新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

Xの墓標/ウィー・オン・ザ・トレイン

四年あまりにわたったボストン生活がまもなく終わろうとしている。

ということばかり最近はつぶやいているが、これは大変なことなのでしばらくはこの調子でやらせてもらう。

私の書いたチラシの裏をのぞいているのはあなた方だ。

 

いまちょっとしたスタートアップの起ち上げをやっていて、「やっていて」というのは先日パートナーから

「『手伝っている』という云い方が非常に気になるのでやめていただきたい。なおあなたの働き自体も全然足りていません」

というほとんどコンテキスト不明な指弾を受けたからやっているわけなのだが、この関係でサンノゼへ出張するということがあった。

無知な読者を想定して説明すると、サンノゼは米西海岸・サンフランシスコの南に位置しており、僕の住むボストンは反対の東海岸・ニューヨークの北にある。移動にかかる時間は直行便で六時間、時差は三時間だ。

週末のコンベンションだったので「前夜祭」となった金曜日の、いわゆる下りのハイウェイは死ぬほど混むそうで、壇上でマイクを握った変なシャツのVCが「俺はサンフランシスコにオフィスがある。つまりここからは3時間かかる」と云って笑いをとっていた。

パートナーに聞けば、「特に金曜はひどいですけど、基本的にこのへんのひとは三時半ぐらいになると車に乗って帰路に就きますね」ということで、このとき僕の額にアムロ=レイみたいな閃光が走り、

「つまりニューヨーク市場が引ける四時半が西海岸の一時半だからだな。その分、朝が早くて、帰りも早いというわけだ」

と看破したつもりが、彼の返答は「いや、みんな金に困ってないからですよ」という身も蓋もないものであった。

あと「渋滞もひどくなる前にみんな帰る」ということだったが、全員がそれをやってしまったら帰宅は無限に早くなっていってしまうのではないかと思った。

結局のところ本当の理由は不明だ。ただ、イノベーションのふるさとであるはずのシリコンバレーでみんなが金持ちになってしまって三時半には家に帰るということになると、これはもうここでは重要なイノベーションは生まれないだろうなと思ったので、これはまた別の機会に書く。

昨日、ウォールストリートジャーナルが「就職市場でテスラすげぇ人気」という記事を書き、にもかかわらずそのなかで話している「元従業員」がみなほとんど瞬間的に退職しているのに反発したのか、イーロン・マスク

「週に四十時間しか働かない奴に重要なことはなしとげられない」

ツイッターで吠えていた。

まぁこれはそうだと思う。

しかしそうしたらイアン・ブレマーがそのツイートの上に

「教師にはできる。教師はときに四十時間しか働かないが、とても重要なことをなすことができる。だがイーロンの云っていることとはまた違うのだろう」

というとんでもないクソリプをトッピングしていたのがすごくシズっていました。

 

しかしとはいえ金曜日はボストンでも四時前には道路が混み始める。平日だってきっかり五時から地下鉄が満員になるのだから、彼らがどれだけ仕事をしていないかはお察しだ。

ところで満員電車を東京の専売特許にしたい向きには多少あれだがボストンにも満員電車は発生していて、しかもボストンというのは学生や研究者をはじめ多くが数年程度滞在するだけの基本は田舎者のアメリカ人か田舎者の外国人の街だから、彼らは満員電車というものを知らず、それゆえ車内の最適化がまったく実現していない。

たとえばバックパックを背負ったままの若者とか、バッグを肩にかけたままの女性とか、駅で開いたドアの前にスーツケースを置いて必死で守ってる狂人がどちらを向いてもいる。

もっとひどいのはこれにアメリカ人特有の無邪気さが乗っかってくることで、駅に着いたときにはすでに満員の車両(その駅では誰も降りない)に「ちょっと奥に詰めて、乗れないから!サンキュー!」とか云いながら背中から乗り込んできて、乗ったと思ったらそのままハンズフリーで誰かと電話し続けている奴とかがいる。

さすがにこれはと思うのだが、しかしいくら地下鉄が便利だと云ったってアメリカで電車に乗っている奴なんていうのはそもそもこれは車を持てない貧乏人同士であるということだから、皆が云うだけつらくなると思ってじっとスマホの画面を見つめながら俯いているだけだ。

アメリカのもっとも哀しい姿はこういうところにあると思う。

誰かの上にある者も、どこかで必ず誰かの下であることを否応なく思い知らされるという世界。

彼らが一刻も早く家に帰りたいと願う理由のひとつもそこにあるのだろう。

暴れ回りながらキャバクラからつまみ出される小金持ちよりも、ベロベロになってホルモン屋から転がり出てくるサラリーマンの方が幸せそうだというのは、アメリカではただの感傷に過ぎない。

