歌舞伎町のアンド・ケーで書籍版「新宿メロドラマ」の頒布会をやったとき、若いひとたちをつかまえて滑りまくっていたNさんというひとがいたと思うが、このひとは酒癖は少しアレだが本当にいいひとで、昔から名前はよく聞いていたものの昨年から一緒に仕事をしたりしなかったりしてよく酒を飲むようになった。声をかけてきてくれたのは彼の方なのだが、いいご縁をいただいたと思って感謝している。
こないだはそのNさんと会って話がしたかったのだが僕の日程に余裕がなく、これはもう日曜の昼から飲むしかありませんということになり「ヒカリエ待ち合わせ」としたが、エスカレーターを上がればそれは三連休の中日であって、レストランフロアは店内への案内を待つ中高年の女性グループで文字通り溢れかえるような有様であった。
「こうなるともうババアどもの予算を超えていくしかありませんね」とどちらかが云って我々はそこにあったなかでいちばん高いうなぎ屋ののれんをくぐるのだが、するとそこは案の定、驚くほどの静謐で満たされており、昼時なのに客は我々をのぞきただの一人もいなかった。
「昼時に商業ビルで待ち合わせして、どこも混んでいるときにはいちばん高い店を探せ。必ず空席がある」と教えてくれたのはかつての同僚だ。
昼から酒を飲むということに関してはいろいろと意見があると思う。
欧米人ならランチにビールかワインを多少はやってもさほど怒られないようだが、それはせいぜい社交上の潤滑油といった程度のスカしたものにすぎない。ところが我々ぐらいになると気が付けば潤滑油の池を泳ぎ回っているからその日はもうヌルヌルで一日まるで仕事にならない。強いていえば夜またひとと酒を飲むぐらいがやっとだが、この日は僕がまさにそうだった。
「つまみを考えるのが面倒」という理由でコースを取ってからデザートを断るまでの三時間半、Nさんと飲んだのはいろいろと大変楽しかったわけだが、昼から酒を入れてガンガン盛り上がる四十代の男性二名というヒカリエがまったく想定しないし歓迎もしていないレイヤーの客に文句のひとつも垂れないばかりか、「当店、もともと夜はお酒を飲みにいらっしゃるお客さまも多く」などと我々のスタイルを受け入れてくれたこの店はまったき名店というほかなく、近々再訪しようということをNさんとは昨夜も話していた*1。
やはり迷惑な客は一度目で断らないといけない。でないとまた来る。
しかしそれにしてもこの日、三時間半のあいだに来たのはほとんどが完全に仕上がったアラフォー女性のひとり客ばかりで、おのおのがガンギまりの眼で昼間から生ビールを飲みながらうな重を食っていた。いったい何を考えているのだろうか*2。
昼からひとと酒を飲むと思い出すのはもう何年も前のちょうど今頃の季節だ。
その頃、「ひとり営業部長」とあるひとに呼ばれたこともあった僕は要するに取引先と節目に一席設ける係であった。
その年の忘年会シーズンは最初から「これは生涯のピークになるな」と分かるペースで予定が入っており、忘年会は十一月の下旬から入り始めると十二月の平日を三十日まで埋め尽くしたあと週末に入り始め、クリスマス・イブに入り、ついにある会社の誘いを断ると「お忙しいでしょうから、うちは昼でいいですよ」とか云い出して、昼の一時から新宿プリンスのレストラン*3で忘年会をやる*4というレベルまでいった。
そして十二月も中旬にさしかかったある晩、忘れもしない歌舞伎町のしゃぶしゃぶ屋で取引先だった某JASDAQ上場企業の役員と飲んでいたさなか、僕はいきなり右の耳が聴こえなくなり、この症状は一ヶ月ぐらい続くことになる。つまり年内には収まりきらなかった忘年会が「新年会」の名で年明けにずれ込んだ、それがようやく片付く頃まで治らなかったということだ。
この晩一緒だった役員とはそこそこ長い付き合いだったが、この日はさすがに「大丈夫ですか」などと心配しつつ、大丈夫だと答えると「次へ行きましょう」と云い出して、次、つまりキャバクラへ入る前に立ち寄ったバッティングセンターで「打率の悪かった方が次の店を全部払うことにしよう」と僕が云うと豹変し、高校野球で問題になった当てるだけのバッティングで打率十割を決めて僕にキャバクラを全部払わせた*5。
この役員はともかく、自分はバットも握らずに腹を抱えて笑いながら見ていた役員の部下*6についてはなかなか赦しがたいものがあったが、後日アンド・ケーのカウンターで「おまえは一度痛い目にあった方がいい」と僕に云われて八万円のワインを開けさせられており、制裁は済んでいるのでいまはもうどうとも思わない。
