新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

「貧しい人々」。

車がダッカ市内の街角を曲がると、そこに突然「貧しい人々」がいた。

Aさんは彼らのことを"poor people"と呼ぶ。彼は頻繁に"poor"という言葉を使うのだった。

知らない町でその一帯の「雰囲気」を正しくつかむのは簡単ではないが、ここも僕の目にはごく普通の商業エリアあるいはそのはずれにしか見えなかった。

だが道脇の壁沿いには、ボロ布を張っただけのテントかまたは東京で云う「段ボールハウス」みたいなものが延々と向こうの方まで続いており、これがAさんの云う「ダッカの貧しい人々」の暮らしぶりなのだった。

新宿メロドラマ。-服を配る


ドライバーが車をUターンさせて、彼らの住まう歩道の脇へ着ける。

近くにあるダッカ市評議員事務所からT氏とその仲間が集めた古着の詰まった段ボールが運び出されてきた。T氏たちはこうして貧しい人々に毛布や衣類を寄付しているのだ。

Aさんたちが服を配り始めると、すぐにそこには列ができ、列はすぐに崩れて人々は我々の周りに群がり始めた。兵士が笛を吹いて制止するが、次々と手を伸ばして配られる古着をひっつかんでいく者は後へ退く気配もない。

「これは贈呈式じゃない。ただの寄付なんだ。もったいぶらずに早く配ってしまえ」T氏が指示を出す。

人々は無言のまま近づいてきて、それが男物だろうが女物だろうが、あるいは子供服だろうとも構わずに古着をつかんで人の輪を離れていく。

15分もして段ボールが空になると、ボディガードに導かれて僕は車にもどった。評議員事務所の男がT氏と言葉を交わし、車の窓から手を差し入れて僕と握手した。

農村で僕がみたものは貧しさですらなかった。だがアスファルトの歩道で営まれる生存への試みはまぎれもなく貧しかった。東京のホームレスとは違って子供も含めて一家もろとも路上生活というケースが多く、それが僕の「ホームレス」概念にかみ合わずに想像力がきしみ声をあげる。


土産物ばかりを売る店で買い物を済ませると、いよいよバングラデシュで最後の所用となるAさん宅での「お茶」に向かう。時刻は夕方の6時を回っている。

ダイニングへ通されると「お茶」だと云われていたのはほとんどフルコースといってもいいディナーで、要するにAさんが強硬に我々を招待した理由はこれなのだった。

「もう食べられないよ」T氏は云うが、女の子が生まれたばかりのAさんの奥さんがすでにかいがいしく食事の準備を進めている。無駄な抵抗だ。

僕もまさか数時間で二度もバングラデシュ風の歓待を受けるとは思っていなかったからすでに胸はいっぱいだったがAさん一家の安寧を祈り、フォークを手にした。T氏は「腹がいっぱいだ」と、都合7回口にした。

奥さんの目の前で僕の皿にサラダが盛られる。僕は目でAさんに助けを求めるが、Aさんはサラダを見つめたまま凍り付いて動かない。僕は彼の安寧のため、サラダを平らげる。


食後にはちょっとしたサプライズがあり、T氏と僕は三日間連れ添ってくれた仲間たちと別れを惜しんだ。

「あなたたちがあの農村を訪ねてくれたことに感謝しているよ。我々のことを、バングラデシュのことを忘れないで」

もちろんだと僕は答えて握手を交わす。

駐車場ではボディガードとの別れが待っていた。

三日間T氏と僕の安全を守るために毅然として任務にあたってくれた4人だ。敬礼する彼らに心から感謝を伝え、握手した。


空港へ向かう道々の渋滞にはもはや親しみさえ感じられ、おかしなことにバングラデシュへの名残惜しさはその大部分がこの渋滞にあるようにすら思った。ドライバーは変わることなくクラクションを叩き、周囲の車を煽りながら前へ前へと進んでいく。ピカピカのトヨタはどんなにきわどくても決して他の車やオートリキシャにはかすりもしない。

新宿メロドラマ。-ドライバー


空港で車を降り、最後に仲間たちと別れの言葉を交わす。Aさんが小学校の子供たちから預かった風景画の額を渡してくれた。

僕は運転席へ回り、ドライバーに礼と称賛を伝えた。心からの称賛だった。

「あなたとあなたの車の写真を撮ってもいいかい」と云うと、ドライバーは唾をつけた手で髪をなでつけ、ポーズをとった。

深夜プラス1

」。と僕はまた思った。東京はまさに真夜中を回った頃のはずだった。