チャリティ・ガラのチケットを買えという話がもう十年以上前にあった。
「リーマンショック」って聞いたことがあるだろう。あの少し前のことだ。
日頃から「カネは出すなら、ただ出せ」を唱える私にとり、いくつ星のレストランで飯を食う行為は慈善ではない。原価部分がフォアグラに化けて私の胃袋に入っているからだ。*1だが、そこにはとある知人との取引があって、会社の金で参加することになったという話だ。
取引というのはこういうわけだ。
当時、うちの会社はある界隈とのつながりを求めていた。
その入口になる人物がガラへ客を集める世話役のようなことをやっている。この人物にいい顔をしたい理由のある知人が、会場で引きあわせるのを条件に二人分のカネを出せとうちへ云ってきたのだ。
「うちは行かなくたって、彼自身がよろしくやってうちとのパイプ役になってくれればそれでいいんじゃないんですか」と会議では反対したが、まぁいいから行ってこいということで社内がまとまり、私が行くことになった。
そういうわけだから払った金の領収書は経理へ回した。私の飲みたい酒ではないからだ。領収書になんとあったかは忘れたが、税務署から見ればただの贅沢な飯だから多分交際費になったのだろうと思う。
* * * * *
埼玉で税務官をやっている後輩がいる。
「因果な商売やってるな」と思わず口走ると、「ほんとそうですよ……」と漏らした。
ある朝、IT企業の若い社長の家へ税務調査で踏み込んだそうだ。
こういうとき、踏み込まれた方はまず「なにぶん突然のことなんでね」とシャワーを浴びる間税務官たちをリビングに待たせ、そのあとそこへ座らせて世間体の話をひとくさりすると相場が決まっている。
聞いていると風呂上がりの社長が後輩を指して尋ねたそうだ。
「あんたさぁ、手元に一億あったらその一億どうする?」
「そうですね……まずはやっぱ半分はちょっと貯金かなぁ」
社長は心底うんざりした顔で云ったという。
「だからあんたは公務員なんだ」
ほんとにそうだなと思いました、と彼はしみじみ云った。
* * * * *
恵比寿は渋谷区のくせに自分だけは違うというような顔をして、隠れ家的な飲食店をいくつか知っていると多少手練れの遊び人ということになるようだが、私はそもそも人から隠れて酒を飲む必要がないし、そういう街が好きかと問われればもちろん嫌いだ。
冬だった。
すっかり日も暮れた頃、仕事が長引いたという彼は荷物をさげて現れた。ガラで催されるクジに彼の会社から景品を出すことになっているという。
私はといえばいつものスーツに水玉のネクタイをしていた。
不本意な集まりに出かけるとき、私はいつも水玉のネクタイをする。これはいまも変わらない。
「おっ、オシャレですね」
それを彼は褒めた。
少し遅れていたので(彼のせいだ)彼は急ぎ足で手近なオフィスビルの化粧室へ入り、出てくるとタキシードに着替えていた。
「よくそんなもん持ってますね」我ながらあきれた声がでた。
「こういうときのためですよ」と彼。
「みんな着てくるんですか」
「男の人は結構多いですよね」
「僕がそういう手合いと喧嘩になったらどうします?」
「絶対にダメです」
タキシード?