朝になれば必ず、金のない方がみじめな思いをする。

誰もが好んでピザを食うのではない、拒まなければピザを食うことになるだけだ。アメリカでも金のあるやつはアメリカ人には正しく発音の出来ない名前の店でカルパッチョやパエリアを食ったりしているわけだから。

だから僕もまた下手な乗り方をする乗客たちの圧倒的なスクラムを受けながら、「ま、この無作法、無教養もツイッターだと思えば日常の光景」などと思いながら変な姿勢でツイッターを開くのだが、その車両空間は実際にはツイッターではないものの、これが意外に気持ちを楽にしてくれる。

おそらく通勤に地下鉄を使わざるを得ないアメリカ人の多くも、そうやってこの極めて不本意な時間帯を乗り切っているのだと思う。

 

こうして僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていく。

 

結局のところ僕たちは、いま以上に幸せになることを怖れているのだ。

それには代償が伴うことをたたき込まれているから。

宇宙へ行けば戦争が起こり、タイムトラベルはパラドクスを呼び、仮想通貨がバブルを招く。

フェアネスを期してあらかじめ云えば、僕の答えは「ノー」だ。

だが僕たちは、もう充分に夢を見られなくなったのだろうか。

あるいは「実現してもこの程度」だという夢の方が僕たちを裏切ったのだろうか。

たぶんそうではなくて、色々なことを実現するのは結局のところ「恋」なのだ。

僕たちが恋をしたときには、色々な障壁が取りはらわれてこんな風にもなる、あんな風にもなると想像ができる瞬間があって、それがおそらく本当はすべてのフィクションの源なのだけど、僕たちは歳をとっていくし、もっと悪いことには国が、社会が歳をとっていくということがある。

僕が生まれるその昔にあったという東京オリンピックの話を聞いても大阪の万博の話を聞いても僕にはなんだかピンとこないのが、

「それが日本にとっての恋だったのだ」

と思い当たると即座に落ちるものがあって、大阪万博のあの妙ちくりんな未来がそのあと実現したかどうかなんてどうだっていいじゃないかという気になる。

あれから日本はそんな恋にのぼせて行けるところまで行って、いまは違うひとと結婚してローンもかなり残ってるみたいだけど子どもも何人かいて、まぁ幸せそうにやってる。そんな話なんだろう。

だから、いまからまたやってくるというそのふたつが「ああ、これが『老いらくの恋』というやつなんだ、もう『その先』はないと分かった人間が、まだ生きていることを声の限りに叫ぶ最後の宴なんだ」と思うと僕にはそのあと、何も云えなくなる。

その点、若者はいい。放っておいても恋をする。我々がツイッターをするしかない超密度の車両内でも誰かに恋ができる。

「自分はここにいる」と叫ばなくても、恋をするだけでそれを確認することができる。それが若いということだ。無知で、傲慢で、独りよがりな人間だということなんだ。

 

一方で僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていく。

 

イーロン・マスクが宇宙へ行くと云いだした理由が僕には分かると思う。

彼にはもう、このままでは自分には昔のように恋はできないと分かっているのだろう。

もう二度と、自分のなかから「欲しい」という気持ちは沸き起こってこない。だからいちばん手の届かないものをゴールに決めただけで、これから彼のチャレンジはすべて失敗すると思う。

だが、おそらくひとが若返るために唯一可能な手段がそれなのだろう。

 

僕の両親は父親の仕事のことがあって、七〇年代の終わりに僕を伴って少しアメリカに住んだことがあった。

ずっと時間が経ったあとに、僕が九〇年代のアメリカ小説を母に送ると、母はショックを受けたようで手紙をよこした。

「私たちがあなたと暮らしていたアメリカはあんなに輝いて、自信に満ちていたのに、それがどうしてこんなになってしまったのかと残念に思います」

それがもう二〇〇〇年代だったが、母がアメリカばかりかそのときの日本をもやはりよく理解していないのは間違いがなかった。

その時代にオーストラリアへホームステイをして、英語の教師をして、研究者と結婚をして、幼い僕を抱いてアメリカへ渡った母が、そのときにはもう、何も分からなくなっていたわけだ。

 

こうして僕たちは退行していく。

あるいは後ろ向きに、未来へと入っていくのだ。

恋する若いひとたちには決して勝てない。だがそれでも満員の電車に「サンキュー!」と叫びながら、背中から押し込んでくるアメリカ人のように、我々は乗り込んでいかなければならないと思う。

それで彼らの恋が邪魔されるわけはないのを、僕だって知っている。

欲望という名の電車(字幕版)