕はデパートでワイシャツを買い、その場で着替えると着ていたものを捨ててくれと店員に頼み、山手線に乗って出勤した。
それから6年になる。

*     *     *     *     *

どうやら何もせず、何も云わずに外国人たちは帰る気になったらしいと分かると村の関心は退いていったが、それでも船着き場には50人ばかりの村人が見送りにきた。
モーターボートに火が入り、暮れ始めた河を僕たちはくだり始める。
大きな河のまんなかを、小さな手こぎのボートが一艘、ゆっくりと遡っていくのにすれ違う。
船を漕いでいるのは痩せぎすの少年だ。
そんなにのんびりしてたんじゃ、家に帰り着く前に日が暮れちまうぞ。人家はおろか灯りのひとつも見あたらないこの一帯の様子を僕は案じる。
船底には少年の小さな妹が起ち上がって、轟音と荒波を立てながら河を下っていく僕たちを見送っていた。
あんなにスピードを出したんじゃ、世界の端から落っこっちゃうんじゃないかしら。
もしかしたら彼女はそう思っていたかもしれない。

18時ちょうど。日暮れと同時に僕らの船は、出発したあの川岸に到着した。