こんなことなら私の席などとらず、やはり彼が二倍払ってもっといい席を押さえればよかったのだ。
会場外のロビーでは本当にタキシードを着た男やドレスを着た女がいて、ドリンクを片手に「ザ・談笑」という談笑をやっている。男は笑うときだけ声が大きく、女はJALのチーフパーサーみたいなしゃべりかたをしていた。
なかでも明らかに顔の広いと見える白髪の男性がやたらと大きな身振りで何かを話しているのを見付けると、
「ご紹介しますよ」彼が云って、その人物の脇へすり寄った。
「……さん、こないだお話ししてました、あそこの会社のうでさんです」
「あっ、あの!ああ、そうですか、どうもどうもどうも今日はありがとうございます」
男性はくだけた調子でグラスを持ち替え、右手を差し出した。
「IT企業でいらっしゃるんですって?いや私はITの方はね、もうからっきしダメなんですよ!」
「でしょうね」
このとき給仕長が用意の整った旨を呼ばわり、相手はおっ、では失礼と云って扉のなかへ姿を消した。
「これで終わりですか」
「印象には残ったと思いますよ」
「僕、これで帰っていいですかね」
「いやせっかくだから楽しみましょう」
彼が陽気に僕の背中を叩くと会場へと誘い込んだが、ガラ・ディナーはやはり最悪だった。
もう詳しくは覚えていないが、こちらは一口たかが知れている外野席で、ひとつ向こうのテーブルではシティのハゲたアメリカ人*2が3人、3人ともやたらと灼けた女と無限にしゃべっている。
一方の私は酒を飲むとひとつも飯が食えないたちだがワインの給仕が遅いので、ボトルをそこへ置いていけと凄んで向かいにいる彼に止められていた。
「僕のワインをあげますよ」
バカみたいなイヤリングを吊した女が順番にやってきて「ラッフルです」と云った。
「なんですか?」
「クジですよ」彼がささやいた。
「いくらですか」
パチンコならドル箱が天井へ届く金額で、確か領収書は出なかった。
ひとつづりになった番号札をテーブルクロスに広げて見ていると、なんだか無性に悲しくて悲しくて、仕方がなかった。
もったいぶった割に三皿のコースで何時間経ったかと思わされた頃、デザートが通されてラッフルの当選発表になった。セリーヌの非売品という言葉に会場がどよめき、気をよくした司会がたびたびそれを繰り返している。
「さぁさ、どんどん出てまいります!本日はセリーヌの非売品もございますのでね!」
この司会は資産の額でいえばこちら側の人間だろうが、知能のレベルはあちら側だなと思った。
「セリーヌの非売品って云ってますよ」
「凄いですねぇ」
「あんたが出した景品、靴下じゃないですか。大丈夫ですか。こいつらたぶん靴下なんか履きませんよ」
「大丈夫です。そこがいいんです」
「どこが」
云いたくないけど見てられないのでとことわると、私はラッフルのつづりを彼の手の中へ押し込んでホテルの車寄せへ出た。
震えながらタバコを何本か吸って時間を潰し、会場の席へ戻ると彼が上気した顔で待っていた。
「ラッフル当たってましたよ!」
「ほう、なにが」
「うちの靴下です!」
「えぇ……」
「うでさんいなかったんで、僕がステージへ行って」
「あなたが自分で受け取ったんですか」
無様なことをさせて申し訳なかったと、それは今でもそう思う。
コーヒーを断ってワインを飲み続けたおかげでガラが跳ねる頃にはなんとか私も酩酊していて、タクシーを捕まえると唸り声をあげながら歌舞伎町のキャバクラへと向かった。
その頃、キャバクラというのはどんなことがあっても同じ顔で私たちを待っていてくれる箱庭で、まさに今夜、私が必要としている場所だった。
店においてある私専用のライム絞りでジンリッキーを作っていると、向かいの席では彼が私の当てた靴下を開封して女の子に何か説教している。
「今日ネクタイかわいいね」とつばさちゃんが云った。
「大事なパーティーだったからね」
ふと思いついて彼の話に割り込んだ。
「ちょっとあなたその服、もう着替えてきたらどうなんですか」
少し考えてから、彼はそうしますといってトイレへ消えた。
これでいい、と私は思った。これですべてがいい。
その晩、私は靴下を店へ忘れそうになり、彼が代わりに持って帰ったというが、もちろん私は覚えていない。
「音楽が鳴っている間は踊り続けるしかない」と云ったシティのCEOが飛ぶのはそのしばらくあとのことだ。
何のためのチャリティー・ガラだったのかはもうまったく覚えていない。
「セリーヌの非売品でございます!」という司会の声と、かぶりつきの小金持ちがどよめく声だけは鮮明に記憶している。