なお翌朝それを聞いた当の役員が「そのワイン代は経費で巻き取る」とオファーしたらしいが、彼は「いえ、これは僕のケジメなので結構です」と断り自分の腹で受け止めていたそうだ。これはゆくゆく偉くなるだろうと思っていたら最近出向先から役員で戻ったというから、やはり筋というのは大切にしなければいけない。このエントリーは最後まで読んでもあまり意味がないが、教訓があるとすればこれが唯一の教訓だ。正直あんなワインどうでも良かったので彼とはもっと仲良くしておけばよかった。
月末に本帰国を控えた最後の日本出張を終え、ボストンへ帰る機内でこのエントリーを書いている。もしかしたら、ボストン便に乗るのもこれが生涯最後かもしれない。
いろいろなひとに会いたいと思えば一週間や二週間の日程ではとても足らず、新規蒔き直しはやはり帰国してからとなりそうだ。ネットには助けられたというものの、四年半のこの隔絶は、いろいろな意味で確かに厳しかった。
しかしあの忘年会しかやっていなかった十二月を思い出すと、僕がボストンへいちど隠遁しようと決めた理由がはっきり分かる気もする。
「カネなんか持ってても幸せになんかなれない。稼いでも稼いでも、俺の欲しかった幸せは手の届かないまま、一生そのままだ」と昨夜Nさんが云っていた。こういうことは本当に稼いできたひとが云うと聞いているだけでもかなりこたえる。
あちこちから毎日のように「会いたい」と云われて忙しくしても、彼らの多くは僕ではなく僕の象徴するものと繋がっていたかっただけだ。ある時期からそんなことは分かっていたし、際限なく忘年会を繰り返したところでそれがどう変わるわけがないとも分かっていた。断ることだってできたのだろう。
だがそれでも止められないことというのがある。誰もがみんな、これは行き着く先には何もない「バニシング・ポイント」だと分かっていても、止めるわけにはいかないことというのがあるのだ。
あるミュージシャンが云っていた。
「ドラムが止まっても音楽は止まらない。でもベースが止まれば音楽は止まってしまう」
あの頃、何をやっても僕たちのベースラインは走り続け、音楽は鳴り止むことがなかった。
耳を塞いで叫び声をあげても、ボリュームを下げることすらできなかったのだ。
それがバブルということだ。
いまから十二時間が経って僕がボストンの街に降り立ったとき、クリスマスでごったがえすダウンタウンには裏返したバケツを並べて賑やかなビートを響かせるストリート・ミュージシャンたちがいるだろう。
僕はポケットの紙幣を探しながら、少し立ち止まってそれを眺めることがあるかもしれない。
それでもベースは聴こえてこない。あの頃鳴り響いていた音楽が帰ってくることはもう、二度とない。
あなたはいい、あなたは幸せなんだとNさんは云った。きっとそうなのだ。思っていたより長生きしそうだし、こうして文章を書こうという人間にもなった。ボストンで過ごした四年半は、充分に長かったというべきだろう。
しかしそれでも昨日、御苑前で信号が変わるのを辛抱強く待ちながら、僕は新宿の静けさに驚いていた。
音楽の止まった東京に戻るのだと、実感したのはそのときだ。
いまも東京のどこかで音楽は流れていて、踊り続けているひとがいる。だがその音は僕には聴こえないし、聴きたくもない。第一それは、僕たちをドライブしていたあの音楽とはまったく別のものだ。
東京を出てボストンで暮らし始めたとき、僕はまだ二十代のつづきを生きていたのだと思う。
ところが今回東京で帰国の準備をしているとき、突然僕は二十代も三十代もすでに終わっていることに気付いたのだ。
多くのひとにとってその後のキャリアを形づくる大切な三十代をどうやらスキップしてしまった僕がこれからどうなるのか、正直に云って少し途方に暮れている。
「叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえに多くの涙が流される」*7
僕の書き始めた小説は、この言葉で終わるはずだ。
- 作者: トルーマンカポーティ,Truman Capote,川本三郎
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